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偉大なブルースマン、ジミー・リードの生涯
ジミー・リードの手にかかれば、ブルースはきわめてリラックスしたものになる。彼はたくさんのレコードをヒットさせた大人気ブルースマンのひとりだった。そのスタイルはもはや流行から外れしまったかもしれないが、それでも彼が偉大なブルースマンとして讃えられるべき存在であることに変わりはない。
マティス・ジェームズ・リードは、1925年9月6日にミシシッピ州のリーランド近郊で生まれた。父ジョゼフ・リードと母ヴァージニアは農場で働く小作人で、ジムには兄弟が9人いた。彼は幼なじみのブルース・ミュージシャン、エディ・テイラーからギターを習い、1940年から1943年まではピルグリム・レスト・バプティスト聖歌隊で歌っていたが、やがてシカゴに移り住む。それからすぐに米海軍に徴兵され、第二次世界大戦が終わるまで軍務についていた。
その後ジミー・リードはエディ・テイラーと再び組み、1949年には一緒にシカゴ南部のブルース・クラブで演奏するようになった。そうした演奏活動を通じ、評判を得た彼はチャンス・レーベルから何枚かシングルをリリースし、1953年には設立間もないレーベル、ヴィー・ジェイと契約する(このレーベルはのちにザ・ビートルズの最初のアメリカ盤シングルを数枚リリースすることになる)。ヴィー・ジェイは、ヴィヴィアン・カーターとジミー・ブラッケンという夫婦が設立したレーベルで、“ヴィヴィアンズ・レコード・ショップ”というレコード店が拠点となっていた。それから1955年までのあいだに、ジミー・リードは数点のシングルをアメリカのR&Bチャートに送り込んでいる(最初にチャート入りを果たしたレコードは「You Don’t Have To Go」)。そして1957年には「Honest I Do」で、今度はポップ・チャートにも名を連ねることになる(このシングルは同チャートで最高位32位をマークしている)。彼のレコードのトレードマークのひとつが4ビートのウォーキング・ベース・パターンで、それはダンスには打ってつけのジュークボックスの必需品だった。
1958年から1963年までのあいだ、彼はアメリカのシングル・チャートにさらに10回に亘って名を連ねており、それらのレコードのバックは常にエディ・テイラーのセカンド・ギターが支えていた。また1964年9月には「Shame Shame Shame」でイギリスのシングル・チャートにもランク入りを果たし、最高45位を記録。B.B.キングを除くと、リードはアメリカで最も売れているブルース・シンガーになっていた。
そうした成功の陰の立て役者として、長年相棒を務めたエディ・テイラーの名を挙げる人も多い。テイラーは1950年代のリードのレコーディングでほぼ必ずと言っていいほどギターを弾いていた。また、ジミーの妻のメアリー・リー・”ママ”・リードの存在も見逃せない。彼女は夫の曲作りにかなり貢献していたし、レコーディング・スタジオの中でもステージ上でも後ろに座って歌詞を囁くという役目を果たしている。彼女の声はいくつかのレコードで聴ける(「Big Boss Man」もそのうちのひとつだ)。
リードはたくさんのアーティストに影響を与えている。また、彼のリラックスした演奏スタイルは白人にも聴きやすいものだった。ザ・ローリング・ストーンズはデビュー・アルバムでリードの「Honest I Do」を録音している。またプリティ・シングスやエルヴィス・プレスリーは「Big Boss Man」を、アニマルズやゼムは「Bright Lights, Big City」を、リトル・リチャードは「Baby What You Want Me To Do」をそれぞれカヴァーしていた。
リードは1957年に癲癇(てんかん)と診断されたが、それでも演奏活動への熱意は衰えず、コンスタントにコンサート・ツアーを続けた。1960年代後半には病状が悪化したため、その規模は縮小したものの、1970年代前半まで演奏活動を続けている(ただしその活動範囲は主にシカゴ周辺に留まった)。そして1976年、リードは就寝中に癲癇の発作を起こし、急死する。悲しいことに、それは彼がアルコールの問題を克服してブルースの演奏活動を再開した直後の出来事だった。亡くなったとき、リードはまだ51歳という若さだった。
By Richard Havers
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