Stories
グレン・キャンベル、自らの人生を語る20の発言
グレン・キャンベルの輝かしいキャリアの中で、彼は幾千ものインタビューに応えている。2017年8月8日に81歳でこの世を去った彼を追悼すると共に、我々はその膨大なインタビューアーの中から彼の素晴らしい人生を語った20の名言を選りすぐってみた。
これから紹介するインタビューの中には、長年に渡り公に紹介されなかったものも含まれている。こうした中から、彼が大変貧しい家庭で育ち、ライヴ巡業で生計を立てながら次第に業界に名が知れ渡り、最も偉大なセッション・ギタリストの1人にまで駆け上がったアーティストの人生を読み解くことが出来ればと願う。彼が世界的スターダムを勝ち得た経緯から、彼の個人的な問題、回復、そして婚姻による精神的充足まで。ここに‘ラインストーン・カウボーイ’自身の言葉を残す。
<関連記事>
・グレン・キャンベルへの追悼メッセージと「Adiós」の日本語訳
・【追悼記事】享年81才、グレン・キャンベルを偲んで
1. 「私が子供の頃は家に電気が通ってなかったんだ。親父はラジオをストーブの上に置いて、もう何日分か電池が持つように焼いたりしていた。それくらい本当に貧乏だった。私はカントリー・ウェスタンやシナトラやら、なんでも聴いた。ギターを手にすることは自然な成り行きだった。それしかなかった。牧場でやれることなんて他に大してなかったんだ」(モジョ誌, 2003年)
2. 「私はアーカンソーのなにもないところに住んでた小さな子供だった。ただ早いうちから、ラバのケツを眺めるだけの人生を送りたくはないと思っていた。音楽のおかげで、この素晴らしい人生に導かれたんだ」(サンフランシスコ・クロニクル、2011年)
ギターの影響について
3. 「ジャンゴ・ラインハルトだ。最も偉大なギタリスト。彼とステファン・グラッペリは私の知る限り最も素晴らしい演奏を聴かせてくれた、それもなんと1930年代に。彼は最高のプレイヤーだ。とても影響を受けた。本当に彼みたいに弾けるようになりたかった」(ギター・プレイヤー, 2008年)
4. 「私は1961年まで南部の様々なクラブでカントリー・ミュージックを演奏し、幸運なことにそれからセッションの仕事が入ってくるようになった。おかげでエルヴィス、シナトラ、ナット・キング・コール、サミー・デイヴィス、ディーン・マーティンなど、業界の大物達との仕事も入ってきた。ある年は、1年間だけで586本ものレコーディング・セッションをこなしたこともあった」(NME誌, 1970年)
5. 「セッション・ミュージシャン時代は確かに金を稼ぐことができたけれども、もっとやらなければならない自身の歌に集中する時間は妨げられた。問題は当時まだ自分自身に自信が持てていなかったことだ。私がバックを務めたスター達は私の名前すら知らなかった。私は列の後ろでただギターをつま弾いている奴でしかなかったんだ」(NME誌, 1970年)
アメリカ西部のクラブ巡業について
6. 「いくつかのクラブでは“毎晩踊って、大暴れ”って看板を出してたんだと思う。私はヒッチング・ポストというクラブで演奏していたのだが、昼間そこで働いていた従業員達が、夜に踊りに来たんだ。するとカウボーイが彼らにけしかける。すぐさま喧嘩が始まった。私はギターを持ってすぐに隠れた。ギターを守るためさ。もしも瓶が飛んできてギターに当たったりでもしたら修理出来なかったからね。私は自分のことなんかよりも、いつも真っ先にギターを守ることだけを考えていたよ」(ザ・ガーディアン紙 2000年)
7. 「自分が物心ついた頃から覚えていることと言ったら、食べて、息をして、歌って、ギターを弾くことだけだ。1週間だけガソリン・スタンドで働いたけど、タイヤの交換で危うく手を失うところだった。私はギターが弾きたいから辞めたんだ。だって指が潰れたんじゃギターが弾けなくなっちまう」(ザ・ガーディアン紙, 2000年)
フィル・スペクターとの仕事について
8. 「当然、彼は素晴らしいプロデューサーだった。彼のことをよく知るほどではなかったけど、彼は静かだった。彼の体重は125ポンド(約56キロ)もなかったじゃないかな。だけど、彼は基本的に喧嘩腰だったよ。ロニー&ザ・ロネッツ、ザ・クリスタルズ、ダーレン・ラヴ、ザ・ライチャス・ブラザースで彼と仕事したのを覚えている」(モジョ誌, 2003年)
ビーチ・ボーイズのツアーメンバーとして参加について
9. 「1965年のことだった。私はビーチ・ボーイズの全てのレコーディングに参加していたから、彼らの曲を全部把握していた。そこである日、ブライアン・ウィルソンが病気になってしまったので、代わりにダラスでの公演で弾いてくれないかという電話があった。私は快諾した。そこで私はダラスまで行った。ステージ上で200万回ほどのミスを連発したけど、17,000人の子供達が叫んでいたおかげで、誰も気づかなかったんだ」(NME誌, 1970年)
彼の新たなスターダムについて
10. 「私は父と母が住む、ディライト(アーカンソー州)に帰って、両親が外で薪割りをしなくて済むように、セントラル・ヒーティングのついた家を建ててやりたいんだ」(ニューヨーク・タイムス, 1968年)
11. 「ジミー・ウェッブは気のいい田舎もんだ。ジミーはとても深い理解力のある男で、私の知り合いの中で最もいい男の1人だ。彼は裏で駆け引きをするような奴じゃなくて、人を大事にするんだ。そして人と人との間に起こる出来事が彼にとっても彼の作品にとっても大事なんだ」(レコード・ミラー, 1969年)
彼の成功がどれほど人生を変えたかについて
12. 「家で、父や母、兄弟達とただおしゃべりしてるってことが出来ない。絶えず誰かが家にやってくる。例えば、イースターの日なんか、誰かが数えてたんだが127人もの人がうちに来た。昔は、私がたまに帰って来てもせいぜい数人の友人が顔を見にくるくらいだった。今じゃ、釣りに行ったってバレたら、4~5台のボートが池で追いかけてくる」(CBC, 1969年)
「Wichita Lineman」のレコーディングについて
13. 「初めて聞いたのはジミーの家だったけど、その日のうちにレコーディングに取り掛かった。私はあの音を確実に捉えるために、ジミーのオルガンを録った。あの切望するような、忘れられないメロディーをね」(モジョ誌, 2003年)
彼の最初のヒットがカントリー・ミュージックの音を変えたことについて
14. 「最近はカントリー・ミュージックにも変化が起こっている。荒削りではなくなってきているんだ。ロジャー・ミラーがカントリー・ミュージックの可能性を見せてくれたおかげで、もっとインパクトを持つようになったし、もっと自然で、ストーリーも誰もが共感できる内容なんだ。ピープル・ミュージックって呼んでいるよ。」(ニューヨーク・タイムズ、1968年)
妻、キムとの出会いについて
15. 「キムに出会ってから、世界が変わったよ。彼女は正直な人なんだ。私は不誠実だったことがあるから、言えた立場ではないけど。(彼女と出会う前に)座って神様に奥さんを送ってくれないかと祈ったんだ。どうもうまくいかなくてね。キムと結婚してから本当に幸せだよ」(スピン、2008年)
16. 「私は今、キリストの子供なんだよ。自分がどういう人間か、何を与えられてきたかを発見しているところだ。今の自分がここにいるのは、神様のおかげだ。そこまで私は賢くないし、頭が良くないからね」(700クラブ、1984年)
21世紀を迎える今のライヴ・オーディエンスについて
17. 「9才から90才までいると思うよ。両親を連れてくる人もいるし。10歳の時に私をテレビで見ていた人たちが今コンサートに来てくれている。もちろん「By the Time I Get to Phoenix(邦題:恋はフェニックス)」も「Wichita Lineman」も「Galveston」も演奏するよ、それを聴きに来てくれているからね。でも新しい曲もやるよ」(ニューヨーク・タイムズ、2000年)
アルツハイマー病という診断を下されて
18. 「自分では何も違いを感じていないから、何もわからないんだ。覚えてないことがあるのもいいんだ、だってどうせ記憶に残しておきたくないことなんだから」(サンフランシスコ・クロニクル、2011年)
19. 「昔の曲に新しい息を吹き込むのは難しいかって? いや、毎晩違うからね。シナトラとも仲良くなったけど、彼もそれをやろうとしていた。すべての曲が毎回ユニークなパフォーマンスなんだ。今でも「Gentle On My Mind」は大好きだし、「By The Time I Get To Phoenix」はホームシックな気分になる」(モジョ誌、2003年)
20. 「キャリアにおいて、私はとても幸運だった。人生を通してずっと、いつもいるべき場所にいるべきタイミングでいたと思う。運命が私を正しい扉に導いてくれていたかのようにね。」
Written by Paul Sexton