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【特集】ヒップホップ・ゴールデン・エイジ:80年代半ばから90年代半ばに活躍したラッパーたち
1985年にRUN DMCがラップ初のミリオンセラー・アルバム(『King Of Rock』)をリリースして以来、ヒップホップは人々を魅了し続けてきた。DMX、ドクター・ドレー、エミネム、ネリー、トゥパックといったラッパーが、何百万枚ものアルバムを売り上げると、ヒップホップは音楽業界を根本から覆し、現代音楽で特に人気の高いスタイルとなり、若者文化に大変革をもたらした。 ヒップホップが誕生してから成功に至るまで、しばらくの年月を要したが、ひとたびヒットが出ると、ヒップホップは壮大なスケールで成功を収めた。クール・ハーク、グランドマスター・フラッシュ、アフリカ・バンバータといったアーティストは、ヒップホップ・カルチャーの重要人物かつ生みの親でもあるが、ヒップホップはいわゆる“ゴールデン・エイジ”と呼ばれる時代に世界中に広がった。
一般に、ヒップホップの“ゴールデン・エイジ”は、80年代半ばから90年代半ばとされている。この期間に、ヒップホップ・カルチャーの全要素――ブレイキング、グラフィティ、DJ――が表舞台に飛び出し、メインストリームの仲間入りを果たした。そして、LLクールJ、N.W.A.、エリック・B&ラキム、ナズ、パブリック・エネミー、ビースティ・ボーイズにより、ラップ・ミュージックはヒップホップ・カルチャーの真打ちとなった。
しかし、ラップ・ミュージックは単なる音楽ではなかった。ゴールド・チェーンとスニーカーを備えたヒップホップ・ファッションがメインストリームに登場すると、それを受けてスニーカー・カルチャーがブームとなった。後にエボニクスとして知られるストリート・スラングはクロスオーヴァーし、「bling」をはじめとする言葉はオックスフォード英語大辞典に掲載されるまでになった。いまやヒップホップ・カルチャーは、日常生活の一部となっている。そしてすべては、クール・ハークがブロンクスのセジュウィック・アヴェニューにある小さなアパートで開いたパーティから始まった。
意見を伝達し、困難を描写し、ストーリーを語る新たな手法にライフスタイルを組み合わせてたヒップホップは、一大現象となった。しばらくの間はアンダーグラウンドで盛り上がっていたが、本領を発揮するチャンスを待ち受けていたのだ。
1980年にシュガーヒル・ギャングが「Rapper’s Delight」というラップ・シングルで全米トップ40チャート36位を記録するなど、ラップがメインストリームに顔を出すと、ほどなくして成功を求めてやまないMCたちがスーパーヒーローのごとく登場し、先頭に立ってラップという新たなアートフォームに光を当てた。
「俺みたいなラップができるヤツは皆無/イカつい野郎も俺に倒され、砂の中に顔を突っ込む」
LLクールJ「I’m Bad」
自信に満ちた生意気盛りのティーンとしてデビューしたLLクールJ(Ladies Love Cool James=女性たちはクールなジェイムズが大好物)は、ラップ界が生んだ最初のスーパースターだと評されることが多い。1984年、彼は16歳でファースト・シングル「I Need A Beat」をデフ・ジャム・レコードからリリースした。ちなみにデフ・ジャムは、ヒップホップ史上で特に重要なレコード・レーベルとされている。LLクールJはその精神力とスキルで、ラッパーとしてだけでなく、俳優としても大成功を収めた。
トレードマークのカンゴール・ハットと彫刻のような体でセックス・シンボルとなったLLクールJだが、デビュー・アルバム『Radio』は「ヒップホップのバイブル」とされたソース誌でマイク5本を獲得するほどのリリシストでもある。ラッパーのキャリアは短いとされているが、LLクールJにその一般論は当てはまらない。「Mama Said Knock You Out」と「Mr. Smith」は、彼の作品の中でも際立った傑作とされている。
デフ・ジャムといえば、リック・ルービンとラッセル・シモンズが設立したレーベルだ。創設当初から、ラッセル・シモンズは同レーベルとそのカルチャーについて、2人が意図するところを明言していた。
「ディスコはブラック・ミュージックを単純化したものだ。薄められているのさ。業界が人々のために作ったもので、人々が人々のために作ったものではない。ディスコに対する俺たちの回答が、ヒップホップだったんだ」と彼は『The Men Behind Def Jam: The Radical Rise of Russell Simmons and Rick Rubin』で語っている。
一味違ったスタイルを提供するデフ・ジャム所属アーティストで、ヒップホップの振興に貢献した初期のアーティストがもう一組いる。マイクD、アドロック、MCAからなるニューヨークの3人組、ビースティ・ボーイズだ。彼らは当初4人組のパンク・バンドだったが、ビースティ・ボーイズとなり、RUN DMCとエアロスミスの有名なコラボレーションよりも遥か以前に、ラップを初めてロック界に紹介した。
ビースティ・ボーイズは、アフリカン・アメリカンが独占するカルチャーで成功を収めた初の白人ラップ・グループだったため、その信憑性に疑問の声が上がるのも仕方のないことだった。文化を盗んでいると非難されることもあったが、考えてみれば、ヒップホップとパンクのDIY精神には近親性がある。やんちゃな振る舞いや、がなり立てるようなラップが次第にトーンダウンするにつれて、グループ自身も、ロックとラップを融合したその音楽性も正当に受け入れられるようになった。
1986年の『Licensed To Ill』はヒップホップ初のナンバーワン・アルバムとなったが、ゴールデン・エイジが吸収してきた多様性、革新性、品質と影響がここまで顕著に表れたアルバムはほかに存在しない。彼らの活躍はこれにとどまらなかった。『Check Your Head』『Ill Communication』『Paul’s Boutique』といったアルバムに加えて、ビースティ・ボーイズのコンサートはすぐに大きな話題となった。彼らは、檻の中で腰を振る裸同然の女性たちや、空気を入れて膨らませるペニスの小道具など、観客を驚かせる演出を駆使し、とことん楽しい(そして時に物議を醸す)ショウを行っただけでなく、ちょっとした暴動を起こすことでも知られていた――1987年のLicensed To Illツアーで立ち寄ったリヴァプールのロイヤル・コート劇場では、3人の登場後10分で暴動が起こり、暴行罪でアドロックが逮捕された。
「俺にとってMCとは、Move the Crowd(観客を動かす者)」
ラキム「Eric B. Is President」
トップクラスのMC/DJデュオ、エリック・B&ラキムの一員だったラキムは、歴代MCの中で最も技術的な才能に恵まれたリリシストの1人とされている。音節すべてをアグレッシヴに攻めるラキムには、ナズやエミネムをはじめ、多くのラッパーが大きな影響を受けたと語っている。まさに、彼こそが正真正銘の“リリシスト”である。
巨大なロープチェーンを金メダルのごとく首にぶら下げ、ジェームズ・ブラウンのサンプルに乗せて見事なラップを披露していたラキムは、ヒップホップがそのパワーを確立する手助けをしただけでなく、『Paid In Full』『Follow The Leader』『Let The Rhythm Hi ‘Em』というアルバムを世に出すことで、未来のラッパーが研究資料として使える青写真を提供した。ちなみに、ラキムのワードプレイとラップのデリヴァリーは、その複雑さとスキルで数十年先を行っていた。
次のサブジャンルに移ろう。レヴォリューショナリー・ラップ(革命的ラップ)というものは、これまでに存在しただろうか? そうだとしたら、チャック・Dとパブリック・エネミーは、明らかにこうしたムーヴメントの先頭に立っていた。攻撃的な姿勢を政治的なメッセージへと昇華し、そこに希望と新たなチャンスを加えたPEは、庶民のリーダーだった。1989年の「Fight The Power」で、「エルヴィスは大勢のヒーローだったが、俺には何の意味も持たない/単純明快なこと、あいつはガチなレイシスト」とラップすると、チャック・Dとパブリック・エネミーは支配体制と真正面からぶつかり、甘やかされた政策や信条に飽き飽きした人々が従うことのできる新たなフォーマットを与えた。
学生ラジオ局WBAUのDJをしていたチャックDは、同局でボム・スクワッドの共同創設者となったハンク・ショックリーと出会った。当初はレコード契約に興味がなかったチャック・Dだが、極めてハードなサウンドと、革新に満ちた政治的メッセージを携えた革命的ヒップホップ集団を結成する、というコンセプトを生み出すと、レコード契約を結ぶに至った。
パブリック・エネミーは、大衆を啓蒙する手段としてラップを使う社会活動家だった。ヒップホップに別の解釈を加えた彼らにインスパイアされ、人々は社会問題を提起しながら、アフロセントリック(アフリカ中心主義)なテーマを称賛するようになった。そしてこれが、KRSワンの“Stop The Violence(暴力追放)”ムーヴメント誕生へとつながった。要するに、パブリック・エネミーはルールブックを書き換えたのだ。ゴールド・チェーンをアフリカのメダリオンに差し替え、「Don’t Believe The Hype」や「Welcome To The Terrordome」といったトラックで常識の壁を打ち破ると、パブリック・エネミーはアーティストが音楽を制作する方法と、ファンが音楽を聴く方法に疑問を呈したのだった。
パブリック・エネミーは、ストリートに感化されたRUN DMCのビートや、ギャングスタ・ラップの原型ともいえるブギ・ダウン・プロダクションズのラップ、さらには個々の政策や意見にインスパイアされると、ヒップホップを前進させた。センセーショナルなボム・スクワッドのプロダクションに乗せて社会的メッセージを発した2枚のアルバム『It Takes A Nation Of Millions To Hold Us Back(邦題:パブリック・エネミーⅡ)』、『Fear Of A Black Planet』は文化的に重要な作品となり、チャック・D、フレイヴァー・フレイヴをはじめとするパブリック・エネミーは、発展していくヒップホップ・カルチャーの中で重要なリーダー的存在となった。
ここで、東海岸から西海岸へと目を向けてみよう――地理的は違いはあるものの、ここでも同じように社会的な不満が鬱積していた。しかし、LA(厳密にはコンプトン)では、表現方法が少々違っていた。
「オマワリはくたばれ、アンダーグラウンドから真っ直ぐやって来た俺」
アイス・キューブ「F**k The Police」
80年代の終盤には、ポップなラップがラジオを席巻していたが、N.W.A.(Niggaz With Attitudes)という問題の5人組が登場したことにより、ヒップホップ・カルチャーがさらなる広がりを見せた。彼らの音楽はギャングスタ・ラップとシンプルに名づけられた。同グループは、日常で数多くの困難に見舞われ、葛藤を経験した人々の声を代弁するために結成された。世界で最も危険なクルーと評された彼らのリリックは、女性を軽視し、銃やドラッグ、犯罪を賛美していたため、ドクター・ドレー、アイス・キューブ、イージー・E、MCレン、DJイェラの楽曲は当時、メインストリームのラジオ局大半から放送禁止にされた。
キング牧師よりもマルコムXに近い姿勢のN.W.A.は、名盤『Straight Outta Compton』で警察の暴力行為や人種による差別的捜査について触れると、果敢な口撃を繰り広げた。警察や官僚とは歩み寄る気がないことを公言してはばからないN.W.A.は、自身の怒りや不満を表現する術を持たない人々のアンダーグラウンド・ヒーローとなった。
この後、アイス・キューブはソロ・デビュー・アルバム『AmeriKKKa’s Most Wanted(邦題:白いアメリカが最も望むもの)』をリリース。金銭的ないざこざでN.W.A.を脱退した彼だが、アルバムの内容はN.W.A.の流れを継承している。ボム・スクワッドによるベース主導のファンキーなビートは、洗練を極めながらも、見事なまでにエネルギッシュだ。また、社会問題を取り入れながら、一人称で語られるギャング・ライフは、驚嘆に値するものだった。また、その反逆的な物言いが、作品にさらなる説得力を加えていた。
これに続いてリリースされた『Death Certificate(邦題:生と死)』と『The Predator(邦題:略奪者)』は、デビュー作と同様にエネルギーとメッセージが際立つ作品だ。アイス・キューブは、N.W.A.のメンバーとの舌戦だけでなく、その暴力的で同性愛嫌悪、女性嫌悪のリリックにより、(道徳の番人的な人々から)多くの批判を受け、ことあるごとに論争を招いていた。とはいえ、ギャングスタ・ライフを正確に描写したことも一因となり、彼はヒップホップ界で最もリスペクトされるMCの1人となった。
再び東海岸に話を戻そう。ヒップホップは総じて、ヒップホップならではの特色/ステレオタイプを擁しはじめていた。例えば、『Unfinished Business』のアルバム・ジャケットで、(EPMDの)エリック・サーモンとパリッシュ・スミスはスウェットシャツを着て、ゴールドで身を飾り、高級車のボンネットに乗っているが、彼らの楽曲は社会問題から一歩離れ、男らしさを誇示する類のラップ・ミュージックになっていた。これについて、サーモンもかつてこう語っている。「(ラップは)ずっと戯言だったのさ。俺の方がお前より凄い、お前のラップは最悪ってな」
メロウながらもハードコアなギャングスターのグールー(絶対的なライムの才能に恵まれている)とDJプレミアも、ヒップホップ界で最高峰のDJ/MCデュオとして崇拝されている。(『Step In The Arena』や『Daily Operation』を聴けば分かるだろう。)彼らは何よりも、ビートに乗せてストレートにライムすることを第一に考えていた。グールーは特徴的なライム・スキームで世俗的な知識をラップし、パートナーのプレミアはグールーのラップをジャジーなヒップホップ・ビートで彩りながら、現在に至ってもすぐに彼のものと分かるトレードマークのスクラッチを加えた。
ラップ・ミュージックとファッションの融合が確立したのは、この時期である。ファッション・ブランドやジュエリー・ストアは、ラッパーやDJと提携するチャンスに飛びつき、ピート・ロック&CLスムース、ビッグ・ダディ・ケイン、スリック・リックといったアーティストは、フランク・シナトラやミック・ジャガー並みの有名人となった。ヒップホップがメインストリームで大成功する可能性が広がりはじめたのである。
N.W.A.に話を戻そう。天才プロデューサーのドクター・ドレーは、史上最も人気の高いプロデューサーになったといっても過言ではない。それだけでなく、彼はヒップホップでアーティストのメンターとして最も成功した人物と言えるだろう。スヌープ・ドッグ、エミネム、50セント、ケンドリック・ラマー。彼が関与したアーティストを見れば、彼が才能を聴き分ける耳を持っていることは間違いない。ヒップホップ・カルチャーを進化させるという点においては、彼の貢献の右に出る者はいない。もちろん、ディディやマスターP、ベイビーといった大御所もヒップホップに大きな貢献をしているが、ドクター・ドレーほどリスペクトされているプロデューサーは存在しない。
90年代前半にデス・ロウ・レコードからリリースされたギャングスタ・ラップの名盤『The Chronic』は、この後すぐにスーパースターとなったスヌープ〔ドギー〕ドッグ、ザ・ドッグ・パウンド(ダズとコラプト)、ネイト・ドッグ、The D.O.C.など、多くの新人アーティストをフィーチャーしている。Gファンクとギャングスタ・ラップを融合することにより、ディープでミッドテンポなベースラインとジョージ・クリントンに影響を受けたサウンドが、ハードコアな「フッド」の物語と混然一体となり、ここにラップの新章が幕を開けたのだ。ドクター・ドレーは2000年、ロンドンのブリクストン・アカデミーで、秘蔵っ子のエミネムと共にUKで初めてのコンサートを行った。これは、ギャングスタ・ラップ・ファンの夢を叶える全ての要素を持ちあわせていた。リリースしたアルバムは数少ないが、ドレーは「量より質」の大切さを自ら証明しているのだ。
ドレーの影響力は、今日も全く衰えていない。Beats by Dr.Dreのヘッドフォンは、外出時に聴く音楽の風景を劇的に変えてしまった。また、彼のヘッドフォンは、現在最も人気の高い、マストハヴなファッション・アクセサリーとなっている。それにしても、ワールド・クラス・レッキン・クルーのDJとしてキャリアをスタートした若きエンターテイナーが、音楽とヒップホップに関して、世界で最もリスペクトされる人物となるとは、誰が予想できだだろうか? テック面で天才的センスを持つドレーだが、そのビジネスセンスのおかげで、市場で最も認知度の高いヘッドフォン・ブランドを生み出した。また、そのビジネスセンスによって、ヒップホップの救世主(ケンドリック・ラマー)を自身のレーベルに招き入れることができた、と多くの人々が考えている。
ドレーの威光を借りてデビューしたものの、すぐに独り立ちしたスヌープ・ドッグは、ギャングスタ・ラップの旗を振りつづけ、デビュー・アルバムの『Doggystyle』でヒップホップ界を熱狂の渦に陥れた。ドクター・ドレーのプロデュースによるウェッサイの名盤は、ヒップホップ史上で最も期待されたアルバムの1枚に数えられるだろう。「Gin And Juice」や「Who Am I (What’s My Name?)」といったヒットにより、デス・ロウ・レコードは向かうところ敵なしの強力レーベルとなり、デス・ロウ(死刑囚監房)の‘インメイト(囚人)’を多数デビューさせた。前述のファースト・アルバムと、1996年にリリースされたセカンド・アルバム『Tha Doggfather』で、スヌープは現実と空想の境界を曖昧にした。彼のスタイルは、ファンクとラップという2つのスタイルを、前例を見ないほど果敢にまとめ上げ、ひとつのサウンドを作りだしている。こうして、ファンクとラップの美しいフュージョンが完成したのだ。
90年代も半ばに近づくと、ヒップホップは音楽面とカルチャー面で一大勢力となった。ファンキーなプロダクションとセクシーなヴォーカルが特徴のニュージャック・スウィングも、メインストリームに登場していた。このムーヴメントを牽引していたのは、ボビー・ブラウン、メアリー・J.ブライジ、テディ・ライリー率いるガイとブラックストリートといったアーティストだ。また、音楽的に大きな革新を起こしたわけではないが、『Big Tyme』『Peaceful Journey』『Blue Funk』といったアルバムで着実にミリオンセラーを記録していたヘヴィーDは、ぽっちゃり体型ながらもセクシーさをアピールし、社会の一般的な考え方に対抗した。
前述のアーティストやサブジャンルにより、ヒップホップはどんどんヴァラエティを増していったが、ヒップホップ・カルチャーで、正真正銘のアイコンは誕生していなかった。ヒーローはいたものの、アイコンはいなかったのだ。しかし、ニューヨーク生まれの若者が、ウェスト・コーストのドンになったその時、アイコンが誕生した。
「医者が俺を見下ろしながら、助かるぞと叫んでる/
弾痕だらけの体、裸のまま横たわってる/
それでも俺には息ができない、毒を点滴されてるんだ」
トゥパック「Only God Can Judge Me」
トゥパック・アマル・シャクール(トゥパック)は、矛盾を絵に描いたような人物として認知されることにより、ヒップホップのゲームを変えた。母を愛する曲(「Dear Mama」)や、女性の強さを讃える曲(「Keep Ya Head Up」)で、思いやり溢れるラップをする一方で、他のラッパーの人格を攻撃することもあれば(「Hit ‘Em Up」)、政府高官に辛辣な言葉を浴びせることもあった(「Last Wordz」)。一部の人にとっては、好感の持てる詩の天才だったトゥパックだが、ノトーリアスB.I.G.と対立するなど、これに相対するような問題児の一面が顔を出すこともあった。
それでも、ブラック・パンサー党員(*訳注:ブラック・パンサー党とは、60-70年代に、人種偏見、警察の暴力等に反発し、黒人の自信と誇りをもちながら、黒人の民主主義・解放運動を発展させた政治グループ)を母に持ったトゥパックにとって、その欠点は実のところ強みでもあった。矛盾をあわせ持つことで、彼はより賢くなったのだ。
実際に殺される瞬間まで、自分が殺されるであろうことを予言していたトゥパックは、たくましい人物だった。ラッパーとしての信用を危険にさらすことなく、自分の弱い一面を表現することで、クリエイティブなアプローチに変化をつけることができると、他のラッパーに気づかせたのだ。『Me Against The World』 『All Eyez On Me』『The Don Killuminati: The 7 Day Theory』の3作は、世界で7500万枚以上のレコード・セールスを記録した非の打ちどころのない傑作であり、トゥパックが時代を大きく先取りしていた預言者的MCであることを証明している。
トゥパックとビギーのにらみ合いに板挟みとなったニューヨーク出身の新進MCが2人いる。どちらも仲間たちの厚い支持を得て、デビューを果たした。ヒップホップ・カルチャーを21世紀へと導いたジェイ・Zとナズは、リリシズムをさらなる高みへと引き上げた。
ニューヨークのスカイラインを背景としたジェイ・Zとナズは、アメリカン・ドリームを味わうと、実世界の状況を世界の大画面に映しだした。モブ・ディープやオニクスがハードなラップを決める一方、ナズとジェイ・Zは絶妙なバランスを見出し、ストリートのダークなストーリーや、ストリート受けするアンセムを商業的なヒットへと結びつけた。これにより、2人の人気がさらに高まっただけでなく、ラップの人気を高めることにもつながった。
コンバット・ブーツと軍服に身を包んだナズは、ラングストン・ヒューズのように詩的な表現力を有しており、ラキムの再来のように思われた。一方、ビッグ・ダディ・ケインやビッグLとつながりのあったジェイ・Zは、ノトーリアスB.I.G.の内気な弟子といった趣だった。そしてじきに、ハスラー・ライフを語った彼のストーリーは、リスナーの羨望を集めるようになるのだった。2人とも、当時のシーンで誰にも勝る知性を持っていた。頭の回転が速く、機知に富んでおり、教育的でパワフル。ナズとジェイ・Zを表すには、こうした言葉が使えるだろう。
クイーンズの桂冠詩人を名乗ったナズは、デビュー・アルバム『Illmatic』でたちまち大ブレイクを果たした。しかし、ジェイ・Zのデビュー・アルバム『Reasonable Doubt』は、その人気に火が点くのが遅く、最終的に「Can’t Knock The Hustle」と「Dead Presidents II」がアンダーグラウンド・ヒットとなった。いまや2人とも「歴代MCベスト5」に入るとされている。ナズは万能な正統派MCとされることが多く、ジェイ・Zはハスルの申し子と考えらえている。ドラッグ・ディーラーから身を立て、大統領と懇意になるまでになった彼のゲームに隙は存在しないのだ。
2人とも、ヒップホップを新たな高みへと押し上げた貢献者である。1人は個人的に衝突し、そこから「Takeover」と「Ether」というヒットが生まれたが、彼らの不和により、ゴールデン・エイジの間に知れ渡った「バトル」という要素が再び表舞台で復活した。「ビーフ(諍い)」は至るところで話題に上り、レコード・セールスやラジオの関心のピークに達した。現在は友好的な2人、ジェイ・Z は13枚のナンバーワン・アルバムを擁し、ナズも示唆に富んだアルバムをリリースし続け(2006年には「ヒップホップは死んだ」と言った)、高い評価を得ている。
‘jiggy(イケてる)’時代へと進路を開いたゴールデン・エイジの音楽は極めて幅広く、リスナーにとっては贅沢な時代だった。ファッションもよりどりみどりで、トレンドは日々更新されたが、それは音楽を聴けば分かる。ドアノッカー・イヤリングからシェルトウのアディダス。革命的な姿勢からストリート・ライフ。ポップ・ラップからギャングスタ・ラップ。
この点では、90年代前半のムーヴメントに匹敵するものは存在しない。ジョーイ・バッドアス、マック・ミラー、ケンドリック・ラマーも今日、自分の音楽に当時のサウンドやルールを取り入れ、ゴールデン・エイジに敬意を表している。全てはゴールデン・エイジから始まった。そして、その時代が戻ってきたのだ。ゴールデン・エイジとは、キース・マーレイの言葉を借りれば「the most beautifullest thing in this world(この世界で最も美しいもの)」なのだ。
Written by Will “ill Will” Lavin
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