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シザー・シスターズがどうやってクィア・ポップを再び盛り上げたのか?
2000年代初頭、ニューヨークの活気に満ちたゲイ・ナイトライフ・シーンからシザー・シスターズ(Scissor Sisters)が誕生した。そして破天荒なステージ・ショーと快楽主義的な決めフレーズによって、彼らなりのグラム・ディスコを復活させた。
その時期にはストロークスをはじめとする様々なバンドがやはりニューヨークで再びロックを盛り上げていたが、シザー・シスターズはストロークスと同じような成功を収めることが出来ずにいた。やがて彼らはイギリスに渡る。そちらではキャンプ趣味が決してめずらしくなかった。さらには、ジョージ・マイケル、10cc、エルトン・ジョンを聞いて育った人間がたくさんいた。そんな国では、シザー・シスターズならではのエキセントリック・ポップが諸手を上げて歓迎されたのだ。
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当時のアメリカの中産階級にとっては、シザー・シスターズはせいぜい結婚式で頼りになるバンド程度の存在でしかなかった。しかし、ノリのいいピアノがシャッフルする「Take Your Mama」には、母親を酔わせたうえで自分がゲイだとカミングアウトするという歌詞が隠されており、それはまだ当時ではあらゆる人の理解を超えるものだった。とはいえウォルマートは何かが起きていることを察知し、このグループのデビュー・アルバムを販売停止にしている。ウォルマートの説明によれば、販売停止の理由はこのアルバムに「Tits On The Radio」という曲が含まれていることにあるとされていた。
シザー・シスターズは、エレクトリック・シックスやクローメオのような真面目なダンス・ポップの伝道師たちと同列に扱われることが多いが、全世界で700万枚以上のセールスを記録し、イギリスのアルバム・チャートでは1位を獲得するなどシザー・シスターズは商業的に大成功を収めた。しかしそれだけではない。彼らは、ゲイ・カルチャーをメインストリームに浸透させることにも貢献してきたのだ。
アンダーグラウンドの精神
シザー・シスターズは「ニューヨークのバンド」だが、それは名目上のジャンル分けに過ぎない。彼らは、ポスト・ミレニアムの象徴となったクールで冷静なガレージ・ロックのリバイバルとは正反対の存在だった。このグループの5人のメンバー、つまりジェイク・シアーズ、ベイビーダディ、アナ・マトロニック、デル・マーキー、パディー・ブームは、橋を渡ってすぐのところにあるブルックリンのウィリアムズバーグで頭角を現し、この地区やロウアー・マンハッタンを賑わせたゲイ、ドラァグ、パフォーマンス・アート・パーティーを体現していた。
LGBTQの仲間であるピーチズやレディトロンと共に、シザー・シスターズは当初はありふれたただのエレクトロクラッシュ・グループとしてスタートし、元ゴーゴー・ダンサーのシアーズが派手な衣装を着てステージに登場していた。しかし、ピンク・フロイドの「Comfortably Numb」のディスコ・ポップ・カヴァーを出したことで、このグループは注目を集める存在になった。彼らの美学は1980年代のダンステリアにあったのかもしれないが、音楽性は1970年代のディスコ、グラム・ロック、ポップ・ロックに近いものだった。何しろシアーズは、2018年の自伝『Boys Keep Swinging』に、デヴィッド・ボウイの1979年のシングルにちなんだ題名をつけているくらいだ。
アメリカのレーベルはどこもシザー・シスターズに手を出さなかったが、このバンドはイギリスのポリドール・レーベルと契約し、2004年にデビュー・アルバム『Scissor Sisters』をリリースした。まもなく彼らはグラストンベリー・フェスティヴァルに出演し、デュラン・デュラン、モリッシー、ペット・ショップ・ボーイズなどの大物たちとツアーを行い、ニューヨークのゲイ・アンダーグラウンドの精神をライヴ・ショーに持ち込んだ。わずか数年のあいだに彼らは自らの心の故郷を見つけ、デビュー・アルバムは全英チャートのトップに立ったのだ。
ポップス界の撹乱者
シザー・シスターズの奔放な華やかさは、ライヴで観客を魅了していた。とはいえ、このグループは古典的なメロディと職人技的なポップ・サウンドにも傾倒していた。それは彼らにとって不朽のパワーとなり、また年配のファンへのアピールにもなった。2枚目のアルバム『Ta-Dah』に収録されている「I Don’t Feel Like Dancing」や「I Can’t Decide」といったヒット曲は、昔から聴き馴染んでいた曲のようにも聞こえた。なぜならこうした曲は、ポップス界の先輩であるエルトン・ジョンやポール・ウィリアムスとのコラボレーションで生まれた曲だったからだ。
リバイバルと歴史修正主義とのあいだにははっきりとした境目がある。しかしシザー・シスターズは、性別やジャンルの枠にとらわれていなかった。彼らは、ポップス界の撹乱者だったスパークスやモット・ザ・フープルのサウンドを体現していた。さらに言えば、あの時代を象徴していた遊び心や実験性をも集約したようなグループになっていたのだ。
インクルーシブの唱道者
シザー・シスターズという名前を持つ彼らは、自分たちを有名にしたファン以外には決して迎合しなかった。ソフトセルのマーク・アーモンド、ブロンスキー・ビート、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド、カルチャー・クラブのボーイ・ジョージ、ジョージ・マイケルといった彼ら以前のクィア・ポップの代表的なアーティストたち 同じように、シザー・シスターズはクィア・ポップの新時代を切り開く役割を担い、2010年代にトロイ・シヴァンやヘイリー・キヨコのようなアーティストたちが登場してくる下地を作った。しかし、だからといってマスメディアからのレッテル張りから逃れられるわけではなく、ジェイク・シアーズは昨年、NPRのインタビューに答え、次のように語っていた。
「あのころに話題になったのは、僕とベイビーダディとデルがゲイだ、ということだけでした。どのメディアがインタビューしに来ても、まず最初にその話を質問してくる。ああいうのにはイライラしたけど、とにかく僕らがとにかく前に進み続ければ、僕らの後に続く人たちが楽になる。そのことはわかっていました」
2010年の『Night Work』のジャケットをデザインする際、シザー・シスターズはダンサーのピーター・リードを後ろから撮った写真を使用した。その写真は、著名な写真家でパティ・スミスのパートナーでもあった故ロバート・メイプルソープが撮影したものだった。別の写真を使えば、レコードの売り上げはもっと伸びただろうか? その可能性は高い。しかし、異性愛者の一般大衆を喜ばせることは彼らの目的の中には決して含まれていなかった。
ようやく認知されたシザー・シスターズの影響
ニュー・ディスコの輝きを放つシザー・シスターズは、母親も一緒に歌えるようなゲイ・アンセムをリリースしてきた。2012年のアルバム『Magic Hour』に収録された「Let’s Have A Kiki」は、ルポールの「Supermodel」やマドンナの「Vogue」と同じようにドラァグ・ボール・カルチャーを歌詞に読み込んだシングルであり、この種の曲としては今のところ最後のものとなっている。(「Kiki」とは、ドキュメンタリー映画『パリ、夜は眠らない。』で説明されているように、たくさんの「お茶」や「読書」、あるいはゴシップを交えたパーティーや交流のことをさしている)
しかし、シザー・シスターズはクラブ・キッズ向けのヒット曲「Filthy/Gorgeous」をリリースしていただけではなかった。亡き友人メアリー・ヘンロンを追悼する歌「Mary」を聞けばわかるとおり、彼らは時として沈痛な雰囲気になることもあった。
シザー・シスターズはゲイ・カルチャーをメインストリームに広めただけでなく、それを当たり前のものにした。それはヴィレッジ・ピープルが「YMCA」で成し遂げたことに似ていたが、シザー・シスターズの場合、ゲイ的な要素を包み隠さずあからさまに表に出していた。しかし、エイズ危機から20年後に登場してきたシアーズとその仲間たちは、カミングアウトできなかったかつての先人たちと同じルールに従う必要はなかったのだ。
レディー・ガガが登場する前、シザー・シスターズはメインストリームにおいてアヴァン・ポップとゲイ・カルチャーの火を灯す唯一の存在だった。4枚のアルバムを発売し、全てがUKチャートTOP5以上でうち2作が首位の座に送り込んだあとの2012年、シザー・シスターズはロンドンのカムデン・ラウンドハウスでパフォーマンスを行っているときに、無期限の活動休止を発表した。デビュー・アルバムの発表から約15年が経過した今、ようやく彼らの文化的な影響が認知されつつある。
Written By Laura Stavropoulos
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