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トゥ・パウのキャロル・デッカーとロニー・ロジャースが過去を語るインタビュー公開
1987年11月、トゥ・パウの「China In Your Hand」が全英1位にランクした600枚目のシングルとなり、バンドの世界制覇へのパスポートにはすでにスタンプが押され、彼らの前に立ちはだかるものは何もないように思えた。実際にこのクラシックな80年代のパワー・バラードは商業的な頂点を迎え、グループのアメリカでのキャリアもすでに始まっていた。「いまだに辛いわ、あの時の目の前にあった成功への可能性について話すのは」とボーイフレンドのロニー・ロジャースと一緒にグループのフロントを務めたキャロル・デッカーは話す。「その時には、みんな私たちのことをわかってくれていると安心し、信じていたし、自分たちがやりたいことができるんだと思っていたわ。でもなぜか、その後の曲にはそれほどみんなは関心がなかったの、私たちは同じように強い気持ちでやっていたのに」。
しかし、最近リリースされた4枚組のボックス・セット『The Virgin Anthology』が証明するように、キャロル・デッカーとロニー・ロジャースのその信念は確かなものだった。4×プラチナを記録した1987年のデビュー・アルバム『Bridge Of Spies』から1991年のトップ10だった『The Promise』までのキャリアをヴァージン・レコードで過ごし、力の限りを発揮して活動したグループの作品をこの作品で披露している。しかし、キャロル・デッカーは、トゥ・パウにとってはそんなに平坦な道のりではなかったと当時を思い返す。
ライヴ活動をする中でキャロル・デッカーはギタリストのロニー・ロジャースと出会い、80年代前半の2人は常に有力な手がかりを見つけながらも、それが結果に結びつくことがなかった。断り続けられた当時は困っていたとキャロル・デッカーはuDiscoverに語る。「デモテープを送っても定型の手紙と一緒に返送されるだけなの。最後の方はもっとひどくて、表に“探しているものと違う”から“現在の仕事を辞めないほうがいい”とかの項目が印刷してある定型のフォーマットに適当にチェックされたのが送られてきたの。生意気なA&Rたちはそれを面白いと思ったんだろうけど、こっちは全然面白くなかったわ」。
バンドは、「Dance Hall Days」や「Everybody Have Fun Tonight」のビッグ・ヒットを生んだワン・チャンのマネジメントをしていたデヴィッド・マッシーという良き師をみつけた。トゥ・パウの楽曲「Valentine」にヒットの可能性があると感じ、そのような楽曲をもっと書くように薦められた。デヴィッド・マッシー自身が担当するほとの決意はなかったが、それでもロニー・ロジャースは楽観的だった。「いつも誰かしら応援してくれて勇気付けてくれる人たちがいたんだ」とロニー・ロジャースは当時を振り返る。「’Valentine’についてはデヴィッドが正しかった。僕たちも可能性があると思っていたよ、フォー・トラックのデモの段階でさえも」。
1986年、2人の新しいマネージャー、クリス・クックが視聴会を開くことに成功し、ノーミス・リハーサル・スタジオでサイレン・レコードのボスたちに3曲のショーケースライブを披露することになった。その短いセットは彼らの運命を左右するものだった。「その頃にはロニーと私は5年も一緒に曲作りをしていた」とキャロル・デッカーは言う。「(レーベルから)断られるたびに、辛くなってきてたの。私はもう26歳で、父にはクルーズ船で演奏してみたらなどと薦められて。そんなこと考えるだけで身震いがするほどだったから、焦り始めていたの」。
このショーケースライブのために、すぐにバンドを寄せ集め、結果的にレーベルはその場でキャロル・デカーとロニー・ロジャースだけ契約を結んだ。「私たちを中心にバンドを集めたの」とキャロル・デッカーは話す。「もともとバンドをやっていたし、そのカルチャーは大好きだったけど、レーベルとはデュオとしての契約だった。最初のうちは良かったけど、時が経つにつれてだんだん他のメンバーとの間に葛藤が生まれてくるの」。
サイレン・レコードは、新しく結成されたこの6ピースのバンド、トゥ・パウをアメリカのシカゴ近くのスタジオに送り、ファースト・アルバム『Bridge Of Spies』のレコーディングを始めた。「出発した時は本当に嬉しくて」とキャロル・デッカーは振り返る。「クイーンやザ・カーズと一緒に制作し、大きいのプロジェクトに慣れていたロイ・トーマス・ベイカーという素晴らしいプロデューサーと一緒に仕事ができたの。使えたテクノロジーがとにかく凄かった。今なら自分のベッドルームでも音楽は作れるけど、当時はそうではなかったから」。
その投資の甲斐があり、2015年にもデラックス・エディションとして再リリースされたこのアルバムには10曲収録され、マルチ・プラチナの大ヒットとなり、キャロル・デッカーが最も誇りに思っている曲「Heart And Soul」も収録。この楽曲はトゥ・パウのファースト・シングルに選ばれた。イギリスでの最初のリリースでは失敗だったが、アメリカではラジオでかかるようになり、全米シングル・チャートでゆっくりだが上り始めた。全米チャートでは最高4位を記録し、ジーンズのCMに使用されるようになると1987年9月に地元イギリスでも同じく4位を記録した。「ロニーと私の作曲の幅は広くて、それが素晴らしいと思う人もいるけど、そうでないという人もいる。特にアメリカでは受け入れられなかった」とキャロル・デッカーは言う。「’Heart And Soul’は他の曲とサウンドが違い、有名なベースのリフトは私たちが父に借金して買ったシークエンサー・キーボードで弾いている時に思いついたの」。
BBCの名テレビ番組『Top Of The Pops』への初出演は、アメリカでのプロモーターをむしろ遠ざけたとキャロル・デッカーは考えている。「番組出演のためにロンドンに帰国して、その後まさかアメリカに戻らないなんて、そんな話は知らなかった」と話す。「マネジメントに子供扱いされていたの、私たちは戻るつもりで荷物も置きっぱなしだったのに!」。ロニー・ロジャースは当時の自分たちがその決断に一石投じることができなかったのかはわからないが、ただ当時の新人のバンドはそういう扱いを受けるものだったのだろうと推測する。「間違った判断だった。人に不当な扱いをしてはダメなの」とキャロル・デッカーは述べた。
バンドの2枚目のシングルは「China In Your Hand」だった。「あまり深くは考えなかったよ」とロニー・ロジャースは語る。「他のものとかけ離れていたけど、曲の出来で選ぶと明らかに選ばれるべき曲だった」。アメリカのラジオ局は、区別されたジャンルのプレイリストの方針に従うことを拒んだトゥ・パウを、どのカテゴリーに入れるべきか悩んだ。他の国でも同じ状況だったが、ヨーロッパでは番組によるチャートへの影響が少なかったため、トゥ・パウの曲の持つ強さがそれに勝ち抜いた。バンドの3枚目のヒット・シングル「Valentine」はついにそのポテンシャルを発揮し全英9位を記録。ライヴ・アクトとしての評判を得て、ニック・カーショウとのツアーが決まり、じきに、トゥ・パウだけでロンドンのウェンブリー・アリーナなどの会場を満員にしていくこととなった。それはキャロル・デッカーの力強い声を披露する最適の場だった。
しかし、その勢いを失わないようにというプレッシャーに押され、バンドは2枚目のアルバム『Rage』の制作のため、スタジオに戻った。1988年10月のリリース時には、バンドの商業的な成績は明らかに落ちこみ、リード・シングルの「Secret Garden」は全英トップ10入りも果たせなかった。それでも11曲収録されたこのアルバムはプラチナを記録した(『The Virgin Anthology』では3枚目に全曲収録されている)。「マネジメントははっきりと、活動は常に続けなければならないと言ってたわ」とキャロル・デッカーは話す。「当時は私たちも無知だったし、すべてが恐れ多くて、だから同意したの。デビューアルバウの『Bridge Of Spies』に続くのは難しいと思っていたけど、2枚目の『Rage』も誇りに思っているし、最初はそんなに成績が良くなくても心配していなかった。『Rage』からリリースした2枚目のシングル「Road To Our Dream」は2人とも大好きだわ」。
「レーベルが僕たちを理解していなかったんだと思う」とロニー・ロジャースはいう。「ポップ・バンドとしてマーケティングされていたから、その俺達の息があるうちにすべて吸い上げていくというものなんだ。プレスもすべてスマッシュ・ヒッツ誌の読者層をターゲットにしていたし、今思えばそれは全くプラスにならなかった。すべてを急ぎすぎたんだ」。また、キャロル・デッカーへの注目が高まると、バンド内の緊張感も増した。「私はそんなクールな人じゃないし、いつもそういうことに対して憤りがあった」と話す。「最初はシリアスな音楽メディアが多かったけど、そのうちみんなトゥ・パウに対して高慢になっていったの」。
ロニー・ロジャースは全米シングルの1曲でザ・ローリング・ストーンズのキース・リチャーズにソロを提供してもらう話があったと振り返る。2人はその提案を断ったのだが、今では大きな間違いだったと話す。「他のメンバーにはその話があることすらしていなかったの」とキャロル・デッカーは言う。「ただ大きな喧嘩になるだけだと分かっていたから」。キャロルとロニーがソングライターで、最初の2枚のアルバムの楽曲のソングライティングはバンドがレーベルと契約する前に完成していたが、当時は不仲を解消することに多くの時間を費やしたと話す。「物事がすごく難しくなったの」とキャロル・デッカーは言う。
それもあって、バンドの3枚目のアルバム『The Promise』は各メンバーがもっと多くのパートを演奏し、新しいプロデューサーが採用された。「でも『The Promise』を制作している時は、すでにどれだけ私たちが変わってしまったか気がついていなかった」とキャロル・デッカーは言う。「『Rage』よりもっと良いアルバムだと思うけど、もう僕たちは壊れていたんだ」とロニー・ロジャースが付け加える。「実際のところは、『The Promise』の’Only A Heartbeat’を一番好きなトゥ・パウの曲に選んでいるよ」。
先行シングルでありファン一番人気の「Whenever You Need Me」は着実に実績を上げ、1991年の5月に最後となる『Top Of The Pops』の出演を確保した。しかし、本当はタイトルを『A New Decade』と名付けたかったアルバム『The Promise』のセールスは伸びず、トゥ・パウはイギリスでのツアー中にサイレントからの除籍を言い渡された。「マネージャーがバック・ステージに来て、私にラッキー・ガールだねと言ったの」とキャロル・デッカーは回想する。「80万ポンドもの借金から逃れたねと彼に言われたの。彼を見て、それって私たちの契約は終わったってこと?と聞いたら、彼は’そういう見方もあるね’とだけ答えたの」。
「私はあのツアーを’The Walkman Tour’と呼んでいるの、もうその時にはバンドはお互いに会話すらなかったから」と彼女は続ける。「もう終わっているアルバムのプロモーションのため、みんなが憎しみ合う中でツアーをしなければならなかったから本当にひどかった」。ロニー・ロジャースは、もしメンバーがもっと仲良くできていたら、新たな契約もできたかもしれないが、仕事の環境において生じていた亀裂はすでに修復できないところに達していたと語った。「ある意味トゥ・パウは作られたバンドだったの」とキャロル・デッカーは語る。「自分たちを中心に、正しい意図を持って作ったけど、今だったらもっと違うやり方をしていた」。
解散後、キャロル・デッカーは方向性を失ったと認め、新しいトゥ・パウのアルバム『Red』をリリースするまで約10年という年月がかかった。しかしその頃にはすでにロニー・ロジャースとも別れ、実質はソロ・プロジェクトだった。2015年に新鮮な気持ちで、プロとしてロニー・ロジャースと再びタッグを組み、トゥ・パウは『Pleasure And Pain』をリリースすると批評家からも安定した評価を得て、セールスも着実に上げ、めまぐるしいツアー・スケジュールを今でも続けている。
キャロル・デッカーが認めるように、もし幅広いソングライターであることが罪なら、ロニー・ロジャースとキャロル・デッカーは間違いなく有罪だ。『The Virgin Anthology』はトゥ・パウのすべてのシングルと拡張された『Rage』と『The Promise』のアルバムが収録されている。リミックス、貴重な作品やデモを含み、特徴づけるのが難しい作品だ。チャートでのキャリアは繊細なるものかもしれないが、伝説というものはそう簡単に壊れないことを見事に体現している。
Written by Mark Elliott
トゥ・パウ『The Virgin Anthology』