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最も不運なシングル13枚:全英チャート1位をとれなかった曲たち
13日の金曜日に、我々はイギリス・チャート史上最も不運なシングル13枚のリストを紹介する。この中には、何週間もナンバー2に留まり続けたナンバーや、人目を引くシングルの出現によりチャート・トップを阻まれたナンバーや、あるいはチャートでは活躍しなかったがアンセムのような存在で、人々の心の中ではナンバー・ワンになっている曲がエントリーしている。
オープニングを飾るのは、ウルトラヴォックスのニュー・ロマンティックの名作「Vienna」(1981年)だ。二つのまるで異なる現象に見舞われるまでは、この曲はチャートの頂点を飾るであろうと思われた。最初は約2か月前の、ジョン・レノンの死を悲しむ人々だった。これにより「Vienna」がチャートを上昇し2位まで上昇する中、ジョンの「Woman」がナンバー・ワンの座を射止めた。
その後ジョー・ドルチェ・ミュージック・シアターの「Shaddap You Face」が現われ、世間はミッジ・ユーロの細い口髭のエレガントなロマンティシズムと、“トップ・オブ・ザ・ポップス”に登場する中折れ帽を被ったおかしな男という、イタリア人のステレオタイプなイメージという新たな選択が与えられた瞬間、ウルトラヴォックスにとっては不運な週となった。週どころか、嫌な“月”になった。と言うのも、「Vienna」は4週にも渡って2位の座に居続けたのだ。ジョー・ドルチェ・ミュージック・シアターがようやく静かになった時、ジョン・レノンに対する同情が再び浮上、その結果ロキシー・ミュージックの「Jealous Guy」のカヴァーが登場し、この時もそれ以降も、ウルトラヴォックスが全英1位を獲得することはなかった。
セックス・ピストルズの、イギリス君主であるエリザベス女王に対する決して恭しいとは言えないような概観を歌った「God Save The Queen」が1977年7月、女王陛下即位25 年祝典の週に1位になるような勢いを見せたのは周知の通り。しかし遥かにその時にロッド・スチュワートが、両A面の「I Don’t Want To Talk About It」と「The First Cut Is The Deepest」で君臨し続け、ピストルズのこの曲には、トップの座は与えられなかった。
ザ・ヴァーヴの「Bitter Sweet Symphony」は、1997年6月に2位へと躍り出たが、パフ・ダディ&フェイス・エヴァンスの「I’ll Be Missing You」に一気に打ち負かされた。それでも、このイギリスのバンドはその後、これに続くシングル「The Drugs Don’t Work」で9月にナンバー・ワンを獲得し、成功を味わうことが出来た。
シングル・チャートの中で最高のポップ・ナンバーに挙げられるのは、イギリス人ミュージシャンのライト・セッド・フレッドが1991年の夏に放った、好き嫌いが分かれるスマッシュ・ヒット「I’m Too Sexy」だろう。この曲は同年、そしてそれ以降のチャート・トップを飾った曲の大多数よりも多く売り上げた。それでもこの曲は、最高位2位で6週間留まり続けた。この間ずっと歯が立たなかった相手はブライアン・アダムスの「(Everything I Do) I Do It For You」であり、なんと16週間1位も難攻不落のだった。
T.レックスが「Hot Love」で初イギリス・チャート・トップを飾り、1972年初頭には「Telegram Sam」で二度目の喜びを味わうはずだった。しかし「Jeepster」が’71年11月に2位になった一方で、スレイドが「Coz I Luv You」でチャートを牛耳ったことにより、彼等は3連勝するところを2曲目で阻止されてしまった。その後クリスマスから新年に掛けての4週間ナンバー2に居座った後、コメディアンのベニ―・ヒルが「Ernie (The Fastest Milkman In The West)」で輝かしい頂点に達し、T.レックスはナンバー3に落ちた。
ケニー・ロジャースもまた、イギリスのクリスマスのシングル市場のせいで苦労したアーティストのひとりだ。1969年12月、彼が率いるグループのファースト・エディションは、ベトナム戦争復員軍人の物語が綴られた「Ruby, Don’t Take Your Love To Town」で、ナンバー2に躍り出た。しかし、結局「Sugar Sugar」と「Two Little Boys」に妨げられ、ケニー・ロジャースは、6週間苛々しながら1位の座を眺めるだけどなった。
1953年6月から通算8週間という、イギリス・チャート・ナンバー2に最も長く留まったイギリスのバンド・リーダーのフランク・チャックスフィールドとそのオーケストラによる、「Terry’s Theme From ‘Limelight」を除外するのはフェアではないだろう。イギリス・シングル・チャート初期のその当時、このレコードは23週間という眩暈がするような期間トップ10内に居続け、その内の21週トップ5入りし、4度ナンバー2になった。
このプレイリストを、ナンバー2に最も長く留まり続けた曲の一覧表に変えてしまわずに、入れておく必要のあるものがあと2つだけある。それぞれが計7週間という苦しい期間、栄光の一歩手前の座に居た、オール・フォー・ワンの1994年のバラード「I Swear」とパット・ブーンの1957年ヒット「Love Letters In The Sand」だ。
同情票と呼ばれても構わないが、ザ・フーはリストに入れるべきだと我々は思う。グループはイギリスでトップ10シングルを14枚とナンバー2を2枚記録したが、ナンバー1になることは一度もなかった。2位を獲得した2曲のうちで我々の票を集めたのは名作「My Generation」だ。それはこの曲が不運にもザ・シーカーズの「The Carnival Is Over」に負けたという理由からではなく、単純にその文化的影響を考慮した結果だ。
歴史的重みを考えると、ナンバー1シングルになっていてもおかしくはないのに、ひとつ手前で止まってしまったブリティッシュ・ロックの名作は他にも数多くある。ザ・キンクスの「Waterloo Sunset」は間違いなくそのひとつ。1967年5月にザ・トレメローズの「Silence Is Golden」に阻まれた、ポップ・ライフの一場面が描かれた、時代を超越した曲だ。オアシスは「Wonderwall」でナンバー1を手にしていると信じ込んでいる人は多いだろうし、1995年10月に元俳優の歌手達ロブソン&ジェロームの「I Believe」と「Up On The Roof」によって、その道を妨げられたことに対して激怒する人はもっと多いだろう。
我々のリスト13の不運な13枚目は、長い期間チャートに居たナンバーだ。ザ・ポーグス・フィーチャリング・カースティ・マッコールの「Fairytale Of New York(邦題:ニューヨークの夢)」は、最も頻繁に登場するクリスマス・ナンバーのひとつだが、1987年のクリスマスに向けて初リリースされた時は、ペット・ショップ・ボーイズの「Always On My Mind」に止められ、1位を獲得することはなかった。マッコールとザ・ポーグスのフロントマンのシェイン・マガウアンは、過去12年間に渡り毎年イギリス・トップ20チャートに舞い戻り、トップ100に計84週間居たが、ナンバー1になることは一度もなかった。まさに不運としか言いようがない。
♪ プレイリスト『The 13 Unluckiest Singles』
By Paul Sexton
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