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薬物中毒を乗り越え、40歳の若さで亡くなったジョン・コルトレーンの軌跡
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ジャズの歴史に名を残すことになる彼は、1926年9月にノース・カロライナで生まれた。ジョン・コルトーレーンの父は仕立て屋であったが、数種類の楽器を弾くアマチュアのミュージシャンでもあった。ジョン・コルトレーンも父と同じように高校時代から音楽の才能を開花させ、アルト・ホルン、クラリネット、そしてアルト・サックスを学び始めた。
彼の両祖父がメソジスト教徒の牧師で、母方の祖父はディープ・サウスでは有名なゴスペルの伝道師でもあった。教会に行くことは彼が育つなかでの核となり、ゴスペル音楽が彼の人生のサウンドトラックだった。彼が13歳の時に、彼の父と祖父が1ヶ月のうちに立て続けに亡くなり、彼が高校を卒業した1943年に、新たなスタートのため、彼の家族は北のフィラデルフィアへと移住した。その地で、彼が1945年にラウンジ・バンドでプロ・デビューするまでは、オーンスタイン音楽学校のグラノフ・スタジオで学んだ。
海軍で短い間務めを終えた後、ジョン・コルトレーンは故郷に戻ったが、ハワイ駐在時に海軍のバンドで演奏したことがきっかけとなり、この頃からアルト・サックスに情熱を注ぎ始めた。以後10年間以上かけて、エディー・ヴィンソン(1947–1948)や、アルト・サックスやテナー・サックスで演奏を共にしたディジー・ガレスピー(1949–1951) 、アール・ボスティック(1952–1953)など、様々なバンドと仕事をした。彼にとっての最初の正式なレコーディング・セッションはドラマーのテディー・スチュワートのオーケストラで、ほぼディジー・ガレスピー・バンドと同じメンバーで構成されており、ダイナ・ワシントンがマーキュリー・レコードからリリースしたシングルなどでもバック・バンドも務めている。
1953年からジョン・コルトレーンはテナー・サックスに専念するようになり、1953年から1954年にかけてジョニー・ホッジスと演奏し、この期間、彼がノルグラン・レコードからリリースした幾つかの作品に参加している。1955年には、マイルス・デイヴィスのニュー・クインテットで、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズらと共に、より多くの観客を前に演奏する機会を手に入れた。
ジョン・コルトレーンはマイルス・デイヴィスのクインテットから解雇されたことが原因で、ヘロインやアルコール依存に陥っていた1957年を”精神の目覚めの年”として言及している。以前にも過度の薬物使用によりディジー・ガレスピーから解雇されたことがあったが、マイルスのクインテットから解雇された時にはオーバードースに近い状態を経験し、それらが彼が必要としていた”目覚め”への呼び声になったという。
彼は麻薬中毒治療のために禁断状態を経験し、そこから抜け出した。自分自身を更生するための辛い時期を終えた彼は、1958年初旬にマイルス・デイヴィス・クインテットに再び加入する前に、1957年後半にはセロニアス・モンクのクインテットでジャズシーンへ復帰を果たした。
これまでになく謙虚で、自己批判的になったジョン・コルトレーンはその後、絶え間なく真実の音楽、究極の音というものを探し求めていく。そんなインスピレーションと普遍的真実の探求のため、ライヴの合間には会場から10ブロックほど歩き、双眼鏡で夜空を見つめることでも知られていた。彼の音楽的探求の過程は、リハーサルで並べ替えられた一節一節を新たな音楽的コンセプトに置き換えていくことだった。
この演奏方法は、1958年にジャズ評論家のアイラ・ギットラーによって初めて”シーツ・オブ・サウンド”と表現された。それはジョン・コルトレーンのアルバム『Soultrane』へ寄せた批評の中で、彼のほんの僅かな変化の中で、矢継ぎ早に繰り返されるアルペジオから生まれる彼の革新的な即興スタイルを説明したものだった。当時の彼の音楽的進化は多くの評論家やミュージシャン仲間からは評価されたが、しかし大衆にとってはまだまだ得体の知れないもので、受け入れ難かった。
1960年の3月21日から4月10日にかけて、ウィントン・ケリー、ポール・ポール・チェンバース、ジミー・コブ、そしてコルトレーンという顔ぶれのマイルス・デイヴィス・クインテットは、オスカー・ピーターソンとスタン・ゲッツの”ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック・ツアー”に同行してヨーロッパをツアーで巡った。その時のパリ・オリンピア劇場公演では、ジョン・コルトレーンのソロ・パートに観客はブーイングやヤジを飛ばしたが、1962年に再び彼がパリに戻り、さらに大胆なプレイを披露した時、そこには歓声しか涌き起こらなかった。
マイルス・デイヴィスと活動する一方で、ジョン・コルトレーンは、自分が作曲した楽曲を世に送り出す機会を増やすべく、自身がリードをとるレコーディング・セッションを重ねていった。彼の初期の作品は、1957年の『The Cats』を筆頭に、プレスティッジ・レコードからリリースされ、同年に、ブルーノート・レコードからの『Blue Train』がリリース。『Blue Train』では、彼がプレイヤーとしてだけでなく、作曲家としても素晴らしい才能を持っていることを世間に知らしめた。
クリード・テイラーが創設したインパルス!レコードからコルトレーンがアルバムを発売したのは1961年で、美しき『Ballads』をレコーディングしてからまもなくして、『Africa/Brass』が完成した。その2年後に『John Coltrane And Johnny Hartman』を発表し、今作ではジョニー・ハートマンの歌声がジョン・コルトレーンのテナー・サックスを引き立たせている。
その後、1964年12月に、マンハッタンから30マイルほど離れたロングアイランドのディックス・ヒルズで平穏に満ちた環境のもと書き上げた楽曲をレコーディングした。その楽曲が収録されたアルバム『A Love Supreme』は彼が薬物の禁断状態を乗り越えた時に神に固く誓った訓戒だった。それは崇拝を文字として表現することであり、彼が書き、アルバムの折り込みジャケットでも再現されている礼拝の詩は、今作の最後に収録された「Part 4:“Psalm”」の中で”ミュージカル・ナレーション”として一語一句サックスによって表現されている。
このセッションのために集まったマッコイ・タイナーやエルヴィン・ジョーンズ、ジミー・ギャリソンは皆、1960年代初頭から様々なグループでジョン・コルトレーンと演奏してきた顔ぶれで、後に”クラシック・カルテット”として知られることになる。
彼と仕事をしたことがある者は、グループで続けていくためには、熱心であることと共に、それなりのスタミナを持ち合わせていなければならないことをすぐに学んだ。なぜならジョン・コルトレーンは飛行機に乗るのがとても苦手で、彼のグループはいつも車で旅をしていたからだ。半年かけて全米ツアー終えたかと思えば、すぐさま289ハドソン・ストリートのハーフ・ノートでよくやっていた6週間に渡るニューヨーク公演が始まった。
薬物中毒から抜けた後も、ジョン・コルトレーンにはひとつだけ”過食”という悪習があった。彼にとって、食べ物が日々演奏する過酷さを和らげてくれる癒しだったのだ。ミント・キャンディーを食べすぎた彼が、サックスのキーを砂糖で詰まらせたという伝説もある。
しかしながら、彼は薬物を完全に絶ってはいなかった。彼の音楽や、よそ者として不和感、精神的探求のための改心などに見られる過激主義は、LSD使用頻度が増えたことでより加熱していった。彼の音楽的実験は、そこからどんどん複雑化していき、それが彼の信頼する仲間たちとの絆を試す結果になった。マッコイ・タイナーとエルヴィン・ジョーンズが『Ascension』(1965)のセッションで、”ノイズしか聴こえない”と不満を口にしたのが、終焉の始まりだった。
ジョン・コルトレーンは最初の妻ナイーマと離婚した直後の1966年初めにピアニストのアリス・コルトレーンと結婚。エルヴィン・ジョーンズに代わってドラマーとなったラッシード・アリは、コルトレーンが肝臓癌で亡くなるまで、様々なライヴやレコーディングを共にした。
人々にどんな風に記憶してもらいたいか、という問いに、彼は「聖者かな」と答えた。彼は1967年7月17日にニューヨークのハンティントンで亡くなった。
Written By Richard Havers
ジョン・コルトレーン『Both Directions at Once: The Lost Album』
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