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‘キング・オブ・ブルース’ B.B.キングを偲んで
シンプルに‘B.B.’と略され世界中の何百万人ものブルース・ファン達に知られている男は、2015年5月14日、89歳でこの世を去った。糖尿病の合併症で病気で入院したことを含む一連の健康状態の悪化が続いた末での他界であった。それにも関わらず、2013年の時点でさえも彼は‘ルシール’と自身が名づけたギターを抱え、大好きだったコンサートを年間100本もこなしていた。数多くのライヴで演奏し、アルバムをリリースし続けることで、彼は自分が愛する音楽を世間に紹介し、ブルースが人々に悲しみ同様に幸せな気持ちも与えてくれることを気づかせてくれたのだ。
本名ライリー・B.キングは、アルフレッド・キングとノーラ・エラ・キングの息子として1925年にミシシッピ・デルタ地帯のディープな中心地、インディアノーラで誕生した(*注:生まれはイタ・ベーネのコットン農園)。ファースト・ネームの「ライリー」は、両親が住み込みで働いていた農園所有者のアイルランド人のラスト・ネームに由来する。「農園のオーナーはジム・オライリーという名前だった。うちの親父とミスター・オライリーは凄くいい友人同士で、彼にちなんで私の名前をつけたが、頭の“O”を外したらしい。自分の名前の由来を理解できる年齢になったある日、親父に”ミスター・オライリーにちなんで名付けたのに何故’O’を外したの?と聞いたら、”お前はどう見てもアイルランド人には見えないだろ!“って言われたよ」。
B.B.キング曰く「いかなる時でも、農園で生まれた者には選択肢が存在しなかった。農園第一で、それは常に最優先」であった。だが、間もなくしてライリー・B.キングの名前はビール・ストリート・ブルース・ボーイとして認知されることで変わっていった。この小作人の息子は1946年(*注:1947年の説もあり)にメンフィスに移り住み、いとこのブッカ・ホワイトと暮らしていたが、程なくしてトラクター運転手として働くためにインディアノーラへ舞い戻った。
「私が得ていた基本的なトラクター運転手の基本給の週給22.5ドルは、あの辺りで働いていた他の人達と比べて高額だったよ」- B.B.キング
サニー・ボーイ・ウィリアムソンのラジオ番組に刺激を受けた若き日のライリーは、その後1948年にメンフィスへ戻る。「サニー・ボーイのオーディションを受けることになり、アイヴォリー・ジョー・ハンターの‘Blues of Sunrise’を歌ったんだ。当時サニー・ボーイはウェスト・メンフィスにあったシックスティーンス・ストリート・グリルという小さな店で演奏していて、サニーは雇い主のミス・アニーという女性にこう言ったんだ‘今夜、奴を俺の代わりとして店へ送るから’って。それから私の仕事は賭け事をしない若者達のために演奏するになったんだ。シックスティーンス・ストリート・グリルの店内後方にはギャンブルできる場所があって、もし男性客が賭け事をしないガールフレンドや奥さんを連れてきた場合、その女性達が踊れるような音楽を演奏し、楽しんでもらうのが私の仕事だった。お客さんが私の演奏を楽しんでくれた様子だったので、ミス・アニーから‘あなたもサニー・ボーイみたいにラジオ局の仕事をもったら、部屋と食事込みで週6日勤務、一晩12.5ドル支払うわよ’と言われたんだ。その時は信じられなかったね」。
彼は地元のラジオ局WDIAで働き始めた。「ラジオのディスク・ジョッキー時代、私はビール・ストリートから来た男だからか‘ブルース・ボーイ’と呼ばれていた。後に、皆が私宛に‘ブルース・ボーイ’と書く際に’B.B.’と略すようになったんだ」。そして、メンフィスでの人気のお陰で、1949年にB.B.はブレット・レコードでレコーディングのチャンスを得ることになった。最初に出したシングル盤の売上はさほどではなかったものの、1950年9月にサム・フィリップスは彼のレーベル、メンフィス・レコーディング・サーヴィスのスタジオへB.B.を送った。そして、タレント発掘のためにメンフィスを訪問中だったバヒリ兄弟がB.B.を見つけて彼らのRPMレーベルと契約することになり、B.B.はサム・フィリップスと録音したシングル盤をリリースすることになった。これらのレコードはヒットしなかったため、ビハール兄弟の一番下の弟であるジョー・ビハールは1951年1月8日にメンフィスへ行き、YMCAの部屋を借りてB.B.キングのレコーディングを行った。ジョーはその次のメンフィス訪問中にB.B.キングによるローウェル・フルソン「Three O’clock Blues」のカヴァーを録音。同曲は1951年12月29日に全米チャート入りし、1952年初頭には最終的に5週間1位を獲得した。これはオーヴァーナイト・センセーション(一晩で一躍有名になるような突然の成功)ではなかったが、現代ブルース史における最も成功した、長いキャリアの始まりであった。
「我々は、白人向けには演奏しない。将来どうなるかは自分でもわからないし、‘白人のために演奏はしない’って言ってる訳じゃないよ。レコードは不思議なもんでね。有色人種層向けにマーケティングしても、突然白人達が気に入ってくれると、自分のコンサートにドーン!と白人客が集まるようになるんだ」- 1950年代のB.B.キング
成功を収めた始めた当初、B.B.キングは自身が大スターだったメンフィスに暮らしていたが、彼が思っていたほど常に大スターだった訳ではない。「我々がメンフィスのオーディトリアムへ行った時、エルヴィス(・プレスリー)がボビー・ブランド、リトル・ミルトン、リトル・ジュニア・パーカー、ハウリン・ウルフ、そして私の演奏を観ていた。全員ステージ経験者だった。ステージを沸かすボビー・ブランドは観客を躍らせることができ、リトル・ミルトンと私はいつもと同じく自分達がやるべきことをやっていたけど、ボビー・ブランドみたいに観客をすぐに躍らせることができなかった。我々はそのままステージ上に残っていたら、次のハウリン・ウルフの登場で皆がクレイジーなほど大騒ぎし始めたんだ。リトル・ミルトンは‘こりゃ、凄いことになってるな’と言った。そこで、ジュニア・パーカーが‘さぁ、行こうぜ’と声をかけると、ウルフは“Spoonful”を演奏し始めた。我々もついていくと、今度はウルフが跪き、床を這い回ったんだ。とにかく観客がもう大騒ぎで、その時やっと一体何が起きていたのかわかったよ。奴のズボンの尻の部分がヤブれてたんだ!ケツ丸見えでね!」
ある夜、B.B.キングがアーカンソー州トゥイストのクラブに出演した際に客同士の喧嘩が原因でストーブが倒れ、木造の建物が火事になった。バンドとオーディエンスが慌てて外に避難した後、キングは30ドルもする自分のギターを会場に置き忘れたことに気づいた。彼は燃え上がるクラブ内へと急いで戻り、命がけで何とか自分のギターを取り戻すことができた。その後、喧嘩の原因は、”ルシール”という女性を巡った争いだったことが判明し、B.B.キングは自分のギターにその名前をつけた。その結果、ギブソン社のカスタムメイドのギターの約20本には全て‘ルシール’という名がついている。
RPM時代のB.B.キングはヒット曲を次々と量産し、その後1958年ケントに移籍するまでの間にR&Bチャート1位を3度も獲得した。そして、60年代の大半はケントに在籍、その後R&B チャート首位には二度と輝かなかったものの、沢山のヒット曲を放った。彼の甘美でゴスペル色を帯びた歌声は卓越したシングル・ストリング・ピッキングと相まって、たまらなく魅力的な組み合わせだった。それは、キングをR&Bチャートにおける史上最高の成功したアーティストの1人へと押し上げた。
「我々は自分達の兄弟をしっかり見守る者であることを、皆に伝えようと努めている。つまり、肌の色が赤、白、黒、茶色、黄色であろうと、富める者でも貧しい者でも、誰にでもブルースはあるから」- B.B.キング
1960年後半までに、B.B.キングは彼の仲間であるブルース・ギタリスト達と同様に若い白人のロック・アーティスト勢から見出され、それによって彼のキャリアは大きく後押しされた。1970年に「The Thrill is Gone」はR&Bチャート3位となり、更にジャンルを超えて全米シングル・チャートでは15位まで上昇し、B.B.最大のヒット曲となった。1969年にはB.B.はその後何度も訪問することになるヨーロッパへ初めて渡った。欧州のオーディエンスはレジェンドであるB.B.キングがエリック・クラプトンやピーター・グリーン達へ音楽的影響を与えたことを熟知していたため、彼を受け入れる態勢が整っていたのだ。B.B.キングによる1964年録音のアルバム『Live at the Regal』は、大西洋の両側に住むミュージシャンとファン達に長年崇められてきた作品である。
「そうだな。B.B.キングはまるでヒーローだった。バンドはどうかって? あのバンドが『Live at The Regal』でスウィングするのを聴いてみろよ。まるで道路をならす蒸気ローラーのような威力だから」― ミック・フリートウッド(フリートウッド・マック)
B.B.キングの成功の大部分は、彼のコンサートに起因するであろう。彼は常に「最も働き者なライヴ・パフォーマー」の1人であり、ライヴ活動が少ない年でさえ年間250~300本もの公演を行っていた。また、彼はバンドを結束させる才覚を持っていた、それは彼のバンド・リーダーとしての腕前の印だが、おそらく彼のボスとしての寛大で思いやりのある気質が恐らく大いに関係しているに違いない。
「うちのバンド仲間は素晴らしいミュージシャンというだけじゃなく、お互いに忠実なんだ。だから、皆で集まると楽しい時を過ごせるね。全員私と長年一緒にやってきた仲間で、ドラマーのサニー・フリーマンは約18年一緒に演奏したし、現在のシニア・トランぺッターは21年間も一緒。1人を除き、全員が10年以上も私と一緒にプレイしてきた仲間達なんだ」- B.B.キング(2000年)
1969年にB.B.はザ・ローリング・ストーンズとアメリカ・ツアーを行い、多くの人々にとっては初めて史上最高のアーティストの1人であるB.B.キングの生演奏を観覧することになった。ビル・ワイマンはこう語る。「当時はよくステージ脇でB.B.キングの演奏を聴いたよ。彼の12人編成バンドは卓越したミュージシャン揃いだった。彼の演奏でいつも驚かされたのは、叩きつけるような激しい演奏の後にテンポを下げて囁くように歌い始めるところだった。そうすると、会場は静まり返り、飾りピンが床に落ちた音でさえ聞こえてしまうほどだった。そこで突然、B.B.は大きなクライマックスへと盛り上げていくんだ。彼の演奏で好きなのは、そういった音楽の幅広さだね」。
まともな仕事を見つけるのが難しかった1970年代、B.B.キングは常に第一線、もしくはその周辺にいた。彼はテレビ出演さえも果たし、それは当時他のブルース系アーティスト勢ではほぼ誰も実現していないことであった。そして、他のギタリスト達と共演した彼の評判の良さは、B.B.キングにブルース界の長老政治家のような地位を与えた。ブルースの意味を雄弁に説明することで、彼はブルースが下火になりかけた時に盛り上げる手助けをした。中にはブルースにしてはポップすぎるという批判もあったが、それはB.B.キングの成功の一片も達成できない者達からの負け惜しみだった。
ロックの殿堂入りした翌年の1988年、B.B.キングはU2のアルバム『Rattle & Hum』に参加。収録曲「When Love Comes to Town」での彼の演奏は、63歳でもまだ輝きを失っていないことを証明した。外部アーティストとの共演はこれが初めてではなく、70年代にはジャズ・グループのザ・クルセイダーズと共演しており、その他これまでB.B.キングが共演したアーティストには盲目のシンガーのダイアン・シューアやアレクシス・コーナー、スティーヴ・ウィンウッド、ボビー・ブランド等がいる。2001年にB.B.キングは長年の友人、エリック・クラプトンと録音したアルバム『Riding With The King』でグラミー賞を受賞。同アルバムでは「Three O’Clock Blues」の再レコーディングを含め「Worried Life Blues」や「Key To The Highway」等カヴァーを収録した。
同じ時代の他のアーティストと同様に、B.B.キングはルイ・ジョーダンからインスピレーションを受け、黒人のnミュージシャンでも偉業を成し遂げることができると信じていた。よって、彼はこの伝説のバンド・リーダーの楽曲を録音したいと長年希望していた。1999年にB.B.キングはそのカヴァー・アルバムを発表し、ルイ・ジョーダンへの恩義を示すと共に、「ジュークボックス王」による一連のヒット曲をカヴァーして祝福した。同カヴァー・アルバムのタイトルはB.B.キングに相応しく、何十年にも渡りB.B.キングが自身のライヴのオープニング曲として使用してきたルイ・ジョーダンの楽曲名から『Let the Good Times Roll』と名付けられた。
B.B.キングの偉大な才能は現代の音楽ジャンルの激しい変動を切り抜けて、面白いアルバムを出し続けた。B.B.は底辺にあったブルースを米国音楽のメインストリームへと押し上げた。子供時代に聴いた音楽を驚くほど多種多様な他の音楽スタイルと混ぜ合わせ、広範囲に渡るミュージシャン達と演奏することでデジタル時代にもブルースを紹介し続けたのだ。
B.B.キングは、他のアーティスト勢を上回り、議論の余地なく「キング・オブ・ブルース」であったが、その「キング」の亡き今、私達はもう二度と彼のようなアーティストを目にすることはないだろう。
自身のコンサートでは毎回この曲で幕を開けていたこともあり、B.B.キングを偲ぶには同曲を聴くのが相応しいに違いない。
(*本記事およびリストは本国uDiscovermusicの翻訳記事です)
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