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音楽が起こした社会変革の歴史:人種/性別/セクシャリティ…ミュージシャンと勇気づけられた人々

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Photos: Big Machine (Taylor Swift), Motown Records Archives (The Supremes), Christian San Jose (Kendrick Lamar)

歌とは実にパワフルなものだ。私たちを元気づけ、癒し、刺激を与え、教育してくれる。しかしそれはほんの入口だ。そんなことが可能である最大の理由は、恐らくそれが生身の人間、弱さも欠点もある人間によってプレイされているからであり、だからこそ音楽がなく紙に書いた歌詞をただ読んでもどこか物足りないのだ。

遥か昔から、歌は世の中を映す鏡として、私たちの身の回りに起こっている出来事を映し出してきた。そして間違いなく、他のどのアート・フォームとも違う方法で、音楽は社会を変えてきたのである。 伝統的に、歌は歌い継がれることでのように世代から世代へと受け継がれて行くものだ。だが20世紀に至って、テクノロジーの進歩が世界をあっという間に小さくしてしまい 、更に、安価でどこでも容易に入手可能なオーディオ機器のおかげで、歌は以前より大きなスケールで広めることが出来るようになった。

程なくして、音楽による革命のエージェントとなったのがレコードだった。ハイ・フィデリティ・オーディオ・レコーディング技術の普及以前には、世界を変えるような音楽を聴くには、劇場の近くに住み、そしてそこを度々訪れるだけの金銭的余裕を持っていなければならなかった。同様に、例えば英国育ちの人々は、ブルースを本来歌われるべき形で耳にすることは決して叶わなかった。しかし録音技術の進化はそれを一変させ、人々の音楽の地平を劇的に拡げる重要な役割を果たしたのである。

かくして力強いスピリチュアル・ミュージックが次々に録音され、迅速かつ幅広く届けられるようになると、歌い手たちは拡大し続けるオーディエンスと、自らの体験を共有することが可能になり、譜面では決してできなかったようなレベルで、聴き手との間にエモーショナルな絆を築き上げた。歌はそれまで当然とされてきた世の中に対する捉え方に疑問を投げかけ、日々のニュースでは表立って取り上げられることのなかった物事に光を当て、聴き手の在り方、生き方を変えることすらあった。


ビリー・ホリデイによる宣戦布告

音楽が社会を変える力を持っていることを示す最も完璧な例が、ビリー・ホリデイが1939年に発表したアベル・ミーロポル[訳注:当初作家としてのペンネームはルイス・アレン]による「Strange Fruit」のカヴァーが世の中に与えたインパクトである。レコード・プロデューサーであり、アトランティック・レコードの創業者のひとりだったアーメット・アーティガンは、「あれは宣戦布告だった…公民権運動の火付け役だ」と振り返っている。

1930年代末までは、音楽がアメリカにおける人種差別や隔離政策について真っ向から取り上げることは一切なかった。ライヴ会場も人種毎に入り口や座れる席が決まっており、ルイ・アームストロングのような名の通った黒人ミュージシャンたちは、実質、金を持っている白人オーディエンス相手にしかプレイしないという意味を込めて「アンクル・トム」と呼ばれていたのだ。

こうしたミュージシャンの人種差別を公に撤廃した最初のライヴ会場は、ニューヨークのカフェ・ソサエティだった。当時のオーナーであったバーニー・ジョセフはこう語る。

「私は黒人と白人がフットライトの向こうで共に協力しながら仕事をし、最前列でも入り混じって一緒に座っているクラブを作りたかったんだ。あの当時、少なくとも私が知る限りでは、ニューヨークどころか国中探してもそんな場所はひとつもなかったんだ」

それでも、バーニー・ジョセフの熱烈な口説きでビリー・ホリデイが 「Strange Fruit」をその場で初めて披露することになった時、彼女は怖がっていた。この曲は凄惨なリンチを受けた黒人の死体が木からぶら下がっている写真のポストカードを目にしたミーロポルが、その様子をありのままに歌詞で表したものである。その当時、ポピュラー・ソングはそうした情け容赦のない真実をぶちまける場として想定されてはおらず、ビリー・ホリデイは自分がしようとしている行為がどんな騒動を引き起こすのかを他の誰よりも意識していたはずだ。彼女は後に自叙伝の中で、初めてあの曲を歌った時に何が起こったかをこう綴っている。

「歌い終わった時、客席は水を打ったように物音ひとつなく、静まり返っていた。と、ひとりのお客がおどおどしながらパチパチと手を叩き始めた。次の瞬間、その場にいた全員がいきなりワッと拍手し始めた」

ビリー・ホリデイの名義でようやくリリースに至ったこの曲は、数字としては100万枚を超えるセールスを記録したが、結果的にどれほどの人々の心情や意識に影響を与えたのかは、もはや測り知れない規模である。これだけのパワーを持つ鍵となっているのは、恐らくただひたすら情景を描写することに徹しているその歌詞にあるだろう。それによって聴き手は直截的にテーマと向き合うことになるのである。

解決策を示すでもなければ、その問題を大げさに伝えようとするでもなく、「Strange Fruit」はただシンプルに反吐が出るような厭わしさと深い悲しみをじわじわと滲ませるのである。この曲に触発された人々が、マーティン・ルーサー・キングJr. を支持して100万人大行進に加わり、彼らの孫の世代もまたブラック・ライヴズ・マター運動に身を投じている。この歌はそれほどまでに人々の人種に対する考え方に絶大なるインパクトを与えてきたのだ。

Strange Fruit

 

“壁を打ち破れ” 人種を超えた音楽グループ

人種隔離や慣例化した人種差別主義は、アメリカ社会に現在も続く深い亀裂をもたらしたが、そんな中でも変化が兆す最前線には常に音楽があった。スウィング時代のバンドリーダー、ベニー・グッドマンは1938年1月16日、ニューヨークのカーネギー・ホールの神聖なるステージで演奏する名誉に浴して歴史を作ったが、このショーの意義は、インプロヴィゼーション全開の華々しいハード・スウィンギングな本物のジャズが権威ある舞台で披露された最初の機会であり、ジャズという音楽が名実共に文化の一部として記録されたということだけではない。というのもこの時ステージに上がったベニー・グッドマンのグループは、白人と黒人の混合編成だったのである。

今の時代の感覚においては、黒人ミュージシャンをフィーチャーするジャズ・グループが普通ではなかったというのはいささか理不尽に思えるが、当時はいわゆる“ヨーロピアン”・ジャズがコンサート・ホールをほぼ占有していたのである。それはクリーンかつ交響楽的で白人ばかりの、例えばシドニー・ベケットやデューク・エリントンらによって切り拓かれたエキサイティングなジャズとは程遠いものだった。チケットはライヴ開催よりずっと前にソールドアウトになり、詰めかけたオーディエンスは黒人パフォーマーたちを熱狂的な反応で迎え、その手で壁を壊していったのだった。

政治家たちがジム・クロウ法(アメリカ南部各州に根強く残っていた、半強制的な人種隔離/分断を定める州や特定地域の法律)を根絶するのには1964年までかかったが、ミュージシャンたちはそのずっと前から、肌の色よりも個人の技術や特性を重視していた。

1950年代、ジャズ・ピアニストのデイヴ・ブルーベックは全米中のコンサート・プロモーターから彼のカルテットに在籍する黒人ベーシスト、ユージン・ライトを誰かと入れ替えるよう受けていたプレッシャーを何度となくかわしていた。ブルーベックは自分はそんなことは絶対にしないと公言するのみならず、ユージン・ライトにはあくまで他のバンドメンバーたちと同じ施設を使わせるよう要求し、人種毎に入口や席が分けられているオーディエンスの前で演奏することを徹底して拒んだ。

そしてそこへ登場してきたのが、圧倒的な影響力を誇ったブッカー・T&ザ・MGsである。このグループはスタックス・レコードのお抱えバンドとして、オーティス・レディング、ウィルソン・ピケット、サム&デイヴ、カーラ・トーマスといった数多くのスターたちのバックを務めた。だがそれほどソウルフルなグループのメンバーが、実は黒人と白人、同じ比率で構成されていたと知ったら、驚くリスナーは多かったのではないだろうか。

Melting Pot

ザ・MGsは彼らのレーベルを小宇宙化したような存在だった。スタックスの創業者である白人の兄弟分コンビ、ジム・ステュワートとエステル・アクストンは、1957年に住民の圧倒的多数が黒人で占められているメンフィスでレーベルを旗揚げし、肌の色には一切拘ることなく、これいうサウンドを持ったアーティストたちと積極的に契約を交わすという方針を打ち出した。当時まだ差別的な慣例が色濃く残る街で、これは非常に勇気ある行動だった。

ブッカー・T&ザ・MGsを構成するミュージシャンたちは全員、肌の色によって学習環境を振り分けられた学校に通っており、1962年の彼らのシングル「Green Onions」がヒットした時点でさえ、メンフィス市内では、レストランでメンバー全員で同じテーブルを囲むことすら許されなかった。

それでも彼らはアメリカに対して、音楽には人々を連結させる力があることを見せつけ、どこでプレイしようとも、あらゆる偏見に対して真っ向から挑んで行った。それから数年後、ザ・MGsの人種混成テンプレートを採り入れたスライ&ザ・ファミリー・ストーンは、「Dance To The Music」や彼らなりの差別撲滅アンセム「Everyday People」といったシングルで大成功を収め、史上初の人種混合及び男女混合バンドとして、その存在意義を一段と強めた。

Sly & The Family Stone – Dance To The Music (Audio)

“黒人の子供たちが自分自身を、家族を、友人たちを見る目を変えた”

テレビの発展はポップ・ミュージックの威力を更に強くした。ミュージシャンたちが曲を実際に演奏している姿を目にすることには、より一層のワクワク感があり、アーティストたちはオーディエンスの先入観を覆す手段として、このメディアのポテンシャルを認めるようになった。

ダスティ・スプリングフィールドが英国のBBCテレビで持っていたレギュラー番組を例に取ろう。ダスティ・スプリングフィールドは、ブラック・ミュージックに大いに影響を受けた白人アーティストとしての意識から、言ってみれば恩義を返したいとの思いがあり、自分の番組では黒人アーティストをフィーチャーしたいと頑なに主張したのである。これは当時としては相当向こう見ずな行動であり、とりわけアルバム『Dusty』が、英国内でも白人人口が圧倒的に多い地域で放送されるメインストリームの番組だったことを思えばなおのことだった。しかし結果的に、そうしたアーティストたちが国営テレビ局で丁重に扱われている様子は、視聴者たちに絶大なるインパクトを与えることになったのである。

一方アメリカでは、スタックスとは別のもうひとつの肌の色にこだわりを持たないソウル・レーベル、モータウンが、本格的にテレビに攻勢を仕掛け始めた。オプラ・ウィンフリーはザ・シュープリームスを『エド・サリヴァン・ショー』で観た時の衝撃から、「黒人がテレビに出ている」ことを知らせるために彼女の友人たちに電話をかけまくっていたせいで、パフォーマンスの殆どを観逃してしまったと振り返って話は有名だ。1969年当時、若きジャクソン5をお茶の間のテレビ画面で観るなどという体験は夢でしかないと思っていたアフリカ系アメリカ人の子供たちにとって、その場所に同じ学校の同級生が立っているのを見るようなものだったのだ。

突然、成功は決して手の届かないものだという感覚が雲散霧消したのである。『エド・サリヴァン・ショー』で「I Want You Back」の曲紹介をするマイケル・ジャクソンはまだどこかおどおどして見えるが、歌が始まればまさしく押しも押されもしないポップ・スターぶりを見せつけたもので、それは60年代後半に誰もが憧れた最高の職業だった。

The Jackson 5 "I Want You Back" on The Ed Sullivan Show

たった10歳にして、離婚した中年女の悲しみをどこからか受け継ぎ、その激しい感情の重みに耐えかねたかのように苦悶に倒れる演技を見せる幼いマイケル・ジャクソンは、そのダンスと身のこなしでテレビ局の収録スタジオの床に穴を開けそうなほどホットだった。

そして、紫のハットや長く尖った襟をはじめとするド派手な衣装、ちょっと待て、それがどうしたと言うのか? 彼が歌う歌の殆どは政治的なテーマなど持たない曲ばかりだったではないか。そう、確かに、彼が歌えば失恋の歌でさえも愛らしく、心に訴えかけるものになった。だが、それこそがすべてを一変させたということなのだ。

黒人の子供たちが自分自身を、家族を、友人たちを見る目を変えさせたのである。スターとなった彼を日常的に目にすることで、子供たちの中では危うくシナプスが焦げるほど熱を帯びた発想の連鎖反応が開始されたのだった。つまり、どんなことでも不可能ではない、ということである。そして彼らは、以前よりもう少しだけプライドを持って歩き始めたのである。

The Jackson 5 "Medley: Stand!, Who's Loving You, I Want You Back" on The Ed Sullivan Show

 

“声を届かせよう”

ポップ・ミュージックは世界の中のどこに向かって行こうかと人々に考えることを奨励する力がある。彼らの下した結論を知らしめたり、アイデンティティの形成に手を貸してくれる。だが、音楽を聴いている時は独りだとしても、自分の寝室やヘッドフォンで聴きながら想像の翼を広げれば、そこには連帯という感覚が生まれる。音楽に感応した人間は決して隔絶してはいない。彼らはその瞬間に影響された100万人のうちの1人であり、翻ってそれは社会に絶大な影響をもたらすことになるのである。

音楽がいかに社会を変え得るかを最も顕著に示したのはモータウンである。1959年に8,000ドルの開業資金を家族ローンで借りた創業者のベリー・ゴーディは、アフリカ系アメリカ人史上初のレコード・レーベル経営者となった。これだけでも歴史の本にその名を刻むには十分だったかも知れないが、その後数十年にわたり、彼の抜け目ない選択眼に見出された音楽やスターたちを次々にアメリカの音楽シーンへと送り込んでは支配下に置き、“The Sound Of Young America(若きアメリカのサウンド)”という流行は、海をも超えて世界中へと市場を広げ、黒人アーティストたちに 、ほんの数年前までは全く非現実的だった多くのチャンスを掴ませたのである。

ベリー・ゴーディのアーティストたちはあらゆる人々にアピールするような、抗い難いソウルフル・ポップを生み出し、その魅力は今も色あせることがない。スティーヴィー・ワンダーザ・シュープリームスマーヴィン・ゲイスモーキー・ロビンソン、ジャクソン5、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、ザ・テンプテーションズ……彼らの歌は世界中の人々のハートを鷲掴みにし、偏見で閉じた心を開かせ、アフリカ系アメリカ人ミュージシャンたちも白人のミュージシャンたちと同じくらい注目に値するという概念を植え付ける役目を見事に果たしたのだった。

僅か2分36秒ながら全く非の打ちどころのない、ザ・シュープリームスによるポップの小品 「Baby Love」は、実のところ公民権運動キャンペーンより遥かに人々の意識改革には効果的だったのではないかと思われるほどで、そう、つまり音楽とはそれほどまでにパワフルなものなのだ。

Baby Love

所属アーティストたちが成熟度を増すにつれて、モータウンは単なるポップの範疇を超えた音楽をリリースするようになった。マーヴィン・ゲイの『What’s Going On』 、スティーヴィー・ワンダーの『Innervisions』、ザ・テンプテーションズの 「Papa Was A Rolling Stone」 などはいずれも、カーティス・メイフィールドやジェームス・ブラウン、スライ・ストーンやアイザック・ヘイズといったアーティストたちの作品に投影された社会的意識と黒人としての誇りを反映した、メッセージ性を持ったレコードだ。

この年代の黒人アーティストによる最も革新的な作品と言えば、ギル・スコット=ヘロン、ファンカデリックとパーラメントで、これはその後ヒップホップへと繋がる源流である。そうした反動はいまも続いていると言っていい。R&B とヒップホップはブラック・ライヴズ・マター運動によってエナジーを吹き込まれていったが、その逆もまたありきなのだ。

ケンドリック・ラマーソランジュディアンジェロ、ビヨンセ、ブラッド・オレンジにコモンといった面々は、その他大勢のアーティストたちと共に、近年特にアメリカの抱える人種問題の葛藤に真っ向から取り組んだ作品をリリースしている。

そして、様々な顔を持つ複雑なこの問題を反映するように、その楽曲も実に様々な形や角度を持っており、ケンドリック・ラマーによる苦悶に満ちた自己分析「The Blacker The Berry」 (2015年のアルバム『To Pimp A Butterfly』に収録。 同作にはいかにも挑戦的な「Alright」という、ムーヴメントに対する純然たるアンセムも入っている)から、ソランジュがその能弁ぶりで自分の文化に対して尊重を求める「Don’t Touch My Hair」 (2016年のアルバム『A Seat At The Table』収録)まで多岐にわたる。

Kendrick Lamar – Alright

スターたちの中には、映像の力を自らの物語を語る手段として利用する者たちもいる。例えばビヨンセの『Lemonade』は事実上アルバム一枚丸ごとでアメリカに生きる黒人女性の体験が表現されており、付属の“ヴィジュアル・アルバム”はまるで手加減なしなのだ。「Forward」のビデオ・クリップには、トレイヴォン・マーティン、エリック・ガーナー、マイケル・ブラウンなど、その不慮の死がブラック・ライヴズ・マター運動に火を点けることになった、彼らの母親たちが、それぞれ息子の写真を掲げる姿が織り込まれ、また 「Formation」 のビデオは警官の暴力、自己愛、ハリケーン・カトリーナによる絶望と富裕層の黒人に関するコメンタリー担っている。

Beyoncé – Formation

チャイルディッシュ・ガンビーノの2018年のシングル「This Is America」の秀逸なクリップで打ち出された煽情的なイメージとシンボリズムが請け合うのは、銃による暴力とブラック・カルチャーがいかに頻繁に白人オーディエンスによって大衆娯楽として利用されてきたかという事実である。そしてここで重要なのは、そのどれもが桁外れの大ヒットを記録しているということだ。先に挙げたアーティストたちは大衆に訴えかける過激な作品を生み出し、音楽が今も変化を促すパワーを少しも失っていないことを示しているのである。

Childish Gambino – This Is America (Official Video)

 

“私はあなたの所有物じゃない”

音楽はまた、男女平等に対しても幾度となく大きな飛躍と弾みをつけた。無論、状況は決して完璧ではない。バンドの女性メンバーはいまだにノベルティのように扱われ、真っ当な音楽的技術や才能を示せば驚きの反応が返ってくる。だが、女性の権利のために立ち上がることを呼びかける歌には長い歴史があるのだ。

1963年、レスリー・ゴーアの 「You Don’t Own Me」は多くの人々に衝撃を与えた。実は曲を書いたのは2人の男性だったが、レスリー・ゴーアはそこに何とも魅力的な生意気さを加えてすっかり自分のものにした。後に彼女はこの曲についてこんな風に語っている。

「私があの曲を初めて聴いたのはまだ16か17歳の時で、フェミニズムという考え方自体がまだ広く知られてはいませんでした。そういう主張を口にする人たちもいたけど、当時はそこまで概念として確立されてはいなかったんです。私のあの曲に対する解釈は、まだ17の私が、ステージの上に立ってみんなに向かって人差し指を振り立てながら“アタシはあんたの所有物じゃない”って歌えるなんて最高じゃん、ってそれだけでした」

You Don't Own Me

レスリー・ゴーアのスピリットは、アレサ・フランクリンが元歌の意趣を返した(そして最終的には自分のものにしてしまった)オーティス・レディングの「Respect」から、ザ・スリッツやビキニ・キル、スリーター・キニーにル・ティグラといった一筋縄ではいかない面々、そしてスパイス・ガールズやデスティニーズ・チャイルドのピリリと刺激的なポップ・ミュージックまで、男たちから一切指図は受けないと心に決めた全ての女性たちに今も連綿と受け継がれている。

想像して欲しい、1969年にマイケル・ジャクソンを食い入るように観ていた子供のように、そして1996年「Wannabe」のミュージック・ビデオの中で、スパイス・ガールズが埃っぽい大邸宅の中を大はしゃぎで走り回るさまを、あっけにとられて眺めていた世界中の少女たちを。彼女たちが彩りよく盛られたデザートの上で宙返りをし、紳士気取りの老人たちをどぎまぎさせながら歌うのは、自分たちで書いた女同士の友情や励まし合いの歌だった。

「Wannabe」のような曲は世界中の女性たちに、もはや無視されたままの存在ではいられない、と決心させる効果を及ぼした。ロードテイラー・スウィフト、グライムスやセイント・ヴィンセントが体現しているのはまさしくその精神性だ。いずれもクリエイティヴ・コントロールを完全に掌握し、業界(そして社会)を彼女たちのヴィジョンで屈服させたパワフルな女性たちである。

Spice Girls – Wannabe

“時代のパラダイム”

アメリカでは人種や性差別に対するアティテュードを改めさせる上で、音楽が重要な役割を担っているが、それ以外の地域においても様々な形で既成概念に挑戦している。ザ・ビートルズの与えた衝撃は、ポップ・ミュージックの持つ変革作用の完璧な一例だ。彼らの音楽が社会に対して及ぼした変化すべてを一息で並べるとすれば、相当な深呼吸が必要だろう。自分たちのソングライターとしてのクレジットを表示させたこと、ポピュラー文化に地域的な訛りを持ち込んだこと、不遜な言動を悪びれることなく楽しむ姿勢、髪型、絶叫するファンたちに対する人心掌握の仕方、難解な考え方や異国文化の大衆への広め方……

アレン・ギンズバーグはかつて、彼らが「時代のパラダイム」を体現していると評したが、その理由は明白だろう。60年代はビートルズのビートに合わせてスウィングしていた。彼らの影響はそこら中に顕在していた。ジョン・レノンが「Lucy In The Sky With Diamonds」を歌い、ファンがそれをLSDの影響だと解釈すると、それに触発されて何世代ものユーザーが生まれた。

彼がザ・ビートルズは「イエス・キリストより人気者だ」と口にした有名なインタビュー(ちなみにこの発言は元々、宗教の影響力が年々弱まりつつあるというもっと普遍的な議論の中で行なわれたものだった)がアメリカの大衆の耳目に晒されると、驚くほど大量の批判が噴出したのだが、彼のファンであれば間違いなく、少なからぬ数の人々が、はっとさせられたはずなのだ。

ザ・ビートルズと60年代そのものが、世の人々に、当たり前とされている物事からハミ出して考えてみること、通念として受け容れられている金言を疑ってみることを奨励したのであり、つまりはそれ以降、音楽が社会を変える上で絶対不可欠な要素となった。それが鮮烈に顕現したひとつの例がパンク・ムーヴメントである。

英国のプレスは、若者たちによるこのクリエイティヴなムーヴメントを、あっと言う間にタブロイド紙の諷刺ネタにしてしまったが、いわゆるDIYパンク・ムーヴメントの核を成していた、自分の主張や意見を世間に聞かせるのには、レコード会社どころか音楽的才能も必要ない、という前提は、社会を揺るがす巨大なインパクトを持っていた。

バズコックスのデビューEP『Spiral Scratch』に至ってはそもそも政治的な内容ではなかったが、彼らがこのレコードを自主制作でリリースしたことで、音楽を世に出すというプロセスの神話的な部分が打ち消され、図らずもこの時代屈指の影響力を持つレコードとして、以後の多くのアーティストたちにインスピレーションを与える結果となったのである。

Lucy In The Sky With Diamonds (Remastered 2009)

 

“ますます流動的に”

実のところ、作為的にであれ無作為的にであれ、ポップ・ミュージックの役割のひとつは、クリエイティヴで好奇心旺盛な、進取の気性のある人々のアイディアや生き方を映し出し、キャッチーなコーラスやクセになるビート、大胆なギミック等を通じて彼らの存在をメインストリームへと押し出すことにある。それはまるで想像し得る限りの、最も理想的な社会への変革を実行する腕の立つエージェントであり、ひとつの歌には現状を頭から方向転換させるだけの力が備わっているのである。

また、歌には抑圧された人々の主張を代弁する力もある。トム・ロビンソン・バンドが1978年に出した 「Glad To Be Gay」は、ホモセクシュアリティに対する世間の態度をまともにあげつらうことで、公然と挑戦を突きつけた。このテーマをあからさまに扱ったポップ・ソングがそれまで殆ど存在しなかったこと(もっともコール・ポーターの「You’re The Top」からリトル・リチャードの「Tutti Frutti」まで、それとなく礼賛している曲は多数あり、デヴィッド・ボウイが『トップ・オブ・ザ・ポップス』で披露した「Starman」のパフォーマンスには、番組を目撃した全てのゲイの若者たちを力づけるジェスチャーが含まれていたが)、そして英国において同性愛が犯罪とみなされなくなったのがようやく1967年になってからのことだったという背景に照らせば、これがどれほど勇敢な曲であり、多くの人々を救ったかが分かるだろう。これ以後、社会状況は改善に向かい、ゲイ・カルチャーはメインストリームの一部として受容されるようになってきたが、それは音楽と言う巨大な暗渠があってこそ実現したのだ。

Glad to Be Gay

セクシュアリティに対するアティテュードがより流動的になるにつれ、80年代にセクシュアルさをめぐって物議を醸し、メインストリームによりリベラルなアプローチをもたらしたプリンスマドンナのように、ミュージシャンたちは再び最前線に立ち始めている。

正式なデビュー・アルバムのリリース前夜、現在の音楽シーンにおいて絶大な影響力を誇るミュージシャンのひとりであるR&B界の風雲児、フランク・オーシャンは自らのTumblrに、自分が男性とも女性とも関係を持った経験があることを仄めかす短文を寄せた。その時のアルバム『Channel Orange』と次作の『Blonde』は、どちらも歌詞の中でも同様のテリトリーを探求している。

彼の元オッド・フューチャー時代のバンド仲間、タイラー・ザ・クリエイターも2017年のアルバム『Flower Boy』発表前にこれに倣い、圧倒的な支持を受けた。2人のアーティストは、伝統的には同性愛に対してあからさまな敵意を示していたジャンルで音楽をリリースしているわけだが、彼らの意志はその状況を変える強さを持っていたのである。

Thinkin Bout You

過去に起こった人種や性別をめぐる革命同様、音楽はいま再び現代の対話の最前線にある。アノーニやクリスティーン&ザ・クイーンズから、メインストリームで人々を扇動するレディー・ガガまで、率直な物言いのアーティストたちは性別の流動性についての認識を広め、オーディエンスに呼びかけ、先入観に凝り固まった考えを瓦解へと導いている。それはまさしく音楽がこれまでずっと、そしてこれからも果たして行く役割なのだ。

Written By Jamie Atkins



 

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