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バド・パウエルの音楽人生:精神疾患や中毒に苦しみながら名作を残した“天才”
1947年、ヴァーヴ・レーベルはアルバム『The Genius of Bud Powell』を発表した。レコード会社が「Genius(天才)」という言葉を大袈裟な宣伝文句として使うのは当時は決して珍しいことではなかった。しかしバド・パウエルの場合、「天才」という呼び名は誰もが納得できるものだった。なにしろ彼は、その後の同業者すべてに影響を及ぼした偉大なピアニストだったのだ。
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1924年にハーレムの音楽一家に生まれたバド・パウエルは、コニー・アイランドで活動を始め、カナダのリーズ・チキン・クープやヴァライダ・スノウのサンセット・ロイヤルズで演奏していた。またミントンズの常連となり、そこでセロニアス・モンクに面倒をみてもらえるようになった。パウエルは1943~1945年にクーティ・ウィリアムス・オーケストラのレコーディングに参加しているが、そうした初期録音を聴くと彼がとてつもなく有望な若手ピアニストだったことがよくわかる。
しかし、1945年に大きな挫折が待っていた。彼は酷い頭痛に苛まれ、神経を衰弱させ、ドラッグやアルコールへの依存を深めたのである。その原因のひとつは、警官に頭を殴られたことにもあったのだろう(黒人への偏見に満ちたその警官は、パウエルを酷く殴打した)。そうした健康上の問題は、悲劇的なかたちで彼を生涯に渡って苦しめることになる。
そのような問題を抱えてはいたけれど、パウエルはジョン・カービー、ディジー・ガレスピー、アレン・イーガー、シド・キャットレット、ドン・バイアスらと共演するようになった。1953年のマッシー・ホールでのライヴは特に注目すべきものとなり、彼はそこでガレスピー、チャールズ・ミンガス、チャーリー・パーカー、マックス・ローチと共にステージに上がっている。
そして1957年、ヴァーヴが『The Genius Of Bud Powell』を発表。このアルバムはヴァーヴが出したアルバムすべての中で、最も適切で最高の題名だったはずだ。同じ年、ヴァーヴは『Piano Interpretations By Bud Powell』も出している。このアルバムを含め、パウエルのアルバムはのちにノーグラン・レーベルから多数再発されることになった。
やがて健康状態が改善したパウエルは、1959年から1964年までパリで暮らしている。しかし1962~1963年にかけて、彼は結核と診断され病院に入っていた。そこから出られたのは親切なフランス人ファンのおかげだった(そのファンは自宅にパウエルを引き取り、面倒をみていた)。
パウエルは1964年にニューヨークに戻り、バードランドやその他のジャズクラブに出演したが、たった数回のライヴを行っただけで公の場から姿を消してしまう。彼を神経衰弱に追いやった約20年前の過去の出来事は、あまりにも過酷なものだったのだ。パウエルは1966年の夏に死去。ハーレムで行われた葬儀には5,000人以上が参列した。1986年の映画『ラウンド・ミッドナイト』でデクスター・ゴードンが演じた主人公は、パウエルがおおよそのモデルとなっている。
パウエルがのちのミュージシャンに与えた影響は決して軽視できない。彼はジャズ・ピアノの奏法というものを根底からひっくり返し、新たに作り直した。彼が生み出したアプローチでは、右手が素早い単音メロディを奏で、左手はあまり多用されない。
レニー・トリスターノはこう述べている。「パウエルは、ピアノをただのピアノ以上のものにした。バド・パウエルの偉大さは、誰にも、どんな言葉を用いても説明しきれない」。
ジャズ評論家のヨアキム・エルンスト・ブレントは、もう少し具体的な表現を使っている。「アート・テイタムからはテクニックが生み出された。バド・パウエルからはスタイルが生み出された」。
「芸術面での完璧さ、唯一無二の創造性、生み出した作品の偉大さといった点をふまえてミュージシャンをひとりだけ選べと言われたら、私はバド・パウエルを選ぶ。彼はずば抜けた存在だ」 ―― ビル・エヴァンス
Written By Richard Havers
バド・パウエル『The Genius of Bud Powell』