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エレクトロニック・ミュージックの発展を支えた電子音楽楽器の発明家たち

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愛されるラヴ・ソングが多くの人々の経験、状況、欲望を不思議とそっくり映し出すように、抽象的なエレクトロニカも人々のどことない不安、死への恐怖、あるいは驚くほどの感動を再現する。人間のミステリアスさ、潜在意識の流れに入り込み、アルカディアの街並みや不気味な銀河のディストピアのイメージを思わせるのだ。

この強烈な気持ちやイメージを起こさせることでラジオ、映画、テレビ業界に引っ張りだことなり、エレクトロニック・ミュージックは適切にその時代や設定を物語り、感情を引き起こし、かつ限られた予算の中でそれを実現してきた。しかし、エレクトロニック・ミュージックはまるっきり感情を避けることもでき、その代わりに非現実的で断片的な夢の世界に入り込むのだ。

すでにエレクトロニカに目新しい価値はないとしたら、何年も前に先見の明があったパイオニアたちが残した作品は今でも人々に驚き、興奮、混乱をもたらしているということだと述べるに値するだろう。ムジーク・コンクレート(*訳注:1940年代後半に作られた現代音楽のジャンルのひとつ。具体音楽)の創始者たちが作ってきた前例を侮るなかれ‐そこには力強い探究心とサウンドの再考と新たな目的の可能性へ魅了されたことによって生まれた精神があった。この時点では電子信号を生成するのは“エレクトロニック”の要素に着目していたからではなく、テープのレコーディングを加工するという根本的な本質に着目したからであった。

Musique Concrete

 

1944年、カイロのハリム・エル=ダブが23歳でリバーヴの激しい「The Expression Of Zaar」を制作、これがテープのマニピュレーションやポスト・プロダクションを楽曲作りのツールとして使った貴重な第一歩と言われている(エル=ダブの1959年の 「Leiyla And The Poet」もまた面白いダダイストのベンチマークである)。1948年、パリのステュディオ・デセーの創設者であるピエール・シェフェールが電車、船、鍋や蓋を回転させた音などのレコーディングを細工し、不吉な激しい加工をしたピアノのサウンドを取り込んだ驚愕の 「Cinq Études De Bruits」を発表。そして1951~52年にはヘルベルト・アイメルトとロバート・バイヤーが 「Klang Im Unbergrenzten(無限の空間のサウンド)」を、“磁気テープに直接”作曲するという目的のもと設立されたWDRケルン電子音楽スタジオで制作した。

この“音色の詩”は短いエコーやオシレーター(発振器)の荒野のようであり、メロディ、ハーモニー、リズムよりもむしろピッチ、持続する時間、ダイナミクス、音質が重要視された。しかし、アコースティックの音源のレコーディングを作り直すというコンクレートのメソドロジー(方法論)に忠実でいるのではなく、最初から目的に合わせて制作するというアプローチをとった。これがドイツのエレクトロニシェ・ムジークを築く際の重要な要素となった。

二つの相反する原理を見事にひとつにしたのは、WDRスタジオのカールハインツ・シュトックハウゼンで、彼が1956年に発表した不気味な 「Gesang Der Jünglinge(邦題:少年の歌)」では、フルートのようなソプラノの少年の歌っている声を再構成し重ね合わせ、それをフィルターされたホワイトノイズと電子的に生成されたパルスやサインウェーヴのトーンと融合したのだ。(シュカールハインツ・シュックハウゼンの音響的な野心を見せつけた「Kontakte」は1958~60年の間にWDRスタジオで制作され、これがまたエレクトロニシェ・ムジークの世界の大きな飛躍を示すものだった)。

50年代のヨーロッパは決して電子音楽のパイオニアを求めているとは言えなかったし、その彼らが望むようなプロジェクトを追求できる場もなかった。1955年、ルチアーノ・ベリオとブルーノ・マデルナがイタリアのRAI電子音楽スタジオを設立、すぐにジョン・ケージやアンリ・プッスールを迎え、前者の「Fontana Mix」(1958年)や後者の「Scambi」(1957年)はここで制作された。ダルムシュタットのクラニッヒシュタイン・インスティチュートには電子音楽作曲スタジオがあり(1955年開設)そこでヘルマン・ハイスが「Elektronische Komposition 1」を1956年に制作。パリでは、建築家ル・コルビュジエの助手だったヤニス・クセナキスが「Diamorphoses」(1958年)など構造的そして数学的な基準を適応した楽曲を、ピエール・シェフェール率いるGRMのもとで制作した。

遠く離れた東京のNHKスタジオは1955年に電子音楽施設を設け、黛敏郎による確立された電子作曲をもたらした。コロンビア・プリンストン電子音楽センターはコロンビア大学に1958年に設立されたものの(最先端のRCAマーク IIサウンドシンセサイザーを所有していた)、同年にイギリスで同じような目的の施設を立ち上げたダフネ・オラムとデズモンド・ブリスコには及ばなかった。

BBCレディオフォニック・ワークショップはメイダヴェールのBBCの敷地内に作られ、BBCのラジオやテレビのスケジュールに徐々に浸透しつつあった先鋭な実験的ドラマに合うサウンドトラックを求めていた番組制作者を満足させるためのものだった。そういう意味ではオラムは極めて適した人物で、1942年にスタジオエンジニアとしてBBCに入社、その恐ろしいほどの知識を駆使して1957年にジャン・ジロドゥの戯曲「アンフィトリオン38」のラジオドラマに先例のない電子音楽のスコアを作り上げた。

Oramics Machine, Daphne Oram, BBC Click Jan 8, 2012

 

BBCレディオフォニック・ワークショップの初期の制作の中には「火星人地球大襲撃(原題:Quatermass & The Pit )」や「ザ・グーン・ショー(原題:The Goon Show)」のサウンドキューもあったが、1958年のブリュッセル万博で音楽実験の展示を見たオラムは、自分の野望を果たすためには独立しなければならないという彼女の確信をより強固なものにした。そのとおり彼女は1959年にBBCを離れ、ケントのホップ乾燥所を改装して電子音楽のためのオラミックススタジオをタワーフォリーに作り、そこで非常に想像力に満ちた機械で要するに35mmフィルムに直接「音を描く」ことを可能にしたのだ(現在オラミックの機械はロンドンの国立サイエンス・ミュージアムに常設展示されている)。

オラムのEP『Electronic Sound Patterns』は1962年HMVレコードよりリリースされ、60年代の学校の“音楽と動き”のインタルードに伴う一風変わったものとして作られた。彼女は前の雇用主であるBBCからの定期的な発注(さらにソフトドリンクのキアオラやレゴなどの広告も)をこなしながら、高尚な試みを持って作品を作り続けた、「Bird Of Parallax」はまさにそれが描き出されたいい例だ。

オラムがレディオフォニック・ワークショップを去ったことにより、1959年マダレナ・ファガンディニの参画をもたらし、若干遠回りではあるものの、1960年にデリア・ダービーシャーへと繋がった。マダレナ・ファガンディニの主な作品はジングルや放送で使われる短い識別表現である「インターバル・シグナル」だった。ザ・ビートルズのプロデューサーのジョージ・マーティンは「タイム・ビート」のベースとしてマダレナ・ファガンディニのインターバル・シグナルを活用し、1962年にレイ・カソードという偽名でリリースした。その一方で、デリア・ダービーシャーは、レディオフォニック・ワークショップの最も賞賛される時代を築いた革新的な作品を常に作り続けていた(まだ男性社会が強く根付いていた時代だったことを思えば彼女の功績はより賞賛すべきものである)。

Time Beat (Remastered)

 

ロン・グレイナーの「ドクター・フー」のテーマ曲の過激な解釈が彼女の最もよく知られている作品だが、デリア・ダービーシャーは病的なまでに常に限界に挑み続けた。「Inventions For Radio」(1964/65年)は脚本家/作曲家のバリー・バーマンジとのコラボレーションとして作った4つの作品で、繰り返されるフレーズや寂しいこの世のものとは思えない背景に基づいた幻覚的で不可解なサウンド・デザインを活用した。特に「The Dreams」は人間の精神の奥深くにある未知の部分を刺激する‐「すべては黒く、私は落ちて落ちて落ちる」。BBCでの作品をさらに上回るのが、レディオフォニック・ワークショップの同僚であるブライアン・ホジソンとEMSの共同設立者であるピーター・ジノビエフと共に1966年にユニット・デルタ・プラスを創設し、そこで1969年に開発したVCS3シンセサイザーだ。

デリア・ダービーシャーとブライアン・ホジソンはその後カライドフォン・スタジオをデヴィッド・ヴォルハウスと立ち上げ、演劇の制作、展示会や広告のための電子音楽を提供した。しかし、ホワイト・ノイズとしても活動していたトリオは「An Electrical Storm」をレコーディング、1969年にアイランドよりリリース、不気味で謎めいたエレクトロニック・ポップという独自のサブジャンルを築いた素晴らしい作品だった。

VCS3シンセといえばそのビジュアルデザインを担当した作曲家トリストラム・キャリーにも触れておきたい。トリストラム・キャリーの電子音楽への貢献はトランク・レコードの「It’s Time For Tristram Cary」で、そしてEMSの同僚であるピーター・ジノビエフはスペース・エイジ・レコーディングの「Electronic Calendar- EMS Tapes」のコンピレーションで聴くことができる。

Peter Zinovieff: Synth Pioneer

 

アメリカではロバート・モーグがモーグ・シンセサイザーを開発し1967年にモンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティバルで披露、シンセが確かな楽器であるということを知らしめ人気を得た。初期のモーグはザ・モンキーズ(「Daily Nightly」、「Star Collector」)、ザ・バーズ(「Space Odyssey」)、ウェンディ・カルロス(『Switched-On Bach』)そしてもちろん、ザ・ビートルズ(『Abbey Road』)など様々なレコーディングで使用された。

また、他にも称えるべきは電子部品の山から独自のシンセ、モジュレーター、ヴォコーダー(それも「ファラド」と名付けた)を作ったカナダの作曲家ブルース・ハーク。ハークの「The Electric Lucifer」(1969年)はコンセプチュアルなエレクトロニックアシッドロックの衝動的な独自の象徴となった。アメリカの作曲家ポリーン・オリヴェロスは60年代のサンフランシスコ・テープ・ミュージック・センターの創設者の一人であり、独自の信号処理システムを制作し、シルバー・アップルズのシミオン・コックスIIIも同様に、9つのオーディオ・オシレーター、7つのテレグラフキーと複数のペダルで信号処理システムを作った。

70 年代の頃には徐々に励みになる見識のあるメンタリティーが広がり、クラブ・デセー出身のピエール・アンリがスプーキー・トゥースのような明らかなロック・バンドと共作するまでになった(賛否両論のアルバム『Ceremony』において)。電子音楽というものを普及させたという意味では、ドイツの同じようなアーティストにひけをとるが、そこに至るまでは彼らも辛い時期を余儀なくされた。例えば、タンジェリン・ドリームは1973年2月のテアトル・パリジェン・ルエストのライブでファンにママレードの袋を投げられ、キーボード2台が台無しになった。また洗練された内気なクラフトワークが1975年にアメリカをツアーをした頃は、デニム姿の人々のグループに「ブギー」と叫ばれ困惑したものだ。

これが先駆者たちのグループだ。ここに述べた一人一人が果敢に挑み、この楽しく不気味な未知の世界への扉を開いてくれたことに我々は感謝すべきである。

Written By Oregano Rathbone


 

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