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グレイト・アメリカン・ソングブック、第2巻:ソウルのトップ11
*「グレイト・アメリカン・ソングブック、第1巻:ジャズのTOP11」はこちら
グレイト・アメリカン・ソングブック(訳注:アメリカで影響力をもち、重要なトラディショナル・ポップ、ジャズのスタンダードなど定番となっている楽曲の総称)は、ロックン・ロール革命がメロディ、ハーモニー、そしてロマンティック・バラードの価値をなくすと誓ってから半世紀以上、何十年にも渡り影響を与えてきた。今日、ロッカー達が発売するあらゆるアルバムがその曲を扱っていて、レゲエ・シンガーからロッド・スチュワートまで、みなこれを歌うことを好んでいる。
多くのファンにとって、50年代以来最もハーモニーに満ちた音楽であるソウル・ミュージックもまた、舞台やハリウッド黄金期の曲で詰まった、この想像上のソングブックに加わることを大歓迎されていた。何といっても、これらの曲は永遠性と威厳の感覚を醸し出し、アーティストに上品さを少々もたらしてくれるのだから。その見返りに、ソウルはこの素材にこれまで欠けていたゴスペルによるパワーとダンスフロアから生まれるセクシーさを与えた。ここにグレイト・アメリカン・ソングブックから、みなさんの耳、そして心を喜ばせること請け合いのソウル・パフォーマンス11選をご紹介しよう。
1:エタ・ジェイムス「At Last」(1960年、『At Last!』より)
まずはソウル・ミュージックの誕生から。R&Bのベッドルームから服を掻き集め、教会の教えを決して忘れてはならないとママに諭されたことを思い出していた、そんな時代のこと。ソウルが簡単だったことはなく、偉大なるエタ・ジェイムスはその複雑なルーツの生きた手本だった。彼女は父親の顔を知らず、母親が彼女を生んだのは14歳の時だった。
少女時代のエタ・ジェイムスは、歌うことが大好きだったが、聖歌隊指導員に虐待され、人前でパフォーマンスすることを強要された。その力強い声で、1954年彼女が15歳の時にR&Bレコードを制作。1960年にチェスからデビュー・アルバム『At Last!』を発表。タイトル・ソングはエタ・ジェイムスが歌うブルージーなバラードだったが、元々は1941年のハリウッド・ミュージカル映画『銀嶺セレナーデ』用に書かれ、グレン・ミラー・オーケストラがフィーチャーされた作品だった。作詞家マック・ゴードンと作曲家ヘンリー・ウォーレンによる曲だが、エタ・ジェイムスのソウルにどっぷり浸かったパフォーマンスを聴くにつけ、これが「Chattanooga Choo Choo」と「I`ve Got A Gal In Kalamazoo」を書いたのと同じ人物の作品だとは信じ難い。彼女のソウル・パワーがこの曲を変え、以降この曲は、彼女のものになった。
2:マーヴィン・ゲイ&メアリー・ウェルズ「Just Squeeze Me (Don’t Tease Me)」(1964年、『Together』より)
このように全く縁のなさそうな素材を取り上げる最強のソウル・ディーヴァは、エタ・ジェイムスだけではなかった。アレサ・フランクリンのキャリア初期の頃の作品は、ジャズ・ラウンジ志向のアルバムに彩られており、「Love For Sale」や「You Are My Sunshine」といった曲に取り組んでいる。ソウルの才能を持った人物で後者に挑戦したのは彼女だけではなかった。ニューオーリンズの慈愛に満ちた人物リー・ドーシーもまた、キャリア初期の頃にこの曲をレコーディングしている。
ソウル・シンガーにとって、メインストリーム・ミュージックを副業にすることは、万が一ソウルが一時の流行だということになった場合に備え、何かと役に立った。あの偉大なマーヴィン・ゲイでさえ、モータウン創設者ベリー・ゴーディに勧められ、タキシードを着てジャズ風のバラードを囁くように歌うことに関心を示していた。マーヴィン・ゲイは全曲ショウ・チューン(舞台の為に書かれた曲)のアルバム『Hello Broadway』を制作し、初めてのデュエット・ソウル・パートナーのメアリー・ウェルズと歌った魅力溢れるアルバム『Together』でも、グレイト・アメリカン・ソングブックに目を向け、デューク・エリントンの「Just Squeeze Me (Don’t Tease Me)」をカヴァー。ふたりのヴァージョンはスキップ&スウィングする、極上のソウルフルだ。
3:フォー・トップス「In The Still Of The Night」(1966年、『On Top』より)
モータウンのお抱えスタジオ・ミュージシャンの多くは、彼等がサポートするアーティストよりも年配で、ジャズ時代の曲に夢中だった。偉大なヴォーカル・ソウル・グループの大半は、ドゥーワップに憧れてそれを始め、ショウ・ナンバーでその多才ぶりを積極的に披露していくことになる。そのひとつがフォー・トップスだった。
「Reach Out I’ll Be There」や「Seven Rooms Of Gloom」といったグループのダークでドラマティックなヒット作を聴きたいファンにとって、彼等のアルバムはその多くの場合、予期せぬような巧みに作られた多種の素材に溢れていた。例えば1966年の『On Top』。同作ではヒット・シングル「Loving You Is Sweeter Than Ever」と「Shake Me, Wake Me」と共に、コール・ポーターの1937年発表のスタンダード「In The Still Of The Night」の輝かしいスウィング・ヴァージョンが肩を並べる。リーヴァイ・スタッブスの非常に大きなリード・ヴォーカルで知られる彼等だが、これはとても心地好く温かなグループ・パフォーマンスが詰まった作品になっている。リーヴァイ・スタッブスのソロはここでも健在。しかし少々待たなければならない。
4:ルー・ロウルズ「Stormy Weather」(1964年、『Tobacco Road』より)
ソウル・アーティストにとってはスタンダードをカヴァーするということは、怪しげなチトリン・サーキット(訳注:黒人芸人が出演するナイトクラブ)でプレイして危険を冒さすこともなく、高報酬の高級ナイトクラブやラスヴガスのギグに備えて準備する手段でもあった。スタンダードを歌うことは彼等に少し“高級感”を与える、と少なくともその当時は受け止められていた。そういった要素が加わるのを一切必要としなかったシンガーが、ソウル、ポップ、R&B、そしてジャズの交差点で難なくパフォームしていたルー・ロウルズだ。1964年リリースの名アルバム『Tobacco Road』収録の「Stormy Weather」は、彼が生まれた1933年に、ハロルド・アーレンとテッド・ケーラーが書いたナンバーだが、この曲で彼は17人編成のビッグ・バンドを完全に制している。ルー・ロウルズはこの後60年代と70年代に、スウィング・ジャズとコンテンポラリー・ソウルのミックスに取り組んだ。それは常にアートとその周辺を、見事なまでに掌握したものだった。
5:シュープリームス「The Lady Is A Tramp」(1967年、『The Supremes Sing Rodgers & Hart』より)
見事な(Supreme)までにと言えば、ダイアナ・ロスだ。より幅広い層に受ける能力を彼女に見出したモータウンのベリー・ゴーディの手によって、ダイアナ・ロスはより幅広い場で活躍するスターとなっていった。ベリー・ゴーディはダイアナ・ロスとシュープリームスに、幅広い聴衆が得れるタイプの曲をカヴァーさせ、アメリカのテレビ番組「The Hollywood Palace」では、サイケデリック・ソウルのヒット曲「Reflections」を歌った後に、明らかにサイケではない曲「The Lady Is A Tramp」を、リハーサルされた“アドリブ”を間に入れながら歌わせた。これは今では不思議に感じられるかも知れないが、1967年当時としてはごく普通のことだった。シュープリームスは同年発表のアルバム『Sing Rodgers & Hart』の為にこの曲をレコーディングした。現在でもスタンダードとして親しまれているふたりのコンポーザーによる作品を、このアルバムで12曲カヴァーした。このアルバムはシュープリームス、グループとして最後の作品となったが、この後、ダイアナ・ロスの名が脚光を浴びることになる。
6:ジェームス・ブラウン「Nature Boy」(1967年、『Cold Sweat』より)
シュープリームスのロジャース=ハートによる楽曲のアルバムを購入した人で、期待を挫かれた人はいない筈だ。まさに期待通りだったからだ。しかし1967年発表ジェームス・ブラウンのサード・アルバム『Cold Sweat』は、そのタイトル・トラック「Cold Sweat(冷や汗)」からすると、恐らくは初の本格的ファンク・レコードではあるが、ビーチで食べるサンドウィッチのようにザラザラしていて、ファンクとは程遠くて、えり抜きのスタンダードが勢揃っている。しかし一旦これが気にならなくなると「Nature Boy」の彼のヴァージョン等、逸品があることに気づくだろう。
この一風変わった不気味な曲は、「サマー・オブ・ラヴ」が起こる20年程前から髪を長く伸ばし、ローブを纏いサンダルを履き、ロサンゼルスのテントに住んでいた音楽界初のヒッピー、エデン・アーベによって書かれたものだ。「Nature Boy」でエデン・アーベは、ずばり自分自身のことを綴り、それをナット・キング・コールに渡し、その曲はそのナット・キング・コールの手により1948年に8週間1位を記録した。ジェームス・ブラウンのヴァージョンは、『スター・トレック』のオリジナル・シリーズで、ミステリアスで不気味な状況を示す時に使用されるような、高い声のバッキング・ヴォーカルによって飾り付けされた、これぞ文化の衝突だった。60年代半ばのジェームス・ブラウンほど都会派でてきぱきした者は、他にはいなかった。それと同時に、彼はムーディーでダークで快い、称賛に値するカヴァーを発表している。この曲「Nature Boy」は、70年代半ばに数百万枚のセールスを記録したジョージ・ベンソンのアルバム『In Flight』に収録された鮮やかなカヴァーで、さらに人気を得た。
7:インプレッションズ「Satin Doll」(1964年、『The Never Ending Impressions』より)
インプレッションズといえば、公民権運動と向かい合い、時にはそれを進めるのに一役買った。同時に、ロマンティックなムードの時には、人の心に触れることで知られるカーティス・メイフィールドの素晴らしい曲が印象的だ。しかしながら、1964年にリリースされたアルバム『The Never Ending Impressions』は、「I’m So Proud」や「I’ve Gotta Keep On Moving」等のカーティス・メイフィールドの名作と、グレイト・アメリカン・ソングブックの逸品数曲により構成されていた。その中で最も意外なのが、1953年のデューク・エリントン、ビリー・ストレイホーン、ジョニー・マーサーによって作曲されたスウィングの名作で、フランク・シナトラとエラ・フィッツジェラルドの歌声で知られる「Satin Doll」だ。これもまた、保険としてインプレッションズのレパートリーに入れられたのだろう。彼等の多才ぶりが伺える曲で、もし社会的良心を持つ純然たるソウルの天才の為に格式市場が急落したら、間違いなく彼等がスウィング・スタンダードを歌うギグに出会えただろう。
8:マリーナ・ショウ「What Are You Doing For The Rest Of Your Life」(1972年、『Marlena』より)
現在のマリーナ・ショウは、苦しむ人々に関心を持たなかった政権の座にある者へ向けた痛烈なアンセム「Woman Of the Ghetto」で最も良く知られている。しかしマリーナ・ショウは、アフリカ系アメリカ音楽史にもどっぷり浸かっている。彼女は10歳の時、叔父のジャズ・グループと共にハーレムのアポロ劇場のステージに立ち、カデット・レコードと契約を結び、ソウルを追求し始める60年代半ばまで、ジャズ・バンドで歌っていたのだ。とは言え、聴いて育った音楽からの影響は引き続き感じられ、ブルーノートからのファースト・アルバム『Marlena』(1972年)には、瑞々しいジャズとソウルが均等に入り混じっている。自然なエレガントさが印象的な「What Are You Doing For The Rest Of Your Life」は、グレイト・アメリカン・ソングブック末期にエントリー、1969年まで発表されることはなかったが、作曲したアラン&マリリン・バーグマン、そしてミシェル・ルグランはまさにこの流れを受け継いでいる。マリーナ・ショウは非常に説得力のある、心のこもった歌を披露している。
9:リンダ・クリフォード「If My Friends Could See Me Now」(1978年、『If My Friends Could See Me Now』より)
グレイト・アメリカン・ソングブックの素材がディスコ・アリーナに登場するのは少々奇妙に感じるかも知れないが、実は関連性がある。ディスコはグレイト・アメリカン・ソングブックの礎が築かれたアール・デコ時代から、多くの視覚的刺激を拝借しているのだ。20年代のフラッパー時代と同じようにダンスが重視されたため、率直に言って、ディスコは、グレイト・アメリカン・ソングブックのスタンダードが得意とする、面白いアレンジメントや複雑なコードもなく、単調になることもあり得た。微妙なニュアンスが少々欠けているにも拘わらず、グレイト・アメリカン・ソングブックのスタンダードを目指したような70年代ディスコ・ソングを知るには、パッツィー・ギャランの「From New York To LA」やグロリア・ゲイナーの「I Will Survive」をどうぞ。
リンダ・クリフォードが取り上げた「If My Friends Could See Me Now」は、元々サイ・コールマンとドロシー・フィールズがミュージカル『スウィート・チャリティ』用に書き下ろしたショウ・ナンバー。リンダ・クリフォードは並外れた声の持ち主だったが、その上、重量級のソウルの才能に支えられていた。彼女のプロデューサーであり契約していたレーベル、カートムのオーナー、カーティス・メイフィールドがレコードでギターをプレイしている。またベースには80年代ソウル・レジェンドのケニー・バーク、そして伝説のジョーンズ・ガールズがバック・ヴォーカルを担当。これはたまたまディスコだった…まさにソウルなのだ。
10:バリー・ホワイト「As Time Goes By」(1987年、『The Right Night And Barry White』より)
アメリカン・スタンダードの卓越した点のひとつが、その幅の広さだ。決してフリーサイズではないが、全てのシンガーに合うものがある。例えば、バリー・ホワイトは彼独自の声とスタイルを持つヴォーカリストで一番特異な存在だ。にも拘らずハーマン・フップフェルドの「As Time Goes By」の見事なヴァージョンを、1987年の“カムバック・アルバム”『The Right Night And Barry White』用にリリースした。
「As Time Goes By」は周知の通り、多くのファンが40年代最大の映画と言わしめる『カサブランカ』でフィーチャーされている。あの時点でこの曲は既に11年経っていたが、その歌詞にまさにかなうものだ。キスはただのキス…そして偉大な曲は偉大な曲。そう、バリー・ホワイトが証明しているように。
11:エイミー・ワインハウス「Moody’s Mood For Love」(2003年、『Frank』より)
グレイト・アメリカン・ソングブックの価値を十分に理解していた、現代の画期的なソウル・アーティストのひとり、エイミー・ワインハウス。彼女は父親のレコード・コレクションを聴いて育った為、ジャズ、スウィング、バラードへの愛が身体に染み込んでいた。2003年アルバム『Frank』に収録された、「Moody’s Mood For Love」の大胆でありながら熱く真摯なヴァージョンで、彼女はエディ・ジェファーソン=ジェームズ・ムーディー作のバラードをそれまで行ったことのない場所へと誘っている。この曲の基になっているのは、ジミー・マクヒュー=ドロシー・フィールズ作曲の1935年の名作「I’m In The Mood For Love」。この時はサクソフォン奏者のジェームズ・ムーディーがプレイし、彼がインプロヴァイズした歌詞をシンガーのエディ・ジェファーソンが歌いながら、メロディにまるで新しい命を吹き込んだ。エイミー・ワインハウスはこの独特で非常にアーティスティックな創作物に賛同の意を表したに違いない。
Written By Ian McCann
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(*本記事およびリストは本国uDiscovermusicの翻訳記事です)