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ウィングス他多くのバンドを支えた天才ギタリスト、ジミー・マカロック
ジミー・マカロックこそが”生き急いで、若くして逝く”哲学の典型なのだが、彼の場合は、非凡なギタリストとして、多くの人にとっての一生分の人生をその26年間に詰め込んだとも言える。1953年6月4日、スコットランド低地のダンバートンでジミーは生まれた。
サンダークラップ・ニューマンの神童、1970年代半ばのウィングスのギタリスト、そして後期のスモール・フェイセスのメンバーなど、彼の短すぎるキャリアのどの部分をとってみても、彼が非凡な才能を持ったイギリス青年だったことがわかる。また、忘れられがちなのは、彼がまだ14歳になる前に、すでに国民的なバンドのギタリストを務めていたということだ。
11歳の頃に、兄のジャックと結成したバンド”The Jaygars”は、後にワン・イン・ア・ミリオンとなり、2曲のシングルをリリース。そしてジミー・マカロックは、ロンドンのアレクサンドラ・パレスで開催され、ザ・フーや当時の人気バンドが多数出演したイベント「The 14 Hour Technicolor Dream」にいくつかのバンドのリード・ギターとして出演。当時のジミーはなんと13歳と10か月という若さだった。
ジミー・マカロックは1969年にザ・フーのピート・タウンゼンドの友人だった、ジョン・”スピーディー”・キーンとアンディ・ニューマン(ニックネームが”サンダークラップ”)が結成したサンダークラップ・ニューマンに加入。ピート・タウンゼンドがプロデュースしたなんとも刺激的なシングル「Something In The Air」が全英シングル・チャートで1位に輝き、ポップ・ミュージックの歴史に刻まれた。ピート・タウンゼンド自身も「Bijou Drains」という偽名でベースに参加しているこの曲が、彼にとって、プロデューサーとしてもアーティストとしても唯一の全英チャート1位獲得曲となった。
サンダークラップ・ニューマンは1971年のアルバム『Hollywood Dream』発表後に解散したが、ジミー・マカロックにとっては、このバンドがギタリスト、そしてソングライターとしての出発点となり、1970年代前半にはジョン・メイオールに呼ばれるなどして、スタジオ・ミュージシャンとして引っぱりだこだった。自身のバンドでもフロントマンを務める一方で、ストーン・ザ・クロウズはじめ、多くの一流バンドのライヴにも参加していた。
しかし、なんと言っても、彼の名を世界的に知らしめたのは、ウィングスでの活動だった。ポール・マッカートニーに誘われ、彼の妻・リンダとのプロジェクト”スージー・アンド・ザ・レッド・ストライプス”(シングル「Seaside Woman」をリリース)で演奏したことがきっかけで、1974 年にウィングスの正式メンバーとなり、全米3位、全英でもTOP20入りしたシングル「Junior’s Farm」にも出演を果たしている。
ジミー・マカロックは1975年に発表されたアルバム『Venus And Mars』収録の「Medicine Jar」や、その翌年のアルバム『At The Speed Of Sound』の「Wino Junko」でもソングライティングとヴォーカルで貢献を果たしている。しかし、彼の放浪癖のため、1977年にはウィングスを去って、再結成したスモール・フェイセスに加入。その後は、スモール・フェイセスの前ドラマーだったケニー・ジョーンズ、アリー・ベイン、そしてシン・リジィを脱退したばかりのブライアン・ロバートソンらとワイルド・ホーセズでも活動した。
1979年、北ロンドンで薬物による心臓発作のため亡くなったジミー・マカロックだったが、もし彼が生きていたとしたら、一体どんな偉業を成し遂げていただろうか。
「彼はいつも少し危ういところがあったよ。結果、それが彼のためにならなかったんだろうね」とポール・マッカートニーは語る。
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