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ディスコの歴史:ダンス規制法の中でマイノリティ文化から生まれ全米に浸透した音楽
「ディスコは最悪」。「テクノなんて勘弁」。どんな種類であれ、ダンス・ミュージックは登場するたびに、冷笑され、はねつけられることが多かった。しかし、ディスコほど悪口を言われてきたジャンルはない。全盛期には、ディスコは音楽、ファッション、ランチボックスに至るまで、ポップ・カルチャーのあらゆる側面に浸透し、露出過多になるほどだった。音楽業界が煽って流行らせた商品だと切り捨てる者たちもいたが、レコード会社の仕掛けなどなくても、ディスコは繁栄していただろう。
ディスコと聞くと、空虚な華やかさと煌びやかさ、スモークとミラーボール、70年代の自己顕示癖の頂点と考える向きもあるが、ディスコの起源はスタジオ54(*ニューヨークに1977年オープンした有名なディスコ)のお洒落な看板よりも、遥かに無骨だ。郊外の母親たちが結婚式でヴィレッジ・ピープルの「Y.M.C.A.」を踊る前、ディスコはニューヨークのアンダーグラウンドで鳴り響いていた。4つ打ちのベースラインを掛け声とした解放、包含性、元気が出る音楽だったのだ。
モータウンが60年代を特徴づけるエキサイティングなリズムで音楽シーンを圧倒していたとするならば、ハイハットのディスコ・ビートは70年代にディスコを始動させ、全国のダンスフロアを魅了するパーカッシヴなサイケデリアを引き起こした。しかし、ビアンカ・ジャガーが白馬に乗ってスタジオ54にやって来た頃から(ミック・ジャガーの最初の妻であるビアンカはスタジオ54の“顔”である実際に白馬で登場したことがあった)、ディスコはどのように文字通りのインフェルノ(烈火)となったのだろうか?
Bianca Jagger riding a white horse inside the Studio 54. #discofiles pic.twitter.com/1NpFJ8v1TT
— Disco Files (@discofiles) 2016年6月17日
ディスコは、ある夜突然に出現したわけではない。70年代のニューヨークの壊滅的な環境から現れた要素が相まって生まれたものだ。60年代、大都市にはそれぞれのクラブ・シーンがあったが、60年代に流行したツイストやゴーゴーは、ニューヨークのアンダーグラウンドから萌芽したディスコの開放的な放蕩ぶりの前では霞んでみえる。ダンス・ミュージックが流行るためには、ダンスできる会場が必要となる。そして、初期のディスコ・クラブは、必要に迫られて作られたものが多かった。ゲイ・バーや同性同士のダンスが違法だった1969年のニューヨークで、先駆的DJのデヴィッド・マンキューソは、マンハッタンのノーホー地区にあった自宅の屋根裏でプライベートな集まりを開き、アンダーグラウンドのディスコ・パーティという道を開いた。
1970年のヴァレンタイン・デイ・パーティ‘Love Saves The Day(愛は勝利をもたらす)’を初開催して以来、デヴィッド・マンキューソはナイトライフ史の大貢献者として讃えられている。彼は、アンダーグラウンドなゲイ・カルチャーの生命線を作り、街の忘れ去られたスペースに続々と誕生したクラブ(テンス・フロア、12ウェスト、キセノン、インフィニティ、フラミンゴ、パラダイス・ガレージ、ル・ジャルダン、サンクチュアリー等)に見本を示したのだった。この頃、1969年に起きたゲイ・バーへ警察が踏み込みその場にいた同性愛者が立ち向かった「ストーンウォールの反乱」によって同性愛者の解放運動が盛り上がり、ニューヨークの厳格なダンス規制法を撤回する動きが広がってディスコはナイトライフ・カルチャーを征服した。1971年以降もディスコは続々とオープンし、ヴィレッジのヘイヴン、エンパイア・ホテルのマシーン、ファイアー・アイランドのアイス・パレスとサンドパイパーのほか、コンチネンタル・バス、タンバーレイン、数々の伝説で名高いライムライトが誕生した。
ディスコ・クラブの青写真を作ったことに加えて、デヴィッド・マンキューソは1973年の春、アフリカのサクソフォン奏者、マヌ・ディバンゴのアフリカン・ビート「Soul Makossa」を発掘し、初のディスコ・レコードをブレイクさせた人物でもある。グローバルなビートをアメリカのR&Bと融合した同曲は、全米シングル・チャートで第35位を記録し、ラジオDJではなくナイトクラブの力によってヒットした初のダンスフロア・ヒットとなった。ここからヒットが生まれる潮流が変わり、ラジオDJからクラブDJへと影響力が移り始める。クラブDJはクラブを席巻した後、アップテンポのソウル・ヒットをブレイクさせた。1973年にはヒューズ・コーポレーションの「Rock The Boat」、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツの「The Love I Lost」、1974年にはウィリー・ヘンダーソン&ザ・ソウル・エクスプロージョンの「Dance Master」、ジョージ・マックレーの「Rock Your Baby」、アシュフォード&シンプソンの「Main Line」などがその例だが、これらはメインストリームにもアピールしながら、ディスコ・サウンドの基盤を作った楽曲である。
ディスコ・サウンドの形成に極めて重要な働きをした人物の1人が、ドラマーのアール・ヤングだ。ザ・トランプスの創設者/リーダーであり、ベーシストのロン・ベイカーとギタリストのノーマン・ハリスとともにベイカー=ハリス=ハングのリズム・セクションを担っていたアール・ヤングは、イントルーダーズ、オージェイズ、スリー・ディグリーズ等、あらゆるアーティストと共演していただけでなく、シグマ・サウンド・スタジオで演奏していた30人編成のハウス・バンドとして、ケニー・ギャンブルとレオン・ハフが主宰するフィラデルフィア・インターナショナル・レコードに所属していたMFSBのメンバーでもあった。
アール・ヤングはここで音楽史を作った。バラードだった「The Love I Lost」の速度を上げ、ハイハットのパターンを加えたのだ。こうして‘ディスコ・グルーヴ’が生まれた。ひとたび疾走するようなリズムが始まると、それを止める術はなく、ディスコのブームを鎮めることなど不可能だった、1973年、MFSBは『ソウル・トレイン』のテーマ曲「The Sound Of Philadelphia」(「TSOP」としてよく知られている)をリリース。圧倒的なインストゥルメンタル・セクションに安定したビート、スリー・ディグリーズのセクシーなバック・ヴォーカルをフィーチャーした同曲は、ディスコにとってのヒットの方程式となった。これと同等の影響力を誇ったインストゥルメンタル楽曲は、バリー・ホワイト のラヴ・アンリミテッド・オーケストラによる「Love‘s Theme」だ。セクシーなワウワウ・ギターを加えた同曲は、全米シングル・チャートで首位を確立した数少ないオーケストラ・シングルとなると、オーケストラ・サウンドと長尺の楽曲がその後のディスコに取り入れられるようになった。
誕生当初から後のヒットに至るまで、ディスコはプロデューサー主導の音楽だった。ディスコは影響力のあるDJを生み出しただけでなく、スーパー・プロデューサーをも生み出した。ロサンゼルスのリンダー&ルイス、フィラデルフィアのベイカー=ハリス=ヤング、ニューヨークのアシュフォード&シンプソン、さらにはヴァン・マッコイ(ディスコのヒットメーカーで、「The Hustle」の仕掛人)がその例だ。プロダクションがディスコ・サウンドを形成した一方で、ディスコというジャンルは、あらゆるタイプの新人ソウル・シンガーやヴォーカリストが飛躍するきっかけを提供した。そのうちの1人がグロリア・ゲイナーである。
1978年、グロリア・ゲイナーが歌った「I Will Survive」はゲイ・ムーヴメントのアンセムとなったが、彼女がリリースしたMGMからの第一弾EP「Never Can Say Goodbye」(ジャクソン5のカヴァー)は、Billboardが1974年10月に新設したダンス・チャート初のナンバーワン・ソングを獲得していた。同EPは、DJで革新的なプロデューサー、トム・モールトンによる初めての‘ディスコ・ミックス’をフィーチャーしている。トム・モールトンは、「Honey Bee」「Never Can Say Goodbye」「Reach Out, I’ll Be There」をビート・ミックスして1曲のディスコ・メドレーを作り、このメドレーがレコードの片面に収録されたのだった。
ダンス・ミュージック史において、トム・モールトンは当時の伝説的DJの中でも一方先んじた存在だったと言えるだろう。彼は、リミックスと12インチ・シングルを生み出した人物だった。これも必要に迫られて生まれたものだ。トム・モールトンは、曲の合間に人々がダンスフロアを離れないよう、オープンリール式のテープで連続ミックスを作ったのだった。1974年初頭、ポップ・ソングを通常の3分よりも長く引きのばすなど、様々な実験を続けていた。
楽曲の装飾を取り除きパーカッシヴな部分のみを残すことで、 彼は‘ディスコ・ブレイク’を作り出した。ダンサーは躍動するトライヴァルなクオリティに惚れこみ、DJはミックスのツールとしてディスコ・ブレイクを愛した。そしてリファレンス・ディスクをカットする際、空の7インチ・アセテート盤を切らしていたトム・モールトンは、12インチ盤に曲をカットした――こうしてその後30年にわたり、ダンス・ミュージックのスタンダードとなったフォーマットを作り出したのだ。12インチ・シングルは、幸運な偶然によって生まれたのだ。
すぐにトム・モールトンは大人気を博し、人並みの楽曲に魔法をかけてヒットを量産した。例えば、ドン・ダウニングの「Dreamworld」やBTエクスプレスの「Do It (‘Til You’re Satisfied)」、ザ・トランプスの「Disco Inferno」、ピープルズ・チョイスの「Do It Any Way You Wanna」、アンドレア・トゥルーの「More, More, More」等は、トム・モールトンの個性が最大限に発揮されている。彼はまた、Billboard初のダンス・コラム『Disco Mix』に執筆をはじめ、ニューヨークのディスコ・シーンを公式に記録する人物となった。さらに彼はその後、グレース・ジョーンズのファースト・アルバムからサード・アルバムまでをプロデュースしている。
こちら↑はトム・モールトンによるミックス
ディスコ・ソングはDJを通じて大衆に広がリ始めた。レコード会社はたちまちそれに気づくと、ナイトクラブは週末に遊ぶための場所以上の存在となり、大衆に向けて楽曲の反応をテストする研究所となった。ヒット・レコードが生まれては消えてゆく。一方、ディスコの真のスターはDJだった。それぞれが独自のスタイルを持ち、自分のダンスフロアを仕切っていたのだ。デヴィッド・マンキューソはロフト、フランシス・グラッソはサンクチュアリー、トム・サヴァリーズは12ウェスト、デヴィッド・トッドはファイアー・アイランドのアイス・パレス、ボビー・ガッタダロはル・ジャルダン、フランキー・ナックルズはギャラリー、ティー・スコットはベター・デイズ、リッチー・カチャーはスタジオ54、そしてラリー・レヴァンがパラダイス・ガレージに君臨していた。
DJセットは、さまざまな楽曲から成り立っていたが、フランシス・グラッソはビートをマッチさせる手法(ミキシングもしくはブレンディングとも呼ばれる)を導入し、全てを変貌させた。彼を含め、当時人気のDJは、ダンスフロアの人々を音楽の旅路へと連れて行った。DJに盛り上げられた人々は、カタルシスを起こし、汗まみれで陶酔するのだった。DJはもはやクラブの背景ではなく、クラブの目玉と考えられるようになっていた。ラリー・レヴァンの伝説的な土曜夜のセット「Saturday Mass」目当てに、何百人もの客が薄汚れたソーホーの古いパーキング・ガレージに集まっていたのだ。
スタジオ54が、富と名声のある人々が集うアップタウンの華やかさを象徴していた一方で、パラダイス・ガレージはニューヨークに住むブラック、ラティーノ、LGBTQのユートピアだった。そしてレヴァンは、パラダイス・ガレージで、ディスコ、ソウル、ファンク、R&B、ニュー・ウェイヴ、そしてのちにハウス・ミュージックとして知られるようになる新たな音楽をミックスし、観客を魅了していた。
1977年にパラダイス・ガレージがオープンして以来、ラリー・レヴァンは音楽のプロダクションにも乗り出し、ピーチ・ボーイズの「Don’t Make Me Wait」やルース・ジョインツの「Is It All Over My Face」等、多数の楽曲をサポートした。また、革新的なミキシングを通じて、タアーナ・ガトナーやグウェン・ガスリーといった多数のソウル・シンガーをディスコ・ディーヴァへと仕立て上げた。
タアーナ・ガトナーやグウェン・ガスリーの前には、ディスコの女王、ドナ・サマーがいた。彼女がシンセの達人、ジョルジオ・モロダーとレコーディングした「Love To Love You Baby」は大ヒットを記録。同曲は、セルジュ・ゲンスブールとジェーン・バーキンの官能的な名曲「Je T’aime… Moi Non Plus」へのアンサー・ソングで、ドナ・サマーは16分40秒にわたり、マリリン・モンロー並みのセクシーな溜息を漏らしている。また、それまではオーケストラによる演奏がディスコの根幹をなしていたが、ジョルジオ・モロダーはシンセサイザーを使ったバックグラウンドを貫き、これを一変させた。2人はカサブランカ・レコードで1977年に「I Feel Love」、1978年に「Last Dance」で再びタッグを組んでいる。
カサブランカは、ディスコをリリースする主要レーベルとなった。ディスコというジャンルを早くから受け入れたメジャー・レーベルのひとつとして、同レーベルはジョージ・クリントンとパーラメント/ファンカデリック、ヴィレッジ・ピープルといったアーティストをブレイクさせていた。70年代を通じて、ディスコというアンダーグラウンドなサウンドを大衆へと広げることに尽力したレーベルとしては、サルソウル、ウェスト・エンド、イマージェンシー、プレリュード・レコード、MCA、TKレコード、アイランド、ポリドール、20thセンチュリー等も挙げられる。
1976年までに、ディスコは爆発的な人気を博すと、アメリカだけでも1万軒以上のディスコが乱立し、ローラースケート・リンクやショッピング・モール、ホテルにまでディスコが作られた。また、同年のBillboardの週間チャートでは、トップ10シングルのうちディスコが5曲を占める週もあった。そしてそれから1年後、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が公開され、ディスコは文化的な頂点を極める。同映画の公開前、サウンドトラックへの楽曲提供の依頼を受けた時、ビー・ジーズは「Stayin‘ Alive」と「How Deep Is Your Love」を作っており、「Jive Talkin’」と「You Should Be Dancing」も同サウンドトラックに収録された。
同サウンドトラックは、2,500万枚という驚異的なセールスを記録し、24週にわたってアメリカでチャートの首位となりサウンドトラックが映画を売るという映画史で初の現象が起こった。この映画でジョン・トラヴォルタとビー・ジーズは誰もが知る有名人となったが、このサウンドトラックで、ザ・トランプスの「Disco Inferno」やクール&ザ・ギャングの「Open Sesame」といったアーバンなディスコ・ヒットもメインストリームに紹介された。当然のごとく、同映画をきっかけに、誰もがディスコの流行に乗るようになった。ロッド・スチュワートの「Da Ya Think I’m Sexy」、ザ・ローリング・ストーンズのグルーヴィーな「Miss You」、ブロンディの「Heart Of Glass」、そしてダイアナ・ロスのシック的名曲「I’m Coming Out」などがその例である。
ディスコがラジオの電波を独占し続けファンクやロックがポップ・ラジオでかからなくなると、逆にディスコに対する反発が起こり、1979年7月12日にはシカゴのコミスキー・パークでディスコ・デモリッション・ナイトが行われた。このイヴェントの発案者は、ラジオDJのスティーヴ・ダールだ。勤めていたラジオ局がディスコ・フォーマットに変わったため、スティーヴ・ダールは仕事を失い、不満を抱えていたのだ。彼は、チケットの売り上げ不振にあえいでいたメジャーリーグベースボールのホワイト・ソックスのプロモーターを説得すると、燃やせるディスコ・レコードを持ってきたファンには、ホワイト・ソックスの試合に1ドル以下で入場できるよう、手筈を整えた。しかし、「ディスコは最悪」というスティーヴ・ダールのスローガンは、ダンス・ミュージックに対する嫌悪以上のものを象徴していた。
というのも、その日燃やされたのはディスコ・レコードだけではなかったのだ。タイロン・デイヴィス、カーティス・メイフィールド、オーティス・クレイといったブラック・アーティストが作った音楽も燃やされてしまったのだ。黒人アーティストや、シルヴェスターのようなゲイのパフォーマーの活躍でロックがラジオから押し出されエイズの危機が始まっていた当時、ディスコ・レコードを燃やすことを当初の趣旨としてこのイベントは、アメリカに住むストレート(異性愛者)の白人男性の価値観の危機を示してしまったと言えるだろう。ディスコへの反発は、音楽が持つ影響力を浮き彫りにした。しかしその日、ディスコは死ななかった。ディスコは80年代を通じてポップ・ミュージックに浸透した。そして皮肉なことに、ディスコ嫌悪のイベントが行われたシカゴでアンダーグラウンドに入り込むと、数年後にハウス・ミュージックとして生まれ変わるのだった。
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