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人種の壁を破ったモータウン:肌の色・宗教の違いを超えてファン層を広げた黒人レーベル

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Photo: Motown/EMI Hayes Archives

モータウンはみんなが好きなレーベル。現代でモータウンの曲で好きなものがないという人は、まだ自分にぴったりのモータウンの曲に出会っていないのだろう。とはいえ設立当時のモータウンは独立系のアウトサイダーだった。黒人が設立したレコード会社はどこもファンを増やそうと躍起になっており、その部分ではモータウンも同じだった。

しかしモータウンは人種間の垣根を破り、白人ファンと黒人ファンの境目をあいまいにした。そして、ソウル・ミュージックを代表するレーベルとして、世界中に知られるようになった。肌の色を問わず、どの国の人もそう認識するようになったのである。

モータウンは人種間の垣根を破り、人種・宗教の違いを超えてファン層を広げた。しかしそれは、単に音楽の素晴らしさだけによるものではなかった。モータウンはかなりの努力を積み重ねることで、他の黒人レーベルよりもはるかに広いファンを獲得した。それでいて、ソウルフルな持ち味を少しも失うことがなかった。

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黒人音楽に白人のファンがつくのは新しいことではなかった。たとえば19世紀末に生まれたジャズは、たくさんのファンを獲得している。しかしそうしたファンの多くは、ジャズがどういうルーツを持っている音楽なのかほとんど知らないままだった。1930~40年代の有名なスウィング・オーケストラは白人ミュージシャンで構成されていたが、そうしたジャンルを最初に切り開いたのはアフリカ系アメリカ人のバンドリーダー(デューク・エリントンやカウント・ベイシーなど)だった。R&Bやドゥーワップも人気を集めたが、ポップス・ファン向けにリリースしたレコードは黒人が歌うオリジナル・ヴァージョンではなく白人歌手による貧弱な物真似であることが多かった。

ロックンロールが到来する前でも、黒人歌手が白人ファンをたくさん獲得することは可能だったが、それは、ナット・キング・コールやハリー・ベラフォンテのように、口当たりの良いサウンドに専念した場合だけだった。メンフィスのサン・レーベルのオーナー、サム・フィリップスは黒人音楽を作れる白人ミュージシャンを大っぴらに探していた。

そうして見つけたのがエルヴィス・プレスリーである。プレスリーは、R&Bとカントリーを混ぜ合わせた曲を歌うことで有名になった。その彼のサウンドがひとつのジャンルとして定着したことによって、黒人ミュージシャンたち、リトル・リチャード、ファッツ・ドミノ、ジャッキー・ウィルソンも世に出た。そしてウィルソンの初期の大ヒット曲を作った男、ベリー・ゴーディ・ジュニアがモータウン・レーベルを設立することになった。

 

まばゆいばかりのニュー・サウンド

ゴーディはジャッキー・ウィルソンの活動に注目した。ウィルソンは、50年代末にリズム&ブルースのレコードをメインストリームの客層にまで売り込むようになっていたのである。しかし当時の契約先であるブランズウィック・レーベルは、彼をあくまで一般大衆であるポップス向けの活動に留めようとしていた。そして彼の新しい方向性、すなわちソウル・ミュージックには理解を示さなかった。とはいえポップスの客層は、ウィルソンの最新スタイルに満足していた。彼らがウィルソンのレコードに必要としていたのは、もはや安っぽい伴奏や古くさいオーケストラではなかった。

やがて1959年、ゴーディがタムラ・レーベルを設立する。彼はブランズウィックとは違い、ジャッキー・ウィルソンの方向性をしっかりと理解していた。純粋で素晴らしいソウル・ミュージックを作り、それをアメリカの黒人だけでなく、白人にも売り込もうとしていたのである。

ゴーディは契約したアーティストに一種の活動方針を守ることを義務づけた。衣装はスターらしい申し分のないものにする。クールなかっこよさを保つため、立ち居振る舞いのマナーも教え込まれた。ダンスの振り付けやステージ演出もあてがわれた。レコードは確かなかたちでレコーディングされ、それがモータウンのものだとファンにわかるように、一定のサウンドになるように仕上げられたので、モータウンの場合、痛烈なメッセージを伝える曲でも、聴けば耳に快いのはそのためだ。

モータウンの曲がレコードの中での革命だったとするならば、それはメインストリームの鈍感な客の心をかき乱さないようなかたちで表現されていた。たとえばマーサ&ザ・ヴァンデラスの「Dancing In The Street」は、額面通り「街で踊ろう」という意味にもとれたし、暴動への呼びかけとして考えることもできる。フォー・トップスの「Seven Rooms Of Gloom」のように実に意気消沈した内容の歌詞でも、曲そのものは踊れるものになっていた。

Dancing In The Street (The Motown Story: The 60s Version)

 

アメリカの中産階級に受け入れられたモータウン

音楽の面では、モータウンは時としてメインストリーム志向を強めすぎる場合があった。たとえば1960年代中期のマーヴィン・ゲイは、「You’re A Wonderful One」や「Ain’t That Peculiar」といった血湧き肉躍るR&Bの名曲をリリースする一方で、一般受けを狙ったジャズっぽいスタイルのアルバムを何枚か発表している。

またシュープリームスの場合、カントリー・ソングやロジャース&ハートのミュージカル・ソングを歌っていたし、モータウンから影響を受けたイギリスのバンド(ビートルズなど)のカヴァー・アルバムも出している。さらにゴーディは、R&B色がかなり薄いアーティストとも契約を結んでいた(たとえばスウィング歌手のビリー・エクスタイン、俳優のトニー・マーティンやアルバート・フィニー) 。とはいえ、それらはモータウンの得意分野ではなかった。モータウンが得意としていたのは、ソウルでアメリカの中産階級を惹き付けることだった。

モータウンは1969年にロック部門としてレア・アース・レーベルを設立するが、こちらもやはり苦戦することになる。ここから出たレア・アースというロック・バンドは何枚かヒット曲を出したが、大ブレイクを果たしたのはソウル・バンドとして出したシングル「Get Ready」でのこと。またストーニー&ミートローフが大成功を手にするのは6年先だった。プリティ・シングスやラヴ・スカルプチャーといったイギリスの人気バンドともライセンス契約が結ばれたが、彼らはアメリカでは大きなインパクトを残せなかった。

Get Ready

レア・アース・レーベルではR・ディーン・テイラーが好成績を収めたが、そのレコードはモータウンの通常のサウンドに近かった。一方、モータウンはデビー・ディーン、クリス・クラーク、キキ・ディーといった白人アーティストやボビー・テイラー&ザ・ヴァンクーヴァーズのような人種混合バンドとも契約していたが、彼らのレコードはモータウンのソウル路線に沿ったものだった。世間の人がモータウンに求めるのはソウルだった。なにしろ、それ以外の音楽はよそで手に入るのだから。

モータウンが発売していたレコードの大部分は、黒人であることを高らかに歌い上げていた。しかし、ひとつ問題があった。そうしたレコードを小売店に仕入れてもらい、ポップスのラジオDJに採り上げてもらうにはどうしたらよいのだろうか?

1960年代初期のモータウンがとった手段は、白人の弁護士、白人の販売担当、白人の広報係を雇うというものだった。これはポリシーではなく、あくまで商売上の習慣だったが、黒人の権利向上を求める活動家からはある程度批判されることになった。やがて1960年代が進むにつれ、こうした部門での白人と黒人の割合は段々とバランスがとられていく。モータウンの広報係は所属するスターをレコード店に派遣して店頭ライヴをやらせていた。

さらにレーベルの評判が高まると、ベリー・ゴーディは全米各地に足を延ばし、配給業者、DJ、小売店のオーナーと面会するようになる。これは関係構築のための活動だった。ゴーディは次のようなメッセージを伝えようとしていた。

「モータウンはたまたま運良くいくつかのヒット曲を出しただけの弱小会社ではない。この会社は、本物の業界人が切り盛りする本物のビジネスだ」

人種や国籍を問わず、どんな人であろうと楽しめる音楽

モータウンは1965年にイギリス支社タムラ・モータウンも開設した。懸命なことに、発売するレコードの選択は支社の判断に任せ、それによってイギリスでも独自のブランドを確立していった。モータウンのレコードは独特なサウンドになっていたので、イギリスのファンの多くはこのレーベルをあたかもひとりのアーティストであるかのように考えていた。

時には「どの歌手が好き?」という問いに対して、「ミラクルズ」や「ジミー・ラフィン」ではなく、「タムラ」という答えが返ってくることもあった。イギリス支社開設後、モータウンはお抱えの一流アーティストたちをヨーロッパに派遣し、今や伝説となっている「モータウン・レヴュー」ツアーを敢行している。

Photo: Motown/EMI Hayes Archives

1965年春にイギリスでタムラ・モータウンが始動すると、人気テレビ番組『Ready Steady Go!』がそれに合わせて特番を放送した。その反響を目にしたゴーディは、アメリカでも『TCB』というテレビ特番企画を実現させた。1968年に放送されたこの番組には、ダイアナ・ロス、シュープリームス、テンプテーションズが出演。番組と連動した企画アルバムもたくさん発売された。

モータウンは映画界にも進出したが、あるテレビ企画は期待以上に大成功を収め、ひとつのモータウン・グループを大スターの座に押し上げた。その番組『The Jackson 5ive』(全23回のアニメ・シリーズ)をきっかけに、ジャクソン5、そしてマイケル・ジャクソンは自分たちよりも年下のファンを獲得することになった。

何にもまして、モータウンの音楽は人種間の隔たた(現実の面でも意識の面でも)を超越するものだった。魂(ソウル)を持つ人間なら、誰だって「My Guy」「You’re All I Need To Get By」「Quicksand」「Too Many Fish In The Sea」「Does Your Mama Know About Me?」「Save The Children」といった曲に心揺さぶられることだろう。ジュニア・ウォーカー&ジ・オール・スターズの「Way Back Home」は人種差別に触れた曲だったかもしれない。それでも、白人のファンはそのグルーヴに心動かされていた。

Way Back Home

モータウンは音楽を通じて政治的な働きかけを行っていたが、人を楽しませることを忘れてはいなかった。人種・国籍を問わず、どんな人間でも楽しませようとしていたのである。

Written By Ian McCann



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