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メロウ・マン・エースの功績、ラティーノとして初めてゴールドディスクを獲得したラッパー

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Mellow Man Ace
Illustration: Asmar Brody ©uDiscoverMusic

ラティーノのMCとして初めてゴールドに届くアルバムを出したのは、メロウ・マン・エース(Mellow Man Ace)である。ラテン系ヒップホップのゴッドファーザーと広く目される男の生き様を紹介しよう。

1998年、ビッグ・パニッシャーは「この作品でラティーノがプラチナムに届くのが決まっているんだ」と有名なライムを残している。だが、パン(注:ビッグ・パニッシャーの愛称)が『Capital Punishment』でプラチナム・セールスを記録するより以前に、誰かがゴールドを記録しているはずだ。その名誉を達成したのが、ラテン系ヒップホップのゴッドファーザーと広く認知されているメロウ・マン・エースである。

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ヒップホップとラティーノの関係

ラップ・ミュージックが始まった時から、ラティーノ(*1)はヒップホップ文化と音楽を生み出し、支えた。しかしながら、彼らはそれ正しく見合うリスペクトを必ずしも受けてきたわけではない。グラフィティ・アーティストのフリオ204やリー、ジョジョやジミー・リー、スパイ、そしてクレイジー・レッグスといった(ブレイク・ダンスをする)B・ボーイ、DJのディスコ・ウィズやチャーリー・チェイス、MCのルビー・ディー、プリンス・ホィッパー・ウィップ、ディバステーティング・ティト、ペソなど、ヒップホッブ文化におけるラティーノ達の存在感と貢献は否定できないものがある。

初めて英語とスペイン語でラップしたラテン系のクルーはザ・ミーン・マシーンである。彼らは1981年にシュガーヒル・レコーズから12インチで「Disco Dream」をリリースした。その後すぐ、エンジョイ・レコーズからのスパニッシュ・フライ&ザ・テリブル・トゥーの「Spanglish」が続いた。それらを聴いていたのが、アルパニオ・セルジオ・レイエスという若い男性だった。

「1979年に“Rapper’s Delight”を耳にして、それから、カーティス・ブロウの“The Breaks”を聴きました」と説明するのは、後にメロウ・マン・エースとなるその彼である。「そして、1981年にとうとうミーン・マシーンというグループの曲を聴いたんです」。MC達が第1言語であるスペイン語と英語の両方でラップしていることが強く心に残ったものの、彼曰く「完全にはまったのは、最初のヒップホップ映画『ワイルド・スタイル』からですね」。

The Mean Machine – Disco Dream (1981)

キューバ移民の成功への第一歩

子供の時にキューバから移民したメロウ・マン・エースは、ラップとヒップホッブ文化のファンとして育ち、15才ですでにライムを書いていた。1985年、カリフォルニアでハウス・パーティーや学校のダンスパーティーにマイクを握って評判を得るようになり、翌年にはASCAP(*2)やロサンゼルスを象徴するラジオ局、KDAY主催のショウケースなどでパフォーマンスするようになる。

そして弟のセン、友人のB・リアルと、DJグランドミキサー・マグスがいたDVXに加入して、1987年にソロになった(残ったメンバーで結成されたのがサイプレス・ヒルである)。

ソロになって間もなく、エースはマグスから7A3とのスタジオでのセッションに誘われた。その際、デリシャル・ヴァイナル・レコーズのオーナー、マイク・ロスとマット・ダイク、それからザ・ダスト・ブラザーズと名乗っていたプロダクション・チームの面々にエースは出会う。エースはこう語る。

「何小節かやってみせたら、俺のスタイルをすごく気に入ってくれました。それで、翌日また呼ばれて、結果的に最初のレコード契約をオファーされたんです」

メロウ・マン・エースがデビュー・シングル「Do This」をリリースしたのは、1987年である。A面にメロウの英語のラップが、B面にはスペイン語のラップが収録され、マグスのスクラッチも入っていた。これは、リスナーに英語とスペイン語のヴァージョン両方を聴き比べることで、エースがどちらの言語でも上手にラップができることを知らせる狙いがあった。この曲はヒップホップ・ファンを直撃し、デリシャス・ヴァイナルが出資してサンディエゴ大学でのコンサートを行い、その場に居合わせたキャピタル・レコーズのA&R、ケニー・オーリッツは、バイリンガルでライムするエースに感心した。

Mellow Man Ace – Do This (Spanish Flavor)

スペイン語と英簿のバイリンガルラップの先駆者

2種類のラップのオーディエンスの橋渡しと、さらにはそれ以上にクロスオーバーする可能性をエースがはっきりと示したため、デリシャル・ヴァイナルはキャピタルを通して、彼にソロ契約を提示した。デビュー・アルバム『Escape From Havana』の制作が始まり、ザ・ダスト・ブラザーズ、KDAYミックスマスターズのトニー・G、グランドミキサー・マグス、ジョニー・リバース、そしてデフ・ジェフなど才能豊かなプロデューサーが集った。

1989年、『Escape From Havana』に先駆けて「Rhyme Fighter」がリリースされ、「このバイリンガル・ラッパーは、新しいシングルとビデオであなたをノックアウトする」という広告が9月16日のビルボード誌に掲載された。その2週間後、『Escape From Havana』が発売され、ブラック・アルバム・チャートの88位でデビューし、10月には「Rhyme Fighter」がホット・ラップ・シングル・チャートの24位に食い込んだ。ラジオや「Yo! MTVラップ」とBETの新番組「ラップ・シティ」(*3)でシングルが数多くかかるようにつれ、アルバムは着実にチャートを上がっていった。

Mellow Man Ace – Rhyme Fighter – Escape From Havana

「Rhyme Fighter」は、ビルボードのホット・ラップ・シングル・チャートに13週間連続チャートインした。これは、「スパニッシュ・フライ・サイド」と名付けられた、1987年のデリシャル・ヴァイナルからの「Do This」を改題した「Mas Pingon」と、デフ・ジェフと共演したバイリンガル・ソング「En La Casa」が収められたB面の後押しも大きかった。

Mellow Man Ace ~ En La Casa

1990年3月、『Escape From Havana』からの2枚目のシングル、「Mentirosa」がリリースされた。サンタナの名曲「No One to Depend On」と「Evil Ways」をサンプリングし、浮気した彼女と対峙する男の話を英語とスペイン語で語った曲である。この曲は、ラップ・チャートで人気を博しただけでなく、同年の5月12日、ホット100の88位に入り、クロスオーバー・ヒットとなった。翌週から、「Mentirosa」はホット・ラップ・シングル・チャートに18週連続チャートインし続けた。

6月9日、「Mentirosa」はビルボードのホット100のトップ40に、ラティーノ・ラッパーの曲として初めて入った。シングルのヒットで、『Escape From Havana』はブラック・アルバム・チャートに改めて入り、トップ・ポップ・アルバム・チャートでも上がり始めた。このLPは29週間続けてブラック・アルバム・チャートに留まり、リリースしてから1年が経ってやっとチャートから姿を消した。

1990年の6月13日に「Mentirosa」は全米レコード協会認定のゴールド・セールスを記録し、翌日には、全米で6位のベストセラー・シングルとなった。この曲のヒットは、その10年前にミーン・マシーンの曲がメロウ・マン・エースに影響を与えたのと同様に、次世代のラティーノ・ラッパーにとって励みになったのだ。例えば、「Mentirosa」がブレイクしたことで、その直後にキッド・フロストの「La Raza」がホット100に入るクロスオーバー・ヒットとなり、9月にはホット・ラップ・シングル・チャートの10位以内に入る道を切り拓いたのである。

Mellow Man Ace – Mentirosa (Liar)

その後、かなりの数のラティーノのラッパーやグループがメジャーなレコード会社と契約を果たし、シーンを賑わすことになる。パワールール、サイプレス・ヒル、ALT &ザ・ロスト・シビライゼーション、ライター・シェイド・オブ・ブラウン、ファット・ジョー、ビートナッツ、キュリアス、プロパー・ドス、ファンクドゥービエスト、メサンジャーズ・オブ・ファンク、ザ・メキシキンズ、メイン・ワン、アート・オブ・オリジン、ジャズ・B・ラテンなどである。

ヒップホップ文化における自分の立ち位置を尋ねられた際、メロウ・マン・エースはこう振り返っている。

「非常にありがたく、そしてヒップホップを広げられたことはを誇りに思っています。この文化から多くを受け取っていますからね。この先、ずっと感謝するでしょう」

デフ・ジェフはこう付け加えた。

「メルの成功は非常に大きかったんですよ。間違いなく彼は先駆者であり、それを自力で成し遂げたのです」。

Written By Dart Adams

uDiscoverミュージックで連載ている「ブラック・ミュージック・リフレイムド(ブラック・ミュージックの再編成)」は、黒人音楽をいままでとは違うレンズ、もっと広く新しいレンズ−−ジャンルやレーベルではなく、クリエイターからの目線で振り返ってみよう、という企画だ。売り上げやチャート、初出や希少性はもちろん大切だ。だが、その文化を形作るアーティストや音楽、大事な瞬間は、必ずしもベストセラーやチャートの1位、即席の大成功から生まれているとは限らない。このシリーズでは、いままで見過ごされたか正しい文脈で語られてこなかったブラック・ミュージックに、黒人の書き手が焦点を当てる。

※1:ラティーノ:ラテンアメリカ出身者、もしくはその子孫であるアメリカ人。中南米とカリブ海域のスペイン語圏の文化と、一部、ポルトガル語とフランス語も入る。ラティーノは人種ではなく(人種としては白人も黒人もいる)、文化的なグループである。

※2:ASCAP 米国作曲家作詞家出版者協会

※3:「Yo! MTVラップ」と「ラップ・シティ」 80年代終わりから00年代半ばまで放映されたヒップホップ専門のテレビ番組。日本でも収録したビデオが売られるなど、大変な人気を博した。



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