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カナダの“サマー・オブ・ラヴ”、その聖地はトロントのヨークヴィル
サマー・オブ・ラヴに関する話のほとんどは、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーに向かうヒッピーの集団のことだった。1967年6月16日から18日まで行われたモンタレー・ポップ・フェスティバルを宣伝したスコット・マッケンジーのヒット曲「San Fransisco (Be sure to Wear Flowers in Your Hair)(邦題:花のサンフランシスコ)を聴いてもそれはわかる。1967年5月にはニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジにヒッピーが溢れ、ロンドンのロングヘアの人たちは、ハイド・パークやロンドン中のクラブに集まりだした。
ではお隣カナダではというと、トロントのヨークヴィルがお決まりの場所になった。どっしりとした古いヴィクトリア調の建物の数々がコーヒー・ショップに改修され(一時期40以上ものショップがあり、毎日ライヴが行われていた)、DIYアート・ギャラリーやブティックが建ち並んだ。そこにカウンター・カルチャー・ムーヴメントの人々が引き付けられ、彼らにとっての聖域となった。ある政治家はそれを「街の真ん中にある悪化した傷だ」と述べた。
その数ブロックという限られた場所に集結した才能あるミュージシャン達は圧倒的だった。パープル・オニオンでは、ゴードン・ライトフットが演奏していた。その地下室でバフィー・セント・メリーは「Universal Soldier」を書き上げ、ドノヴァンのヒット曲となった。カーリー・サイモンは、姉のルーシーと一緒にパフォーマンスをした。常連客は、ジョニ・ミッチェル、ジュディ・コリンズ、そしてモノマネを披露するリッチ・リトルまで生で見ることまでできたのだ。
シェ・モニークでは、のちにステッペンウルフとして知られるザ・スパローズが演奏した。ザ・マイナ・バード(地元のバンドで、ニール・ヤング、そしてのちの「Superfreak」を生んだスーパースター、リック・ジェームズが属していたザ・マイナ・バーズとは別のバンド)は、常連客がジャズやブルースを楽しむペニー・ファージングのビキニ姿のウェイトレスに対抗して、ゴーゴーダンサーを踊らせた。
そしてリヴァー・ボートでは、サイモン&ガーファンクルやリッチー・ヘヴンズから、ハウリン・ウルフやバディ・ガイを呼び込んだ。その他にもその通りの様々な場所で演奏していたミュージシャンの中には、イアン&シルヴィア、マレー・マクロクラン、ダン・ヒルとブルース・コバーンがいた。会場は他にも、71クラブ、ハーフ・ビースト、フリック、ゲート・オブ・クリーヴ、カフェ・エル・パティオ(のちのライトハウスやジャニス・ジョプリンのフル・ティルト・ブギー・バンドのメンバーが演奏していた)、ヴィレッジ・コーナー、アヴェニュー・ロード・クラブ、そしてチャーリー・ブラウンズがあった。
ヨークヴィルの歩道にはジャムをする人々で溢れ、車は残された道幅を通り過ぎていたため、車両を進入禁止にしようというムーヴメントが起きた。1967年5月にクイーンズ・パークで、そして8月にはその地域のストリートでそのような集会が起こった。警察が呼ばれ、50人が逮捕され、トロント・スター紙はそれを“ヒッピーの乱闘”と呼んだ。
それでも、あの1967年の夏のヨークヴィルは、大方、平和と愛が溢れる場所だった。しかし、それも長くは続かなかった。
その年の秋には警察の巡回が増え、18歳未満には22時以降の外出禁止が設けられた(当時、オンタリオ州の飲酒年齢は21歳だったので、未成年者の飲酒が問題となっていた)。その翌年の夏に捏造された“ヒッピー肝炎”のニュースとモーターサイクル・ギャングが麻薬を売っていたこともあり、人々は街から遠ざかっていった。
そこからデベロッパーが入り込み、街は高級化され、ヨークヴィルは高級ブランドのショップやレストラン、コンドミニアムやホテルが建ち並ぶ街となった。あの夏は、相当クールな街だったのだが。
Written by Alan Cross
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