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ミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』の誕生秘話:ブロードウェイにかけた4人の男達の夢
史上最高かつ最もヒットしたステージ・ミュージカルである『ウエスト・サイド・ストーリー』(ウエスト・サイド物語)は、1957年のニューヨークでの激しい対立抗争と若い二人の愛を描いたクラシックな物語だ。
そんなミュージカルを作り上げた中心人物は下記の4人のメンバーだ。
・脚本:アーサー・ローレンツ
・音楽:レナード・バーンスタイン
・歌詞:スティーヴン・ソンドハイム
・原案/演出/振付:ジェローム・ロビンズ
2021年12月10日にはスティーブン・スピルバーグ監督が自身初のミュージカル作品として、このオリジナルのブロードウェイ・ミュージカルをリメイクした映画が全世界で劇場公開される(日本公開は2022年2月11日)。リメイクされる映画では、ライバル同士のギャング団、シャークスとジェッツの間の抗争に巻き込まれる若い恋人たちのトニー役を『ベイビー・ドライバー』主演のアンセル・エルゴートが、マリア役を新人のレイチェル・ゼグラーが演じる。
下記のスティーブン・スピルバーグの『ウエスト・サイド・ストーリー』の予告編を見たら、下に画面をスクロールしてその元になったブロードウェイ・ミュージカルにまつわる物語をご覧ください。
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「Maria(マリア)」「Tonight(トゥナイト)」「America(アメリカ)」「One Hand, One Heart(ひとつの心)」「I Feel Pretty(アイ・フィール・プリティ)」そして「Somewhere(恋は永遠に)」…これまでの人生で、これらの曲のどれかを一度でも聴いたことのない人はほとんどいないのではないか。
ヒット曲揃いのこの楽曲たちの他にも「Jet Song(ジェット・ソング)」「The Rumble(ランブル)」や「Gee, Officer Krupke(クラプキ巡査への悪口)」などの曲もある。これらのどの曲を聴いても、あなたは一瞬のためらいもなく言うだろう「ああそうだ、これは『ウエスト・サイド・ストーリー』の曲だ」と。
このミュージカルがシェイクスピアによる『ロミオとジュリエット』をベースにしたことはよく知られているが、このショーがその形を成すまでの長い間に、我々がよく知っているモンタギュー家とキャピュレット家の主人公たちが、最初はカトリック教徒とユダヤ教徒という異なる宗教を代表する人物たちだったことを知る人はどのくらいいるだろうか。そしてこのミュージカルのタイトルが、実は『イースト・サイド・ストーリー』となる予定だったことはご存知だろうか。
ジェローム・ロビンズの夢
実際、1949年にブロードウェイとバレエ界で著名な振付師だったジェローム・ロビンズが夢見たオリジナルのコンセプトは、彼と2名の共同制作者がこのプロジェクトの方向性について合意できなかったため、早々とボツになっていた。そこから再度集まってこのショーの実現に向けて取り組み始めるまで6年の月日が流れていた。
ジェローム・ロビンズが、若く才能ある作曲家で指揮者でもあるレナード・バーンスタインと最初に制作したのは、1944年のバレエ作品『Fancy Free(ファンシー・フリー)』だった。その後すぐに続けて、その『Fancy Free』をミュージカル化した『On The Town(オン・ザ・タウン)』(音楽:バーンスタイン、脚本・歌詞:ベティ・コムデンとアドルフ・グリーン)でも一緒に仕事をした。
その上でロビンズは、『ロミオとジュリエット』を題材にしたプロジェクトの共同制作者として、それまでにミュージカルの台本など書いたことのなかった劇作家のアーサー・ローレンツを招いた。『ロミオとジュリエット』の現代版というアプローチについては、ロビンズもバーンスタインもローレンツも、それぞれ異なった考えを持っていたが、カトリック教徒とユダヤ人の対立というテーマが既に何度も取り上げられていることには3人とも気が付いていた。
何が彼らを再び同じ場所に集めたのだろう?ローレンツはハリウッドで、エヴァ・ガードナー主演による、1934年のグレタ・ガルボのヒット映画『彩られし女性(The Painted Veil)』のリメイク版の脚本に取り組んでいた。バーンスタインはロサンゼルスのハリウッド・ボウルで指揮者を務めていた。
“宗教”から“人種”への変更と作詞家ソンドハイムの参加
ローレンツとバーンスタインが会った時、話はすぐに最近いくつかの全米の都市で発生していた人種間対立に起因するギャング間の抗争に及んだ。棚上げしていたミュージカルのアイデアを、マンハッタンのアッパー・ウエスト・サイドを舞台として、アメリカの白人(ジェッツ)とプエルトリコ人(シャークス)を主人公たちとする作品に修正するのは、ドラマの観点からは完璧に道理にかなっていたのだ。
ロビンズもその頃『王様と私(The King And I)』の映画の振付の仕事でハリウッドにやってきていた。ローレンツとバーンスタイン、そしてロビンズの三人は一堂に会して、ロビンズがラテンのビートを持ったミュージカルのアイディアを気に入ったこともあり、その方向性に合意した。
バーンスタインは歌詞と併せて、ロビンズの振付が舞台映えするための長いダンス・シーンも含めたミュージカルの曲を書き始めた。同時に彼自身の喜劇オペラ『キャンディード(Candide)』にも取り組んでいたが、結果膨大な仕事の負荷となったため、バーンスタインは歌詞については手を引くことにし、チームはバーンスタインと仕事をしたことのあるコムデンとグリーンを再度呼びよせようとしたが彼らは『ピーター・パン(Peter Pan)』のミュージカルの作詞に専念していたため、彼らの助けを得ることができなかった。さあ、誰に頼もう?
劇場プロデューサーのマーティン・ゲーベルはその頃(1955年)、最初の商業的ミュージカル『Saturday Night』(プロデューサーの急逝のため上演は中止されていた)を書いたばかりのスティーヴン・ソンドハイムという若い作詞作曲家をローレンツに紹介したところだった。
コムデンとグリーンが使えないため、ローレンツはソンドハイムにこの新プロジェクトに興味があるかと訊いたが、彼は躊躇した。というのも、次のソンドハイムのプロジェクトでは作曲と作詞の両方を担当すると決めていたからだ。そんな彼を「きっといい経験になるよ」と言って、作詞だけであっても制作に参加するよう説得したのは、彼の助言者だった作詞家・脚本家のオスカー・ハマースタイン2世だった。こうしてソンドハイムはブロードウェイ・デビューを果たすことになった。
変更、変更、変更
そんな中、ミュージカルのタイトルは、
『East Side Story(イースト・サイド・ストーリー)』
↓
『Gangway(ギャングの道)』
↓
『Kids With Matches(マッチを持った若者達)』
↓
『Shut Up And Dance(黙って踊れ)』
というように次々に代わっていったが、最終的に『ウエスト・サイド・ストーリー』に落ち着いた。
このミュージカルが作られている間、他にも多くの変更が行われた。例えば、トニーとマリアがデュエットする「One Hand, One Heart(ひとつの心)」は元々はバーンスタインの別の作品『キャンディード』で使う予定だったが、『ウエスト・サイド・ストーリー』で使うことにして、バルコニーのシーンに挿入された。
しかしハマースタインのアドバイスで、この曲はその後ブライダル・ショップのシーンに移され、代わりに「Tonight(トゥナイト)」がバルコニーのシーンのために書かれた。作品に必要な緊張感を和らげるためのコミカルな感じを加えてくれた「クラプキ巡査への悪口」の音楽もまた、元々は『キャンディード』のために書かれたものだった。(以下は映画版での「トゥナイト」)
ようやくの上演と大成功
『ウエスト・サイド・ストーリー』が完成に近づいていた1956年の秋には、プロデューサーの確保が必要な時期になっていた。ロジャー・L・スティーヴンスがその役割で不動の位置を占めていたが、1957年春、リハーサルの開始まであと2ヶ月というタイミングで、共同プロデューサーのシェリル・クロフォードが辞退してしまった。他のプロデューサー候補もすべて、この作品が暗くて陰鬱な感じだということで辞退していた。
そうした時に、友人のハル・プリンスにトライしてみるよう説得したのがソンドハイムだった。プリンスと彼のプロデュースのパートナーだったロバート・グリフィスは、ミュージカルのスコアを聴くためにニューヨークに飛んで来た。プリンスは自らの回顧録の中で「ソンドハイムとバーンスタインはピアノで全ての曲を演奏してくれたんだ。僕はすぐに彼らと一緒に歌っていたよ」と当時の様子を語っている。
35万ドル(約4,000万円)の制作費用で、『ウエスト・サイド・ストーリー』はようやく制作段階に入った。当初ローレンツは主役のトニー役にジェームズ・ディーンを求めていたが、彼は1955年に交通事故で亡くなってしまったため、その夢は果たされることはなかった。オリジナルのトニーとマリア役に、無名のラリー・カートとチタ・リヴェラを見つけてきたのはソンドハイムだった。
ブロードウェイ公演の前に行われたワシントンDCとフィラデルフィアでの上演は、商業的にも、批評家からの評判も素晴らしいものだったが、これらの公演のレビューには、よく名前を知られていたバーンスタインの影に隠れて、歌詞を共作したソンドハイムの名前はなかった。そのため、ミュージカルがブロードウェイで上演される頃までには、バーンスタインは寛大にも自分の名前を歌詞の共作者から外したのだった。
ところが一方ロビンズは、共同制作者たちへの相談なしに、ミュージカルの内容について数々の変更を行ったことに対して、自分の名前を「発案者(conceived by)」としてクレジットすることを要求したため、ブロードウェイ初演の夜までには、他の共同制作者たちから口もきかれなくなってしまっていた。
そんな中公開されたミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』は1957年9月26日の初演から732回の公演が行われ、トニー賞6部門にノミネートされ2部門を受賞。1961年の映画化作品は、アカデミー賞11部門にノミネートされ、最優秀作品賞や監督賞を含む10部門を受賞し、現在も語られる永遠のクラシック作品となっている。(下記はブロードウェイ初日の様子)
『ウエスト・サイド・ストーリー』その後の4人
バーンスタインが『ウエスト・サイド・ストーリー』以降に書いたミュージカルは一本だけだった。1976年にアラン・ジェイ・ラーナーと共同で制作したが散々の評判を呼んだ『ペンシルヴァニア・アヴェニュー1600番地(1600 Pennsylvania Avenue)』だ。
一方、ローレンツとロビンズとソンドハイムは、『ウエスト・サイド・ストーリー』に続いて『ジプシー』を上演し、その頃には近代のミュージカルの発展に、プロデューサーとディレクターの両方の役割でキーとなっていたハル・プリンスが再びプロデューサーを務めた。
現在91歳のソンドハイムは、当時の共同制作者4人組のうちで唯一の存命の人物であり、今やブロードウェイ・ミュージカルの世界での有力者として尊敬を集めている(11/27 update: ソンドハイムは2021年11月26日に逝去)。彼がもし『ウエスト・サイド・ストーリー』の歌詞を書かないかというオファーに応えていなかったらいったいどうなっていただろうと思わずにはいられない。
1984年、ミュージカルの初演から27年後、レナード・バーンスタインは初めて『ウエスト・サイド・ストーリー』の完全なスコアの演奏を指揮した。その様子を収めた『バーンスタイン:ウエスト・サイド・ストーリー』に参加したオール・スター・キャスト・メンバーには、マリア役にキリ・テ・カナワ、トニー役にホセ・カレーラスの二人の世界的オペラシンガーがいる。
Written By Jeremy Nicholas
映画『ウエスト・サイド・ストーリー』
2022年2月11日公開
スティーブン・スピルバーグ監督が、世界的名作ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」を実写映画化。混沌とした時代の中、偏見と闘いながら、夢を追いかける、“今”を生きた若者たちのラブストーリーを描く、ミュージカル・エンターテインメント
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