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ヨット・ロック:AORに対する軽いノリの冷やかしから生まれた起源不明のサブジャンル
ヨット・ロックとして知られるロックのサブジャンルは、その甘美なニュアンスを愛好した者たちにとっても、一時的な流行だったとみなされているのかもしれない。たしかに、そのジャンルの立役者たちが洗練されたソフト・ロックを世に送りはじめたのは、70年代、もしくは80年代だ。しかし、数十年経ったいまでも、そのメロディアスな響きは色褪せてはいない。
おそらく、ヨット・ロックという呼び名自体は、特権的な富裕感が滲み出るアダルト・オリエンテッド・ロックに対する軽いノリの冷やかしとして使われた、その場かぎりの言葉だったのだろう。高級なレコーディング・スタジオで録音し、プライベート・ヨットで優雅な旅に出るというのが、その頃の南カリフォルニアでは定番スタイルだった。2000年代半ばには、そんなライフスタイルをパロディにした番組がネットで放映された。その名もずばり「ヨット・ロック」だ。そんなヨット・ロックを最もよく表した大ヒット曲のひとつが、クリストファー・クロスが歌う「Sailing」である。
この時代のもうひとりの主役であるマイケル・マクドナルドが、長いキャリアにおいて近年復活を遂げたのは、このスタイルの根強さの証である。つまり、すぐれた音楽性と極上のメロディに支えられているということだ。同じくヨット・ロックの立役者だったケニー・ロギンスと共作し、グラミー賞に輝いた「This Is It」から、およそ40年の時を経て、ふたりは現在高い人気を誇るジャズ・ファンク・ベーシストのサンダーキャットと「Show You The Way」で共演し、再び称賛を浴びた。それに先立ち、2017年のコーチェラ・フェスティバルで、サンダーキャットのゲストとしてマイケル・マクドナルドが登場したことも、大きな話題を呼んだ。
ヨット・ロックの出帆
カントリーから生まれたアメリカーナのように、既存のスタイルから派生したほかのサブジャンルと同じく、ヨット・ロックの起源についても果てしない議論が繰り広げられている。「Guitar Man」などのヒット曲を放った70年代初期のソフト・ロック・バンド、ブレッドだという者もいれば、同時代のデュオであるシールズ&クロフツだという者もいる。シールズ&クロフツの「Diamond Girl」(1973年に全米TOP10入り)とそれに続くシングル「We May Never Pass This Way (Again)」は、端正で透明感にあふれ、心地よい演奏と美しいハーモニーが耳に残るヨット・ロックの名曲である。
70年代半ばになり、アメリカの音楽業界でアルバム志向のロック・ラジオがいっそう重要なメディアになると、スタジオ制作の比重が高まり、制作に潤沢な予算が投じられるようになった。ハイファイ・レコーディングの本拠地であったサンセット・サウンドやオーシャン・ウェイは、音楽業界におけるロサンゼルスの快楽主義の典型となり、本稿に登場する多くのアーティストたちの活躍の舞台となった。おそらく、金銭面での豊かさと陽光に恵まれた環境から、こうした現象が生じたのだろう。しかし、こうして作られた音楽は単純に華やかな響きを持っていただけではなく、リスナーは、聴くだけでどこかあか抜けた気分になれたのだ。
カリフォルニア出身のシンガー・ソングライター、スティーヴン・ビショップも、今振り返ってみると、ヨット・ロックを形成したアーティストのひとりだと言えるだろう。忘れてはいけないのは、彼の音楽が制作された当時はまだ、「ヨット・ロック」という言葉自体が存在していなかったということだ。ビショップの1976年のデビュー・アルバム『Careless』は、精巧に作られた上質なポップ・ミュージックとして高く評価され、ヒット・チャートを追いかけることから卒業した成熟したリスナーたちが求めていた音だった。アルバムのオープニングを飾る甘いバラード「On And On」が全米トップ10入りを惜しくも逃した一方で、イージー・リスニング・チャートで2位となったという事実がその象徴である。
ヨット・ロックの高波到来
一方で、マイケル・マクドナルドはソロとしてのヒット曲「Sweet Freedom」によって、ヨット・ロックの第一人者という名誉ある(かどうかはともかくとして)地位を獲得した。しかし、ドゥービー・ブラザーズのメンバーだった頃から、まだ水面下で渦巻いていたこのムーヴメントの重要人物となっていたとも言える。
そしてマクドナルドとロギンスの共作による「What A Fool Believes」はグラミー賞2冠に輝き、揺ぎない名声を手に入れた。また、今尚評価と人気が高まっている、職人的な凄腕スタジオミュージシャンたちによって結成されたTOTOは、彼らの不朽の名曲「Africa」や「99」といった曲で、ヨット・ロックの王道を確立した。
1982年のソフト・ロックの足跡は、TOTOのアルバム『TOTO IV(邦題:聖なる剣)』によって刻まれた。今作に収められた曲の一部も、やはりサンセット・サウンドとオーシャン・ウェイでレコーディングされたものだった。ところが、スティーリー・ダンはヨット・ロック特有のライフスタイルと関わりのない場所からも、そのサウンドを作ることが可能であるということを証明した。ウォルター・ベッカーとドナルド・フェイゲンは彼らが生まれ育った東海岸に戻って、このサブジャンルへの偉大な貢献を成し遂げたのだ。
最初はライヴ・バンドとして結成されたスティーリー・ダンだが、東海岸に戻ると、繭のようにスタジオに閉じこもり、至高の曲を紡ぎだす比類なきデュオとなった。1977年にレコーディングされた傑作『Aja』は、ジャズからの影響をかぎりなく深く追求したものだった。ファンも批評家たちも、彼らを評するにあたり「完璧主義者」という言葉を使った。これは賛辞であると同時に批判でもあった。そして、1980年の『Gaucho』も、本作に劣ることのない出来栄えで、ヨット・ロック珠玉の一枚となった。
ヨット・ロックの波及効果
ヨット・ロックとはあくまで主観的な用語であるため、時にその代表的存在とみなされるアーティストであるダリル・ホール&ジョン・オーツ、ジャーニー、イーグルス、カナダのゴードン・ライトフット等は、クリエイティブな点においても、地理的な観点からも、ヨット・ロックではないじゃないかと見做されることがる。あるいは、あまりにメジャーになり過ぎたため、AORという大きな枠から抜け出すことが難しいのかもしれない。
今日ではあまり注目されることのない多くのアーティストが、ここで考察している70年代後半から80年代初期のポップ・ミュージック・シーンにおいて、自己最高の音楽を作りだしていた。エイミー・ホーランドは、マイケル・マクドナルドが作った「How Do I Survive」で 1981年のグラミー賞新人賞にノミネートされ、のちにマイケル・マクドナルドの妻となった。ブルックリン生まれのロビー・デュプリーは、1980年にアメリカでヒットした「Steal Away」で、ヨット・ロックの旗手となった。そして1982年には、70年代にその魅力的なハーモニーで一世を風靡したロック・バンドのアメリカが、爽やかなメロディーが印象的な「You Can Do Magic」で再びヒット・チャートの上位に立った。
最後は、たとえ本人にそのつもりがなくとも、ヨット・ロックの生みの親であったマイケル・マクドナルドの言葉で締め括ろう。前述のパロディ番組「ヨット・ロック」が人気絶頂だったとき、実際にヨットを所有していたのかと聞かれた彼は、残念ながらそれを否定したが、こう付けくわえた。
「僕にとって“ヨット・ロック”はとても滑稽だった。でも不思議なことに、あの番組が描き出すものの中には、ほんの少しの真実も含まれているんだ。会ったこともないストーカーから手紙を受け取った時のようなものさ。どこかしら的を射ていて、やつらの勘の鋭さを認めざるを得ないんだ」
Written By Paul Sexton
【ヨーベス(洋楽ベスト)~アンコール・プレス~】 2018.12.05 RELEASE
スティーリー・ダン『The Definitive Collection』