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エルトン・ジョンの発言20選:最もエンターテイニングで啓発的な名句
本日は非凡なシンガー・ソングライターであり2021年で74歳になった、サー・エルトン・ハーキュリーズ・ジョンことエルトン・ジョンを祝福しよう。1947年3月25日に誕生した彼は、スタジオ・レコードを32枚リリースし、2億枚のアルバム・セールスを記録。新たな音楽的挑戦を模索して実施しており、そのキャリアは今なお続いている。uDiscoverはこの場を借りて、賞賛の念を抱きながら、独自に選んだエルトン・ジョンの最もエンターテイニングで啓発的な名句20をお送りしよう。
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1. 「初めてディック・ジェイムスと契約を交わした時、バーニーと僕は音楽紙の広告を通して知り合ったばかりで、僕はロング・ジョン・ボールドリーのバック・バンド、ブルーソロジーを離れたばかりだった。僕はうんざりしていて、あまり良いオルガニストではなかった。まあとにかく彼等は、僕に歌わせてくれなくてね。僕は週10ポンドの報酬で雇われていたんだ。ユーロヴィジョン・ソング・コンテストで最後の6曲に残った時もあった。ある夜テレビを観るまでエントリーされていることすら知らなかったんだ。凄くゾッとしたよ。幸運なことに最下位だったけど。でも母さんは最下位の結果に凄く憤慨して、抗議の葉書を凄い枚数送っていたよ」(1970年)
2.「あまりにも多くの作曲家とバンド達が、全てをシリアスに考え過ぎている。もしお金の為にやっていたとしたら、駄作しか書けなかったり、音楽でお金を稼げなかったりした場合、自殺したくなったり、失意のどん底でウジウジしてしまうだろう」(1970年)
3.「オーケストラと共にステージに登場するちょこまかした男を、みんな想像しているんじゃないかな。僕がどんな風貌なのかまだあまり良く知られていないし、何を期待すべきか、みんな見当がついていない。ある意味、神秘的な雰囲気を持っているのかも知れない。‘ああ、エルトン・ジョンね…でもどんなルックスの人?’とみんな言うんだ」(1970年)
4.「今後バンド全体がもっと認知されていくと思う。もはやエルトン・ジョン・プラス・バッキング・ヴォーカルではなくなる。いいや、僕は自分ひとりでは絶対に出て行かなかっただろう。アメリカでは、ステージに上がって最初の1時間を誰もいない状態でひとりでやる時もある。しかしロックン・ロールをひとりでこなすのは難しいだろう。上手くいかないよ。そして精神的に上手く対抗できなかったと思う。僕は周囲に誰かがいないと駄目だし、成功を共に分かち合うことを大切にしている。自分で独り占めしていたら、終いには完全にイカれてしまうよ」(1972年)
5.(自身が設立したロケット・レコードの初期計画について)「基本的に、興味があるのは新たな才能だ。小さなバンドには僕のような人間が何千人もいる、いや、きっといるに違いない。僕が最初に唯一必要だったのは、励ましだった。もしみんながテープを持っているのなら、ぜひ我々宛てに送って欲しい。そうしたら僕達は必ず聴くから。心からそう思っている」(1973年)
6.「ベット・ミドラーが僕のニュー・アルバムを『Fat Reg From Pinner』と命名するべきだと言った。僕達は『Ol’ Pink Eyes Is Back』と呼びたかったんだけど、抵抗されてそれに対処しなければならなかった。と言うのも、バンドが気に入っていなくてさ。チャーリー・ワッツの妻が挙げたのがベストだった。彼女は『l’ Four Eyes Is Back』と命名したがっていた」(1974年)
7.(『Captain Fantastic And The Brown Dirt Cowboy(邦題:キャプテン・ファンタスティック)』について)
「昔は単純にバーニーの経験やファンタジーにメロディを書いていただけだった。このアルバムには、これまで作ってきた他のどの作品よりも物凄く親近感を持っている。僕にとってはずっとお気に入りのアルバムであり続けるだろう。しかしそれは完全に自分勝手な考え方だ。時の試練に耐えられるか、それは誰にも分からないだろう? 後になって分かることだ」(1975年)
8.(休業したことについて)「ある意味残念なことだ。バンドがちょうど油が乗り始めているのを実感している時だからね。ずっとやっていて、いまちょうど発展し始めた頃だったが、しばらく諦めなければならない。ちょうどバンドを変えた頃と同じように、これは本能的な感覚なんだ。そう、あの時も直感的なものだった。再び2年間ほどツアーしなければならないというプレッシャーを、僕はとにかく感じたくないんだ」(1976年)
9.「ツアーに対する希望と欲求は徐々に芽生えなければならない。昨年ツアーをしたんだけど、その時に初めて3年間ツアーした。素晴らしいショウを終えた後にステージを降りてから味わう達成感と、そして真の楽しみを取り戻したいだけなんだ。そしてそれは取り戻すのにしばらく掛かるものだ」(1980年)
10.「僕は人々に気に入って貰える曲が書けて、それが商業ベースで成功して凄く幸せだと思っている。例えば‘Bennie And The Jets(邦題:ベニーとジェッツ~やつらの演奏は最高)’。あれをリリースしたいと思ったことはなかったんだ。今日に至るまでシングル・ヒットだとは思っていない。でも恐らくは自分の最大のヒット・シングルだろうな」(1983年)
11.「1976年の終わり頃には、全てがあまりにも大きくなっていて、ピークに達しているのも分かっていて、トップにいる間に抜け出したかった。『Blue Moves』が出て、そしてあまり上手くいかなかった。そして僕はとにかく疲れ切っていた。自我はそこにいたがっていたが、僕はキャリア中で常に重大な決断をしてきた。直感に従ってきたんだ。そうしていなかったら、完全に参っていただろう。倒れるまで自分を酷使し、そうして辛辣でひねくれた人間になっていただろう」(1986年)
12.(個人の想い出の品物をオークションに出したことについて)「ウィンザーに豪邸を持っていて、‘もの’があった為に引っ越しが出来ないでいた。家というより、美術館か倉庫のような感じだった。しばらくすると息が詰まりそうになるものなんだよ。僕はしばらくエルトン・ジョンから逃避したかったんだ。想い出の品々の元へ帰ることなくさ」(1988年)
13.「僕はコカイン中毒だった。僕はアルコール中毒だった。僕は性依存症だった。僕は6年間過食症患者だった。体重に対して被害妄想的になっていて、でも食べるのを止められなかった。そうしてついには貪り食った後に、意図的に吐いていた。じっとしていることはなかった」(1992年)
14.「今では物事をちゃんと思い出すことが出来る! 精神的にも肉体的にも、人生は最高で、もっと早くやっていれば良かったと思うばかりだ。人生最大の変化だね。基本的に、何が起こっているか分かっていて、自分の行動により一層責任が持てて、愚か者のような振る舞いをしないで済んでいる。まあ今でも時々不快な問題が顕在化することもあるけど。ここ4年間は本当に素晴らしかった。本当に楽しかった」(1995年)
15.「コンサートに関して言えば、夏の間の8週間に色々な曲を70曲以上プレイした。でも、アーティストはそういうことをして、シャキッとしていられるんだよ。自分のバンドでもプレイしたし、ソロとしてもプレイしたし、オーケストラともやったし、それからラスべガスへ行った。ビリー・ジョエルとツアーすることだってやりたいと思えば出来る。さまざまな選択肢があるわけさ」(2004年)
16.(子供の頃について)「みんながやっていた社会に溶け込むことしか覚えていない。みんなの家に行って、ダンスしたり歌ったり。今では、そういうことはしていないだろう。だからロッド・スチュワートと凄く意気投合したんだ。彼と僕は同じ環境、つまりは歌を歌ったり、パブに行って楽しいひと時を過ごしたいと思っていて、子供達に何かを与える為に汗水流して働く人達の中で育ったからさ。今の子供達は自分達がどれだけ恵まれているか分かっていないと思う」(2011年)
17.(初期の頃について)「トランジット・ヴァンの後部座席に座り、ハイウェイを行ったり来たりしながら、そうやって生活費を稼いで場数を踏まなければならなかった。僕はマネージメント会社を持っているんだけど、契約を結ぶアーティストひとりひとりに、‘ライヴ・パフォーマンスが出来なければ、きみとは契約したくない。キャリアの始めには20人か30人の前でプレイしなければならない。それが長続きするキャリアを築く唯一の方法であり、ミュージシャンそして作曲家として上手くなる唯一の方法だから’と伝えている」(2013年)
18.「作詞家のバーニーがいることの大きなメリットは、彼が凄く映画的な作詞家だという点だ。物語が書かれた紙切れを彼から貰う。そうして僕はキーボードの前に座り、何かが生まれることを心から祈る。彼の伝える物語は僕の聴こえるものに影響するからね。その言葉に曲を付けるんだけど、とにかく何か出てくるんだ。それが何だか僕には分からない。キーボードの前に座っていると、とにかく何かが出て来るんだよ。ずっとずっと昔の1967年に、彼の初めての歌詞に僕が初めてのメロディを初めて書いた時と変わらず今も興奮する」(2013年)
19.「僕のキャリアは以前よりもずっと良い感じだ。人生のすべてが素敵だ。でも凄く嬉しく思っているのは、自分が15歳とか、あるいは5歳の時に持っていた音楽への情熱を、69歳近くになっても持っていることだ」(2015年)
20.(エルトンの子供達と、夫のデヴィッド・ファーニッシュと、仕事量について)「今は全て学校の休み次第なんだ。僕は凄い速さで70歳に向かっていて、デヴィッドと息子達に約束したんだけど、正直言って72歳で世界中を歩き回っていたくはないんだ。子供達から離れなければならないツアーはもうやりたくないんだ」(2016年)
By Paul Sexton
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