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新たな段階へと進化した ゲンスブールの『Gainsbourg Percussions』
1964年のセルジュ・ ゲンスブールはほとんど無名のフレンチ・ジャズ・ミュージシャンだった。地元のクラブでミシェル・アルノーのバックを務めるなどで経験を積み、当時からすでに偶像視されていたジュリエット・グレコにも数曲提供していたが、30代後半になる頃には自分の名前でリリースした5作品にそこまでの執着もなく失望していた。もしかするとその失望からか、もしくは完全な厚かましさからかも知れないが、彼はフランス語の音楽で初の試みとなるアフロ・ラテン・ジャズ・アルバムをレコーディングすることにした。
セルジュ・ゲンスブールが“ワールド・ミュージック”のクロスオーヴァーを生み出したわけではないが(エキゾチックな流行が終わりかけていたのもあった)、その堂々とした彼の様子はまるで自分がそれを考案したかのように見せた。「Quand Mon 6,35 Me Fait Les Yeux Doux(邦題:35口径の誘惑)」はセルジュ・ゲンスブールの一層洗練されたジャズ・トラックに仕上がっているが、「Les Sambassadeurs(邦題:大使のサンバ)」はリオ・カーニバルでも疑いもなく受け入られることは間違いない。セルジュ・ゲンスブールは音楽を通じて強い政治的メッセージを伝えることはあまりなかったが、今では時代遅れだが、当時の彼なりに「Couleur Café(邦題:コーヒー・カラー(クーラー・カフ))」では“black is beautiful”というメッセージで1964年に成立したアメリカ公民権法を支援した。ニューヨークのランドマークについて繰り返し歌うゲンスブールにアフリカン・リズムを重ね、そこ合わせた女性コーラスが特徴的な「New York U.S.A.」を発売した直後だったのも影響したに違いない。
このアルバムは、セルジュ・ゲンスブールらしく肩をすくめながらすべてを成し遂げ、まるで簡単だったかのように見せており、中でも「Pauvre Lola(邦題:可哀想なローラ)」のアレンジは美しく、セルジュ・ゲンスブールの威厳のあるヴォーカルから自信が溢れ出し、それに合わせた女性の笑い声がいつも通りの不調要素を与えている。それと同時に礼儀など全く気にしていない様子が伝わってくる。後にナイジェリア人ドラマーのババトゥンデ・オラトゥンジが発売した1959年のアルバム『Drums Of Passion』から影響を受けた「Joanna」、「New York U.S.A.」そして「Marabout」の3曲、そしてミリアム・マケバの「Umqokozo」から影響を受けた「Pauvre Lola」を作り、彼の音楽は新たな段階へと入った。
セルジュ・ゲンスブールにとってこの進化は、形を変え変化していく因襲打破の始まりを示しているのかも知れない。人目につかないように隠れて活動していたセルジュ・ゲンスブールは、1984年テレビに出演した時に500フランの紙幣を平気で燃やしたことや、1966年に暗示が込められた「Les Sucettes(邦題:アニーとボンボン)」を当時18歳のフランス・ギャルに歌わせたこと(註:歌詞の中にフェラチオの隠語が入っていた)に比べても劣らないほどに大胆だった。彼らしい歪んだ方法でやっと手に入れたメインストリームでの成功を祝っていたのだった。
セルジュ・ゲンスブールはその才能を人に知らせるためにどのようにして人を挑発するべきかを把握していた。このアルバム『Gainsbourg Percussions』では、アフリカン・ルーツのロックン・ロールやポール・サイモンが後に南アフリカへ滞在するなど、何らかの影響を与えたはずだ。そして彼は1979年にスライ&ロビーとリタ・マーライーに協力してもらい、またひとつ物議を醸すセルジュ・ゲンスブールの行動をとった。フランスの国家を皮肉っぽく引用したタイトルトラックを収録した『Aux Armes Et Cætera(邦題:フライ・トゥ・ジャマイカ)』をリリースしたのだ。この曲はフランスのメインストリーム音楽にレゲエを持ち込むと同時に、ゲンスブールは殺害の脅迫を受けるほどの騒ぎとなった。
Written By Jason Draper