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【特集】音楽フォーマットの歴史:レコードからカセット、CD、MD、デジタルへ
2014年にU2がアルバム『Songs Of Innocence』をリリースしたとき、5億もの人たちが一瞬にしてそれを手に入れた。朝目覚めると、彼らの携帯、ラップトップ、デスクトップ、タブレットなどに届いていたのだ。世界のビッグ・アーティストたちがLPをリリースしていた時代と違い、レコード・ショップに大急ぎで向かう必要はなかった。iTunesにコネクトしている人たちは皆、気づけばアルバムを所有していた。これは、音楽の購入方法を変える真の改革、決定的な瞬間だった。初めて、人々は音楽を手に入れる選択ではなく、排除する選択をすることになった。
今の時代、どこに行っても音楽があるのが当たり前になっている。我々の多くは、レコードやCD、カセット、デジタル・ファイル、その他短命に終わったフォーマットのコレクションを持つ。果たして、これらは我々の音楽の聴き方にどう影響を与えたのだろうか? そして、テクノロジーの革新は、我々が聴く音楽をどう変えたのだろうか?
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19世紀の音楽と録音
人類の歴史ではつい最近まで、音楽を手に入れるのは大変なことだった。トーマス・エジソンが彼の蓄音機を披露するまで、音楽を聴きたい場合、2つの選択肢しかなかった。ミュージシャンが音楽を演奏している場へ行くか、自分で演奏するかだ。音楽を所有するとか購入するという考えは存在しなかった。
そして、1877年のある日、全てが変わった。若いアメリカ人の発明家、トーマス・エジソンは、彼の最新の発明品のホーンに向かって「メリーさんの羊」と叫んだ。この機械は、彼の声の音波をワックスペーパーに記録した。エジソンがその紙に針を当てると、同じ音波が再生され、円錐を通じ増幅された。「人生であれほど驚いたことはない」と、彼は後に発言している。
エジソンの発明は、ディスクに音を保存するのではなく、シリンダーに巻かれた紙に記録するものだった。しかし、シリンダーよりディスクが人気となるのにそう時間はかからず、この不完全な初のフォーマットはお払い箱となった。それからの数年、エミール・ベルリナーのグラモフォン(1887年)など、テクノロジーは大きく前進した。その世紀の終わりには、コインを挿入すると動くレコード・プレイヤーが発明された。このジュークボックスの原型は、当時、アメリカ全土で開き始めたフォノグラフ・パーラーに設置され、すぐに世界中に広まった。
商業レコードと大量生産
1901年、ベルリナーのグラモフォンの最新版が発表され、ビクター・トーキング・マシーン社により市場に売りに出されたのと同じ年、初めて商業的に製造されたグラモフォン・レコードが登場した。ビクターの音楽レコーディング部門は、イタリアのテナー歌手、エンリコ・カルーソーのディスクをリリースし、彼はその人気でレコード業界初のスターとなった。
それからの数十年は、レコード業界のパイオニアたちにとって、大量生産の向上が最大の課題だった。カルーソーがレコーディングしたものは、78回転の10インチ・ディスクでリリースされた。シリンダーにはいくつかの利点があったかもしれないが、大量生産の手段が次第に必須となってきた。需要に応じるため、ミュージシャンやシンガーは曲を何度も何度もレコーディング・再レコーディングしていたのだ。1日に同じ曲を100回も歌うことさえあった。
エジソンはかなり早い時期に、音楽の録音は単に音楽を提供するだけでなく、録音された音楽そのものが新しい楽器になると気づいていた。これは、サンプリング、シンセサイザー、ルーピングなど、いま我々が慣れっこになっているサウンド・エクスペリメントの元になるアイディアだ。レコードは、パフォーマンスを録音するだけでなく、それ自体がパフォーマンスになった。
しばらくの間、レコードは本来の目的のままだった。人々は劇場へ行き、ステージに置かれたレコード・プレイヤーからシンフォニーや曲が流れるのを聴いていた。エジソンは1915年、それを一歩前へ進めた。ダイヤモンド・ディスク・フォノグラムの実演で、“試験信号音”を行なった。クリスティン・ミラーが歌うメンデルゾーンのアリア「Elijah」を流すと同時に、ミラーがレコードの自分自身の声に合わせて歌ったのだ。キューがでると、ミラーは歌うのを止め、録音された彼女の声だけが流れた。これにより、再生がどれだけ正確なものになったか、オーディエンスに証明してみせたのだ(観客はこの成果にはっと息をのんだと伝えられている)。このようなイベントは何年もたくさんの人々を魅了し続けた。最も有名な試験信号音は、1920年、ニューヨークの誉れ高いカーネギー・ホールで開かれた。
20世紀の前半、78回転10インチは最も人気のあるフォーマットになった。このディスクは片面に3分を収録することができた。その結果、大半のポピュラー・ソングの長さが決定づけられ、テクノロジーの発展がこの制限を無くした後も、それが理想的だと考えられた。
クラシックや朗読は、12インチの78回転でリリースされることが多かった。ビクターは、ジョージ・ガーシュウィンの「Rhapsody In Blue」を12インチ・ディスクの両面に分けてリリース。ディスクの長さの制限を回避するもう1つの方法は、レコード何枚かをまとめ1つのパッケージにすることだった。これは、レコード・アルバムとして知られるようになった。この例は、1917年のHMVが録音したギルバート&サリヴァンの『The Mikado』(オペレッタ)だ。
レコーディング・アーティストの人気
1920年代は、ジャズのレコードの人気が急上昇し、世界的なスターになるミュージシャンが現れた。その第一人者が、「Potato Head Blues」や多大な影響力を持つ「West End Blues」などのヒットを制作したルイ・アームストロングだった。これらの短いジャズ風のレコードは、ポピュラー(もしくは“ポップ”)ミュージックとして知られることになるものの誕生に重大な役割を果たした。チャールストンが流行り、デューク・エリントンらが率いるオーケストラは大きなビジネスとなった。20年代は、ジェリー・ロール・モートンらを引き付けたシカゴを中心に始まり、ニューヨークで終わった。アーヴィング・バーリンやコール・ポーターなどのソングライターによるブロードウェイ・ソングが、ファッツ・ウォーラーの「Ain’t Misbehavin’(浮気はやめた)」などのジャズ・スタンダードに変わり、人気が出始めた。
マイクを使った電気録音の出現により、繊細でロマンチックなスタイルの歌い方を捉えることが可能となり、ヴォーカルがバンドにかき消される心配がなくなり、ジャズのビッグ・バンドは、クルーナーとして知られた滑らかに発声するスタイルのシンガーをフロントに迎えるようになった。
ルディ・ヴァリーは、これら新しいヴォーカリストの中で一番人気だった。ハンサムでお洒落なアメリカ人のシンガーは「I’m Just A Vagabond Lover」や「Deep Night」といったヒットを生み、毎晩、ソールド・アウトの公演でフラッパー・ガールたちにもみくちゃにされた。ティーン・マガジンは彼の写真を掲載し、少女たちは永遠の愛を誓う手紙を書いた。ヴァリーは最初のポップ・アイドルだった。そのレガシーはいまでも残っている。
ヴァリーに続いてすぐ、ビング・クロスビーやフランク・シナトラといったハンサムで紳士的なシンガーが現れ、若い女性たちの情熱をかき立て、彼女たちの彼氏たちをやきもきさせた。レコードはポップ・スターの土壌を生み、この先の時代のティーンエイジャーたちは、次々現れるハンサムで健全な男性たちに心を奪われ夢中になり続けた。
活況となるレコード産業
1920~30年代の不況の時代や戦後恐慌にあっても、レコード業界は繁栄していた。ジュークボックスはアメリカ全土でお馴染みとなり、すぐに海外にも進出。この時期、エンターテインメント業界誌ビルボードがチャートを掲載し始め、初のレコード・チャートは1940年7月20日に発表された(それ以前は、楽譜やボードヴィル・ソングのベストセラーなどを発表していた)。
ビルボードはもともと、ジュークボックス部門、ラジオ・プレイ、セールスなどに分けたチャートを掲載し、レコードはジャンル分けしていた。その中に、Rceレコード・チャートがあった。後のR&Bチャートだ。これは、1920~30年代に録音されたブルース・レコードと、レコード会社が興味深いミュージシャンを発掘するため南部にプロデューサーとエンジニアを送ったフィールド・レコーディングを基にしていた。ロバート・ジョンソンは、サンアントニオで初めてこの方法で録音されたアーティストだ。ブラインド・ウィリー・マクテルやビッグ・ビル・ブルーンジーも同じで、彼らはその後、若い白人のミュージシャンのインスピレーションとなった。これら78回転レコードは、音楽学者ハリー・スミスにより集められ“謎めいた神々の音楽”と呼ばれ、第二次世界大戦後、新しくより便利なフォーマットで広まった。
ほかには、ハーレム・ヒット・パレードというチャートもあった。ナット・キング・コールの「Straighten Up And Fly Right」が1943年10週間トップに輝いた。優しい声を持つジャズ・ピアニストは、新進のキャピトル・レコードと契約を交わし、彼の驚異的なレコード・セールスにより、同社はハリウッドにかの有名なキャピトル・タワーを建てることができたと言われている。これは“ナットが建てた家”と呼ばれている。
この時期、新たに登場したクルーナー・スターたちのレコードがチャートをにぎわせていた。フランク・シナトラはおそらく、最もユニークな才能を持っていた。注目を集めようとニューヨークやニュージャージーでパフォーマンスし(ときに無料で)、バンド・リーダーのハリー・ジェイムスと何枚かレコード(「My Buddy」「All Or Nothing At All」など)を録音した。シナトラはすぐに、アメリカで最もビッグなバンドの1つを持つトミー・ドーシーのところに参加し、「I’ll Be Seeing You」などのレコードを成功させた。これは1940年2月に録音されたものだが、アメリカが第二次世界大戦に参戦すると、彼のレパートリーで欠かせない曲となった。40年代、シナトラは悲鳴を上げる女の子たちでいっぱいになった会場でプレイし、ヒットが続いていく。
LPの登場
戦後すぐ、アメリカの2大レコード会社、コロンビア・レコードとさらに成功していたライバル、RCAビクターが、“スピード・バトル”として知られるようになったものを開始した。RCAは30年代、新型のロング・プレイ・レコードと戯れたが、上手くいかず、40年代後半には信頼性の高い7インチ45回転ディスクに力を注いだ。
コロンビアは、RCAビクターの元社員の助けを借り、33 1/3 rpmで回転する独自の12インチ・ディスクを開発。これはLPもしくはロング・プレイヤーと呼ばれた。10インチも導入され、その1stリリースの1つが「The Voice Of Frank Sinatra」だった。このバトルは何年にも渡り展開され、結果、品質が優れた45は短い、ポップ・ソングのフォーマットに選ばれ、LPは、普段は高品質にこだわるが、ロング・プレイを好むクラシック音楽のファンに受け入れられた。
すぐに、全てのレコード会社が、それぞれの市場に相応しいスタイルのディスクを制作するようになった。当初、RCAはポピュラー音楽は黒、クラシックは赤、カントリーはグリーン、ブルースとR&Bはなぜかオレンジなどとレコードを色分けさえしていた。オレンジのR&Bシリーズの最初のリリースの中には、タンパ・レッド&ビッグ・メイシオの「If You Ever Change Your Ways」やデルタのブルース・シンガー、アーサー・クラーダップの「That’s All Right」があった。後者は、その数年後、ミシシッピー州テューペロ出身のトラック・ドライバー、エルヴィス・プレスリーがカヴァーし、旋風を巻き起こした。
アメリカ全土、ほとんどどの街にもレコード・レーベルが誕生した。一時的な成功に終わるものもあったが、伝説になったものもある。とくに当時、“Race Music(*アフリカン・アメリカン・ミュージック)”と表されたものは――。LAのスペシャルティ、シカゴのチェス、NYのアトランティックなどのレーベルは、20世紀最も影響力がある不朽の名作を何枚も生み出した。
ジャズの分野では、ブルーノート・レコードが出現し、活気のあるこのレーベルは、チャーリー・パーカー、セロニアス・スフィア・モンク、マイルス・デイヴィス、オスカー・ピーターソンらの10インチ・アルバムを制作。しかしながら、大手レーベルは10インチLPから12インチ・レコードに移り変わろうとしているところだった。これは小規模なインディペンデント・レーベルにとっては頭痛の種だった。彼らの資金繰りはいつも苦しく、大手のように懐も深くなかったため、より大きなフォーマットに変えるのは困難でお金もかかり、挑戦することさえできない小さなレコード・レーベルもあった。この時期、ジャズのレーベルは、いまの時代には驚きだが、長々とプレイするLP向けのアーティストを45回転盤でリリースした。実際問題、ラジオでかけてもらったり、アメリカ全土に普及したジュークボックスの中に入るには、45回転盤でリリースする必要があったのだ。
この頃になると、音楽は磁気テープを使い録音され、ギタリストのレス・ポールのような発明家が、オーヴァーダビング、テープ・エコー、マルチ・トラック・レコーディングなどを試すようになっていた。それぞれのスタジオが独自のサウンドを持ち、それが彼らを成功に導いた。中でも、サム・フィリップスのメンフィスにあったレコード・レーベル、サン・レコードほどサウンドを自慢できるスタジオは稀だった。
1950年、ヴォーカリスト、ジャッキー・ブレンストンの助けを借りアイク・ターナーが「Rocket 88」をレコーディングしたのは、この場所だった。このシングルはしばし、ロックン・ロール初のレコードとして挙げられる。ターナーのアンプはスタジオへ行く途中に壊れ、歪んだギター・サウンドが生まれたと言われている。ミュージシャンとエンジニアはこれを大変気に入り、レコードに残すだけでなく、曲のハイライトにした。「Rocket 88」はスマッシュ・ヒットとなり、全米R&Bチャートの1位を飾った。何百という模倣者が現れた。フィリップスはその後、エルヴィス・プレスリー、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンス、ロイ・オービソンらを発掘し、レコーディングした。
ポップ・ミュージックを芸術の粋に押し上げた1枚
レコーディングの初期の時代から50年代半ばまでは、意図的だったこと同様、偶然で起きたこともたくさんあった。人々は便利なフォーマットを好み、音楽は自身に相応しいフォーマットを選んだ。しかし、1955年にキャピトルがリリースしたものは全てを変えた。50年代初め、人気が落ち込んでいたシナトラは、キャピトルと契約し、アカデミー賞を受賞した映画『地上より永遠に(From Here To Eternity)』で、すぐに復活。同レーベルからの彼の3枚目のアルバム『In the Wee Small Hours』は、厳密に言うと、初の“コンセプト”アルバムではないし、12インチLPでリリースされた初のポピュラー・ミュージックでもないが、12インチLPでリリースされた初のコンセプト・アルバムだった。
『In the Wee Small Hours』は今日、初の“クラシック・アルバム”と考えられている。おそらく、結婚生活の崩壊、エヴァ・ガードナーとの浮気を経験した結果、アルバムのテーマは、傷心、孤独、内省、悲しみだった。このレコードの全てがハイスタンダードで、おそらく初めて、ポップ・ミュージックを芸術の粋に押し上げた。ゴールの位置が変更する1枚になった。
もちろん、シナトラのLPは45回転盤の終わりを告げたわけではなかった。実際、それとはかけ離れていた。ロックン・ロールとR&Bミュージックの興隆は、7インチに明るい未来を保証した。レイ・チャールズのようなアーティストは、「What’d I Say?」をディスクの両面に拡張することで、マイクログローヴ・シングルの限界を押し広げた。アメリカのフィル・スペクターや英国のジョー・ミークといった革新的なレコード・プロデューサーは、彼らの短編をミニチュア・シンフォニーに変え、フォーマットの時間制限が想像力を制限することを許さなかった。
“アルバム”とアーティストたち
60年代、フォーク・ミュージックがLPを取り入れたのは、このフォーマットを昇進させる重要な出来事だった。ニーナ・シモンやピート・シーガーらによるレコードは多大な称賛を集めたが、世界中のティーンエイジャーの寝室にアルバムを持ち込んだのは、ボブ・ディランの成功だった。
一方、ザ・ビートルズに続くヴォーカル・グループの驚異的な成功は、7インチの人気を持続させた。ザ・ビートルズのダブルA面「Strawberry Fields Forever / Penny Lane」は史上最高の7インチだと考えられている。
しかし、大西洋両側の若いミュージシャンたちは、自分たちの音楽をもっと真摯に受け止めており、ロング・プレイのアルバムが大きな重要性を帯び始めた。ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンは、グループとのツアー活動を停止し、ポップ・シンフォニーのアルバム制作に打ち込んだ。1966年の『Pet Sounds』はいまも傑作の1枚として残り続けている。
これに対するザ・ビートルズからの答えは、10年以上前のシナトラの画期的なLPと同じフォーマットで制作されたレコードだった。『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、ファブ・フォーが最高のアルバムを作ろうと、LPのあらゆる可能性を探索したのがわかる。尊敬されるアーティストによるポップ・アートのスリーヴ・デザイン、歌詞をアートワークに印刷、ポップ・レコードに見開きジャケットを使用、フルカラーのインナー・スリーヴ、さらにルーピング・サウンドを送り溝に収録するなどのイノヴェーションが、革新的なサウンドと結びつき、このアルバムを一大イベントのように感じさせた。
様々な要素をポップ・アルバムに集結した『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、LPがシングルを追い越した瞬間だった。決してヒット・シングルが見くびられたわけではないが、ここから批評家たちは、アーティストの芸術性を見極めるのに、第一にアルバムに興味を示すようになり、シングルは依然、何百万枚も売れたが、どちらかというと使い捨てと考えられるようになったのだ。
70年代のLP
これを誰よりも実証したのが、レッド・ツェッペリンだった。英国のヘヴィ・ロック・グループは、アルバムは全体を聴いてこそひとつの体験になると強く信じており、シングル・カットすることに抵抗した。70年代は間違いなくLPの黄金期だった。ピンク・フロイドやデヴィッド・ボウイは芸術作品と考え、ポップ・ミュージックの限界に挑んだ。実際、アルバム・スリーヴそのものが芸術作品で、ある年代の人々は、そのカヴァーに魅かれレコードを買ったことがあると認めるだろう。『In The Court of The Crimson King(クリムゾン・キングの宮殿)』に覚えない人はいないだろう。
レコード業界が数十億ドルのビジネスになり、様々な新しいテクノロジーが発明された。レコーディング・スタジオではテープが長い間スタンダード・フォーマットだったが、この頃、メーカーはポータブル・プレイヤーなど便利な機材に着目していた。8トラック・カートリッジ・システムは、60年代半ば、リアジェット社により開発され、飛行機の中で音楽をプレイするのが可能となった。フォード・モーター社は車に同じようなシステムを設置した会社の1つだ。70年代、コンパクト・カセットの登場により、自家製テープが急増し、同時にどこにでも音楽を持って行くことができるようになった。ソニー・ウォークマンが発明されると、人々は初めて、音楽システムをポケットに入れて持ち運べるようになった。予期せぬことに、カセットはミックス・テープの台頭ももたらした…。ここで、音楽は初めて、ヴァラエティ豊かな伝達手段となった。
CDとMDの登場
80年代に入ると、また別の未来が見えた。世界はデジタル化され、レコード業界もすぐにそれに続いた。デジタル・ミュージックのビッグバンは、1982年日本で起きた。初めて市販用のコンパクト・ディスクことCDが登場したのだ。1985年には、ダイアー・ストレイツのアルバム『Brothers In Arms』が初めて100万枚を売ったCDとなった。同じ年、デヴィッド・ボウイの全カタログがCDでリイシューされ、世界中のリスナーに変化をもたらした。多くの人々が、既存のコレクションをデジタル・フォーマットに置き換え始め、レコードやテープを破棄した。
このタイミングではミュージシャンではなく、メーカーが再び、発明の中心となった。メジャーなレコード会社は新しいフォーマットの開発に大金をつぎこんだ。ソニーは1992年、リーフの「Naked」をCMに使い、ミニディスクことMDを発表した。このフォーマットは、小さく実用的なハイファイ・システムだったが、一般市場でCD-Rを超えるには苦戦した。MDにコピーするよりCDに焼き付けるほうが安上がりだったのだ。しかし、MP3プレイヤーが登場すると、これらのフォーマットに終焉の兆しが見えた。ナップスターのような違法のファイルシェアリング・サイトが横行し、フィジカル・セールスは激しく落ち込んだ。しかしながら、いま回復しつつあるが…。
2010年代には、レコード業界はミュージック・ダウンロードに力を入れ、合法化した。同時に、アナログ盤LPの人気が再熱し、新世代がこのフォーマットに興味を持つようになった。アメリカのシンガー・ソングライター、ボニー“プリンス”ビリー、フランスのダンス・アクト、ダフト・パンク、インディ・ロッカーのアークティック・モンキーズのようなアーティストが、このフォーマットの復活に貢献した。現代の消費者は、自分のライフスタイルや便利さに合わせフォーマットを選ぶことができる。
そして2021年にはダウンロードはすっかり影を潜め、代わりにストリーミングが音楽業界の中心となり、フィジカルの領域ではCDよりもLPの売り上げが超えた国も多く出始めている。その一方で、ファンの心をくすぐるような豪華パッケージ商品が多くなり、逆にロードのように環境を配慮したためにCDの発売をやめるアーティストも出てきている。この10年ではどのような音楽フォーマットが定着し、それに合わせてアーティストたちの芸術性がどう変わっていくのだろうか?
Written By Paul McGuinness
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