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「このマスクの歌手は誰だ?」歴史初の宣伝手法とデルタ・ブルースの父、チャーリー・パットン
1929年6月、既に40歳を越えていたチャーリー・パットンがドーキー・ファームから北に進路を取り、インディアナ州リッチモンドまで赴いた。リッチモンドにはパラマウント・レーベルの本拠地があった。
6月14日、そのパラマウント・レーベルで彼は14曲を録音した。そうしてできた「デルタ・ブルースの父」ことパットンの初レコードは、「Pony Blues」と「Banty Rooster Blues」のカップリングの2曲。その直後に出た2枚目のレコードは、「Prayer of Death (parts 1 and 2)」だったが、こちらの歌手名はパットンではなく、エルダー・J・J・ハンドリーとなっていた。このレコードはスピリチュアル色が強かったので、おそらくパラマウントはストレートなカントリー・ブルースだったパットンのデビュー作と区別して扱うことにしたのだろう。
そして1929年11月ごろに出た3枚目のレコードで、パラマウントの販売部はさらに暴走した。そのレコードは「Mississippi Boweavil Blues」と「Screamin’ and Hollerin’ The Blues」のカップリングで、パットンの名前はどこにもなし。上画像の広告を見ればわかるように、パラマウントはこれを「ザ・マスクト・マーヴェル」なる覆面歌手のレコードとして売り出したのだ。また、下の画像の広告はクイズ形式になっており、歌手の正体を当てた正解者には好きなパラマウントのレコードがもう1枚無料でプレゼントされると宣伝されていた。
このレコードに入っていた「Mississippi Boweavil Blues」は、綿花の害虫であるワタミハナゾウムシのことを歌っている。この虫は19世紀後期にアメリカ南部に広まり、綿花畑に大きな被害を与え、綿花の大農場も大損害を被った。その結果、そうした農場で働いていた小作人たちが北部やシカゴのような大都市に移住するようになった。この曲を作ったのは実のところパットンではない。彼は単に、ミシシッピのデルタ地帯で長年歌われていた曲を改作しただけだった。
この「ザ・マスクト・マーヴェル」は、おそらくレコード会社による独創的なマーケティングの例としては初めてのものだろう。それからというもの、この手の戦略はあちこちの会社で編み出されていくことになる。
By Richard Havers
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