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【祝80歳】エリック・クラプトン、ギターの神様のキャリアをふりかえる

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Photo by Rob Verhorst/Redferns

2025年3月30日に80歳の誕生日を迎えたエリック・クラプトン(Eric Clapton)。4月14日から日本武道館にて全8回の来日公演が決定しているギターの神様の経歴を振り返えろう。

また、この来日公演を記念して4月9日には紙ジャケットCDの9タイトルと日本プレスのLP4タイトルが発売される

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「クラプトンは神」

1960年代半ば、ロンドンのあちこちに「クラプトンは神」という落書きが現れ始めた。エリック・クラプトンが祖父母に初めてギターを買ってもらったのは1959年のことだった。そのことを考えると、これは驚異的な出世だった。

クラプトンは50年近くスポットライトを浴び続けており、彼の芸術的な才能は複雑な姿を見せている。活動初期はギターの神様として注目を集めていたが、やがて優れた感性を持つソングライターとしての顔も見せるようになった。またブルースやジャズ、ロックやカントリー・ミュージックと言ったありとあらゆる音楽を巧みにこなす解釈者としての一面もある。彼の音楽は感情の全領域を駆け抜ける。そして多くの場合、彼の芸術は彼の人生を反映してきた。

 

キャリアのスタート

エリック・クラプトンは、ブルースの信奉者となった最初期の英国人ミュージシャンのひとりだ。若きクラプトンは子供向けのラジオ番組でソニー・テリーとブラウニー・マギーのレコードを聴き、それがきっかけとなってブルースに興味を持った。

「俺が初めて聴いたブルースはそのラジオ番組で流れていた。ソニー・テリーとブラウニー・マギーの曲で、ソニー・テリーが唸り声をあげながらハーモニカを吹いていた。あれには圧倒された。俺はまだ10歳か11歳だった」 (エリック・クラプトン)

クラプトンが最初に参加したのバンドは、ルースターズという名前で、メンバーの中には後にマンフレッド・マンに加わるトム・マクギネスもいた。クラプトンもマクギネスも、ケイシー・ジョーンズ&ジ・エンジニアーズに短期間参加している。その後クラプトンは1963年10月にヤードバーズに加入した。

ヤードバーズは、ザ・ローリング・ストーンズの後釜としてクローダディ・クラブの専属バンドとなった。その時期にクラプトンには「スローハンド」というニックネームがついている。この時期のクラプトンは、とても幸せだった。主にブルースを演奏するバンドで、満足いく収入を得ることができたからである。とはいえサニー・ボーイ・ウィリアムソンとツアーとレコーディングを行った後、ヤードバーズがよりチャート志向のポップス路線に進路を変えたため、クラプトンは幻滅し、脱退した (クラプトンは後任としてジミー・ペイジを推薦したが、そのペイジが参加を断ったため、結局ジェフ・ベックが代わりのギタリストとなった) 。

その後、一時期クラプトンは建築現場で働いていたが、ジョン・メイオールからバンドのメンバーにならないかと誘わる。こうして1965年4月、クラプトンはジョン・マクヴィーやヒューイー・フリントと共にブルースブレイカーズの一員となった。

1965年夏には一時的にバンドを離れ、ギリシャで暮らしていたが、1966年4月に復帰して『Blues Breakers with Eric Clapton』をレコーディングする。マイク・ヴァーノンがプロデュースしたこのアルバムでは、オーティス・ラッシュの「All Your Love」、モーズ・アリソンの「Parchman Farm」、リトル・ウォルターの「It Ain’t Right」と共にメイオールのオリジナル曲が演奏されていた。このころには「クラプトンは神」の時代が到来していた。

All Your Love

 

クリームの誕生

1966年初頭にはジャック・ブルースがメイオールといくつかのライヴで共演し、その少し後にはドラマーのジンジャー・ベイカーが飛び入り参加することもあった。やがてジンジャーとエリックのあいだでバンド結成の話が持ち上がり、エリックはジャックを加えるべきだと提案する。こうして1966年7月にクリームが結成された。「あれは、バディ・ガイ+リズム・セクションのようなバンドだった」とエリックは後に回想している。

クリームのデビュー作『Fresh Cream』では、ハウリン・ウルフによって有名になったウィリー・ディクソンの曲「Spoonful」をカヴァーしている。ここでは、初期クラプトンの典型的なギター演奏を聞くことができる。またこのアルバムにはロバート・ジョンソン、マディ・ウォーターズ、スキップ・ジェイムズのカヴァーも収められていた。クリームとクラプトンはブルース・ロックの歴史に自分たちの名前を刻み込んだのである。

Spoonful

続く『Disraeli Gears』はブルース色がやや薄くなっているが、それでも遠く離れたわけではない。アルバムの冒頭を飾る「Strange Brew」では、クラプトンがアルバート・キング風のスタイルで演奏している。

Strange Brew

次のアルバム『Wheels of Fire』は半分がスタジオ録音、残りの半分がライヴ録音だった。これはほぼブルース回帰のアルバムと言える内容で、ライヴ・パートのオープニング・ナンバーはロバート・ジョンソンの「Crossroads」だった。多くの人にとって、これはこの名曲の決定版となっている。またその他の人にとっては、これはブルースに初めて触れる入門曲だった。

Crossroads

クリームのアルバムは売れに売れ、収録曲も名曲揃いだった。その中には「Sunshine of Your Love」「I Feel Free」「White Room」といった巧みに作りあげられたオリジナル曲、さらには見事な形でリメイクされた戦前ブルースの古典的楽曲も含まれていた。

そうしたブルース曲の例としては、前述の「Spoonful」「Crossroads」、「I’m So Glad」「Rollin’ and Tumblin」「Outside Woman Blues」などがあげられる。とはいえエリックとクリームが愛したのは30年前のブルース曲だけではなかった。彼らはアルバート・キングの「Born Under A Bad Sign」もカヴァーしている。

しかし、1968年11月になると、クラプトンはクリームの活動に嫌気がさしていた。特に『ローリング・ストーン』誌から「使い古されたフレーズの達人」と批判されたことに内心苦しんでいたのだ。ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行われたクリームのさよならコンサートで前座を担当したのはイエスだった。新たなジャンル、プログレッシヴ・ロックの登場はすぐそこに迫っていた。

クリームの最後のアルバム『Goodbye』は1969年にリリースされ、これもまたライヴ音源と新たにレコーディングされたスタジオ録音の曲が組み合わせていた。グループ解散後にも、さらにライヴ盤『Live Cream』と『Live Cream II』が発表されている。

クリームは2年のあいだに3枚のアルバムをリリースして解散した。バンド内での対立 (ブルースとベイカーは性格面で反りが合わなかったが、お互いの演奏は非常に気に入っていた) によって生み出されたエネルギーはとてつもないレベルになり、以後に登場した他のパワー・トリオにはどうにも乗り越えられないほどの高みに達していた。

Sunshine Of Your Love (Live)

 

ソロ活動へ

そのころ既にクラプトンはジョージ・ハリスンの友人になっており、ビートルズの「While My Guitar Gently Weeps」でソロを弾いていた。その直後の1969年2月にはブラインド・フェイスを結成しているが、短命に終わった。他のメンバーは元トラフィックのスティーヴィー・ウィンウッド、ファミリーのリック・グレッチ、そしてジンジャー・ベイカーだった。

アメリカでのツアー中にデラニー&ボニー・ブラムレットに出会ったクラプトンは、より自然体のアプローチで音楽に取り組むべきだと考え、デラニー&ボニー&フレンズの一員としてツアーに出た。そのツアーのメンバーの中には、ハリスンやデイブ・メイソンもいた。

ブラインド・フェイスの活動中、クラプトンはレオン・ラッセル (デラニー&ボニーの仲間の1人) らとセッションを続けた。ラッセルと吹き込んだ曲の中には、「Sweet Home Chicago」やラッセル作の「Blues Power」が含まれていた。またクラプトンは、プラスティック・オノ・バンドの一員としてジョン・レノンとレコーディングし、さらにドクター・ジョン、ザ・クリケッツ、ジョージ・ハリスン、ジェシー・エド・デイヴィスとも録音セッションを行っている。

こうした活動の最中に、クラプトンは初のソロ・アルバム『Eric Clapton』を発表。このアルバムは1970年8月にリリースされ、基本的にはデラニー&ボニー・バンドをバックにして録音されていた。大半の曲はデラニー・ブラムレットとクラプトンの共作になっている。ただしシングル・カットされたのはJ.J.ケイルのカヴァー「After Midnight」だった。

After Midnight

 

「デレク・アンド・ザ・ドミノス」の誕生

ファースト・ソロ・アルバムを発表してからまもなく、クラプトンは再びスタジオに入った。デラニー&ボニー・バンドのボビー・ウィットロックと曲作りのセッションを重ねるうちに、それは「デレク・アンド・ザ・ドミノス」というライヴ・バンドに発展した。この名前は、華々しく注目されたくないというクラプトンの希望にぴったりだった。

1970年8~9月、彼はカール・ラドル (ベース) 、ボビー・ウィットロック (ドラムス&キーボード) 、ジム・ゴードン (ドラムス) とマイアミのスタジオに入り、レコーディングを行う。プロデューサーのトム・ダウドは、その当時オールマン・ブラザーズのセカンド・アルバムのミキシングを行っていた。その結果、デュアン・オールマンがアルバムの大部分に参加することになった。

オールマンの演奏の中でも特に印象的だったのは、アルバム・タイトル曲「Layla」のアウトロでのスライド・ギターだった。こうしてできたアルバム『Layla and Other Assorted Love Songs』は紛れもない名盤だったが、いきなりヒットしたわけではない。イギリスではチャートに入ることがなく、一方アメリカではトップ20に入るまで2年もかかった。その理由のひとつとして、「Layla」がラジオで人気を得るのに時間がかかったことが挙げられる。この曲は1971年にシングルとして発表されたが、チャートのトップに達したのは1972年のことだった。

【和訳】デレク・アンド・ドミノス – いとしのレイラ / Derek and the Dominos – Layla【三菱自動車 企業CM楽曲】

当初はLP2枚組で発表されたこのアルバムは、カヴァー曲とオリジナル曲で構成されていた。ここでもクラプトンのブルースへの愛情は健在で、ビッグ・ビル・ブルーンジーの「Key To The Highway」やビリー・マイルスが書いた「Have You Ever Loved A Woman」などのブルース・スタンダード曲が取り上げられていた。

またジミ・ヘンドリックスの「Little Wing」のカヴァーはトリビュートとして取り上げられたが、これが録音されたのはジミが亡くなるほんの数日前のこと。当時クラプトンは薬物中毒で苦しんでいたため、次のスタジオ・アルバムが録音されるまで4年もかかっている。とはいえ、ピート・タウンゼントの勧めで1973年にコンサートのステージに復帰した彼の演奏は、ライヴ・アルバム『Rainbow Concert』に記録されている。このライヴには、スティーヴ・ウィンウッド、リック・グレッチ、ジム・キャパルディ、ロニー・ウッド、タウンゼントを含むオールスター・バンドが参加していた。

Little Wing

 

本格的なソロ活動の開始

1974年に発表されたアルバム『461 Ocean Boulevard』は、実質的には初の本格的なソロ・アルバムと言っていいものに仕上がっており、ブルースからの脱却を図っていた。ここでカヴァーしたボブ・マーリーの「I Shot The Sheriff」によって、クラプトンは初めて全米チャート1位のシングルと全英チャート・トップ10入りという大ヒットを手にする。このシングルと同じように、アルバムのほうも全米チャート1位、全英チャート3位を記録し、その後のアルバムの基本路線となった。

I Shot The Sheriff

サウンドはより売れ線寄りになっているにもかかわらず、クラプトンは「Motherless Children」やロバート・ジョンソンの「Steady Rolling Man」といったブルースのカヴァーも取り上げている。また1974年のコンサートでは3曲のブルース・メドレーも演奏されており、その中にはエルモア・ジェームスの「The Sky In Crying」が含まれていた。

この「The Sky In Crying」は、エリックが次のアルバム『There’s One In Every Crowd』でスタジオ録音することになる。このアルバムはジャマイカでレコーディングされ、トラディショナル曲「Swing Low Sweet Chariot」のカヴァーがシングルとしてリリースされた。

The Sky Is Crying

4枚目のソロ・スタジオ・アルバム『No Reason To Cry』は、1976年にザ・バンドのスタジオでレコーディングされた。これにはザ・バンドのメンバー5人だけでなくボブ・ディランも参加しており、ディランが作った「Sign Language」では作者本人とクラプトンのデュエットも聞ける。同じ年の末、クラプトンとディランは、ザ・バンドのさよならコンサート『The Last Waltz』に出演。その映像は、マーティン・スコセッシによって映画化された。

売れ行きの面で不本意なアルバムが2枚ほど続いた後、1977年の『Slowhand』ではすべてがうまくいったように見えた。このアルバムは全米チャート1位こそ逃したが、クラプトンのアルバムとしては初めてマルチ・プラチナ・ディスクに認定され、ヒット・シングルも3枚出た。「Lay Down Sally」、「Wonderful Tonight」、そしてまたもやJ.J.ケイルの曲「Cocaine」である。

Cocaine

クラプトンはレーベルを移籍する前に、ポリドールでさらに2枚のスタジオ・アルバムをレコーディングしている。『Slowhand』に続いて発表された『Backless』では再びJ.J.ケイルの曲が取り上げられており、またディランがクラプトンのために書き下ろした曲も2曲録音。

1980年にリリースされた2枚組ライヴ・アルバム『Just One Night』は、アルバム『Backless』発表後に日本で録音された。これは1975年にリリースされたライヴ盤『E.C. Was Here』とはほとんどの点で異なっており、5年のあいだにどれだけのことが起こったかを物語っている。両者に共通する点は言うまでもなくブルースであり、クラプトンのライヴといえば長尺のブルース・インストゥルメンタルが欠かせない。そうした演奏では、彼が自らの原点を余すところなく披露していく。どうかお聴き逃しないように。

Tulsa Time (Live)

一方、1981年にリリースされた『Another Ticket』では方向性が大きく変化していた。バック・バンドは新しくなり (ギターのアルバート・リーやプロコル・ハルムのゲイリー・ブルッカーを含む) 、ほとんどの曲をクラプトン本人が作っている。それでもブルースを取り上げる余地はちゃんと残されていた。ここではマディ・ウォーターズの「Blow Wind Blow」とスリーピー・ジョン・エステスの「Floating Bridge」がカヴァーされている。

Blow Wind Blow

 

2013年、エリック・クラプトンの20枚目のスタジオ・アルバム『Old Sock』がリリースされた。これは、年を重ねるごとに良くなるものがあると聴く者に納得させる内容だった。クラプトンはここしばらくのあいだ、自分自身の音楽の道を歩んできたが、このアルバムはその確たる証拠となっていた。ここに収録されている12曲のうち、新曲はわずか2曲だけだ。あとは明らかに彼が大好きな曲ばかりであり、それらは独特なギター弾き語りというスタイルで仕上げられている。

近年ではクラプトンは『The Breeze: An Appreciation Of JJ Cale』をプロデュースしている。このトリビュート・アルバムではウィリー・ネルソン、トム・ペティ、マーク・ノップラーといった重要なミュージシャンたちが起用され、J.J.ケイルのカヴァーを録音している。また本国イギリスでは、『Slowhand At 70: Live At The Royal Albert Hall』がレコードからブルーレイまで、ありとあらゆるフォーマットでリリースされた。これは実質的に彼の大ヒット曲を並べたパッケージとして機能している。

さらに2016年には、グリン・ジョンズとプロデュースした『I Still Do』がリリース。これも素晴らしいアルバムで、ケイル、ボブ・ディラン、スキップ・ジェームス、リロイ・カーらの曲が取り上げられている。次の『Live in San Diego』はそれより前の2007年の録音で、ケイルが作った曲のいくつかには作者本人がゲスト参加している。そして2025年4月には海外アーティストで最多記録となる全110回の日本武道館を実施することが決まっている。

それでは最後にB.B.キングによるクラプトンへの賛辞でこの記事を結びたいと思う。

「彼は私にとってとてつもない友人だった。大好きだよ。偉大な男だ。まずエリック・クラプトンの話をしなければ、他の連中について語ることなんかできない」 (B.B.キング)

Written By uDiscover Team


エリック・クラプトン
来日記念:紙ジャケット9タイトル&日本プレス盤LP4タイトル
2025年4月9日発売
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