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70年代以降のモータウンとアーティスト達:60年代やデトロイトだけではないレーベルの作品と動向
以下のことを考えてほしい。
1. 1980年代、アメリカで2番目に大きなヒットを放ったシンガー2人は、モータウン・レコードによって発掘・育成された
2. 1990年代最大のヒット10曲のうち3曲を歌ったヴォーカル・グループは、モータウン・レコードによって発掘・育成された
3. 2014年夏、何百万ドルものコンサート・チケットを売り上げたパフォーマーは、モータウン・レコードによってスーパースターへと押し上げられた
つまり、ベリー・ゴーディのヒット工場ことモータウン・レコードは、1960年代のみの現象だったという考えは間違いである。
さあ、上記の統計を具体的に説明しておこう。Billboard誌によれば、ライオネル・リッチーとダイアナ・ロスが歌った「Endless Love」は、オリビア・ニュートン・ジョンの「Physical」に次いで1980年代のアメリカで人気を博した楽曲である。
フィラデルフィア出身のボーイズIIメンは「End Of The Road」「I’ll Make Love To You」、そして「One Sweet Day」(マライア・キャリーとの共演)を歌ったグループだ。3曲とも、1992年から1995年の間に大ヒットした。
そして、ライオネル・リッチーはいまだ観客を一晩中歌い、踊らせている。ライオネル・リッチーの現時点での最新アルバム『Tuskegee』は、ティム・マグロウ、ブレイク・シェルトン、ケニー・ロジャース、ウィリー・ネルソンといったカントリー界のスターと自身のモータウン・ヒットを歌うという趣旨で、世界中で数百万枚のセールスを記録している。
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カリフォルニアで育てられたジャクソン5
モータウンは遥か昔、1972年にデトロイトを去った(それ以降にデトロイトで起こったことを考えれば、この決断は幸いだっただろう。2013年、デトロイトは、地方自治体としてアメリカ史上最大規模の破綻を経験している)。
しかし、ダイアナ・ロス&シュープリームス、テンプテーションズ、フォー・トップス、マーヴィン・ゲイ、スモーキー・ロビンソン、スティーヴィー・ワンダー等のレジェンドと所縁の深いモータウン・レコードは、設立地のミシガン州デトロイトを離れた後もスターを育成する手腕を維持し、ポップ・ミュージックとポップ・カルチャーに多大な影響を与え続けている。
例えば、ベリー・ゴーディが青写真を描いたジャクソン5を語らずして、新たなボーイ・バンドについて考えることは、ほとんど不可能に近いだろう。今日に至るまで、『The X Factor』や『American Idol』の出場者は、ジャクソン5のモータウン・デビュー曲「I Want You Back(帰ってほしいの)」のB面に収録の「Who’s Loving You」を歌い、ジャクソン5のソウルと傷心を表現しようと努力するが、ジャクソン5と肩を並べられる者は今までにでていない。
ジャクソン5は、モータウンがカリフォルニアで育てた初のスーパースターだった。インディアナ州ゲイリー出身のジャクソン兄弟は、オーディションのためデトロイトに赴いたが、ベリー・ゴーディはロサンゼルスの別宅でオーディションのビデオテープを見て、レコーディングとトレーニングのためにジャクソン兄弟を西海岸へと移住させたのだ。
「I Want You Back」で演奏しているのは、モータウンを支えたスタジオミュージシャン集団のファンク・ブラザーズではなく、カリフォルニアのミュージシャン集団だ。その中には、ジャズ・クルセイダーズのジョー・サンプルとウィルトン・フェルダーもいた。ジャクソン兄弟が磨き上げられ、デビュー・シングルが準備されると、 ダイアナ・ロスが彼らを発掘したというデビュー神話がメディア向けに作り上げた(実際に彼らを発掘したのは、モータウンに所属したマイナー・グループでフロントマンを務めていたボビー・テイラーだ)。
1969年8月、ダイアナ・ロスはビバリーヒルズの垢抜けたクラブで行われたジャクソン5のデビュー・パーティでホストを務め、そして世界はジャクソン兄弟の足元にひれ伏すことになった。シングルは、デビューから4作連続で全米第1位を獲得したほか、 アルバムはデビューから3作連続で、それぞれ1年もの間チャートインしていた。
コモドアーズとライオネル・リッチー
コモドアーズは、デビューまでに少々時間がかかった。彼らのルーツはデトロイトから遠く離れた場所にあった。創立メンバーの大半は、ライオネル・リッチーの故郷であるアラバマ州タスキギーの大学で出会っており、彼らは1971年半ばにモータウンがカリフォルニアに設立した新レーベル、モーウェストと契約したのだ。それから3年間はファンクとソウルを融合した自らのサウンドに磨きをかけた。
この頃のラインナップはライオネル・リッチー 、トーマス・マクラリー、ミラン・ウィリアムズ、ロナルド・ラプリード、ウォルター・オレンジの5名。この修行時代、彼らはジャクソン 5の全米ツアーで前座を務め、フィリピン、日本などの海外でもショウを行った。1974年に初のモータウン・アルバム『Machine Gun』をリリースする頃には、コモドアーズは全盛期を迎える準備ができており、「Just To Be Close To You」「Easy」「Brick House」「Three Times A Lady」「Lady (You Bring Me Up)」等のヒットを量産した。
70年代が終わりを迎えようとする頃、ライオネル・リッチーのソングライティング・スキルが広く注目を浴びるようになり、ライオネル・リッチーはマネージャーのケン・クラーゲンの助力を得てソロとしてのキャリアをスタートする。そして、より大きな人気を得て、現在でもその人気は衰えていない。
モータウンはライオネル・リッチーのファースト・アルバム『Lionel Richie』とセカンド・アルバム『Can’t Slow Down』をアメリカだけで1,500万枚売り上げ、1984年に開催されたロサンゼルス・オリンピックの閉会式が世界で中継される中、代表曲「All Night Long (All Night)」を歌いあげた。また、USAフォー・アフリカの「We Are The World」をマイケル・ジャクソンと共作したことも、当時の彼にとって大きな功績となった。
ライオネル・リッチーを失った後も、コモドアーズはしばらくの間活動を続け、マーヴィン・ゲイ とジャッキー・ウィルソンに捧げた感動的なトリビュート・ソング「Nightshift」(1984年)で、ウォルター・オレンジと新メンバーのJ.D.ニコラスをリード・シンガーに起用。同曲はアメリカとヨーロッパで大ヒットを記録し、グラミー賞も獲得した。
リック・ジェームスの活躍と新人を見極めた感覚
ライオネル・リッチーはソロ・アーティストとしてスティーヴィー・ワンダーやマーヴィン・ゲイに並び、マス・マーケットでの成功を収めたが、80年代におけるパンク・ファンクの皇太子は間違いなくリック・ジェームスだ。
彼のセクシーでダーティなリズム&ブルースは、スモーキー・ロビンソンのクワイエット・ストームよりも、ジョージ・クリントンのトリック的手法に近かったが、それでも彼のセールスは幻影ではなかった。リック・ジェームスの『Street Songs』は80年代の決定的ファンク・アルバムだ(プリンスに議論を吹っかけることがなければ)。
また、彼は才能ある新人を見極める彼の感覚も同様に優れていた。ベリー・ゴーディは、新たに契約したティーナ・マリーのデビューを盛り立てるため、リック・ジェームスと引き合わせると、最高の化学変化が起こった。リック・ジェームスはティーナ・マリーのために「I’m A Sucker For Your Love」のソングライティングと共同プロデュースを手がけ、同曲は彼女にとって初のチャート・ヒットとなった。
また、さらに重要なことに、リック・ジェームスは彼女が「I Need Your Lovin’」や「Square Biz」等のヒットで、キャリアを自ら作り上げるだけのきっかけと自信を与えた。そしてティーナ・マリーは、ブルーアイド・ソウル・クイーンの称号を得たのだ。20世紀で最大の成功を収めた黒人所有の企業にふさわしい栄誉である(ティーナ・マリーは後に、訴訟を起こしてモータウンと決別するが、彼女の音楽は残った)。
一方、リック・ジェームスは、威勢のよいメリー・ジェーン・ガールズ(マイリー・サイラスが4人いるようなグループ)や、極めてグルーヴィーなストーン・シティ・バンド、自分と同郷(ニューヨーク州バッファロー)のジャズマン、ボビー・ミリテロ等、さまざまなアーティストをモータウンに投入した。
また、リック・ジェームスは1993年にリリースされたモータウンのアルバム『Love’s Alright』をコメディアンから歌手に転身したエディ・マーフィーのために共同プロデュース。なお、同アルバムには、マイケル・ジャクソンのデュエットも収録されている。
ファンクのアーティストたち
その他にも、モータウンはファンク・アーティストを発掘・育成した。オハイオ州クリーヴランド出身の8人組、ダズ・バンドは1982年の「Let It Whip」で観客に衝撃を与え、ベリー・ゴーディの西海岸チームにさらなるヒット曲/グラミー賞受賞曲を提供した。
また、女性アーティストの例は、 ハル・デイヴィスがテルマ・ヒューストンと魔法を起こし「Don’t Leave Me This Way」はグラミー賞を獲得したナンバーワン・ヒットとなった。ミシシッピ州で生まれ、カリフォルニア州ロングビーチで育ったテルマ・ヒューストンは、何でも歌いこなせる多彩な声を持っており、ジミー・ウェッブ、ローラ・ニーロ、クリス・クリストファーソン、ミック・ジャガーとキース・リチャーズ、サミー・カーン等のペンによる楽曲をレコーディングした。
テルマ・ヒューストンは当初、モーウェストと契約していた。なお、同レーベルと契約していたアーティストは、他にフランキー・ヴァリ&フォー・シーズンズ(ニュージャージー出身の彼らが歌った「The Night」は、英国チャートのトップ5ヒットとなった)、レスリー・ゴーア(ニュージャージー出身の女性シンガーで、同レーベルからアルバムをリリースしたが過小評価に終わった)、シリータ(スティーヴィー・ワンダーのミューズ/妻の一人)がいる。
より異色な才能を持っていたのは、プエルトリコと西インド諸島の血が流れるニューヨーク出身の女性タタ・ヴェガだ。彼女は、チャカ・カーンのように聞こえることもあれば、ミニー・リパートンにも聞こえた。彼女はR&B、ポップ、ゴスペル、それともファンクだったのだろうか? モータウンは、タタ・ヴェガで大きなヒットを出すことができなかった。しかし、2013年公開の映画『バックコーラスの歌姫たち』に記録されているように、それでも彼女はバックグラウンド・シンガーとして成功した。
モロッコ・レコードにも、同じく興味深いアーティストが在籍していた。これは、モータウンが1980年代半ばに運営していたロック・レーベルで、デトロイトに本拠を置いていたレア・アース・レコードと同様のレーベルだったが、ここから大きなヒットは生まれなかった。
モロッコ・レコードで目立ったアーティストは、コヨーテ・シスターズだ。同グループは、リア・カンケル(傑出したバックグラウンド・シンガー)、レネー・アーマンド(1981年に英国で首位を獲得したマイケル・ジャクソンの「One Day In Your Life」の共作者)、マーティ・グイン(女優/映画音楽のシンガー)で構成されていた。
鉄板のヴォーカル・グループ
しかし、どの時代においても、ヴォーカル・グループの存在なくして、モータウンはモータウンとは言えない。例えば80年代はデバージがメロディとハーモニーで多くのヒットを放っていた。ジャクソンズとも比較されることの多かったデバージは、ミシガン州グランドラピッズ出身の男性4人、女性1人からなる兄弟グループ(家族の総計は10人)だ。
中性的なリード・シンガーは、エルドラ(エル)・デバージ で、彼らは「Time Will Reveal」のR&Bバラッドで注目を浴びると、モータウン製作による映画『ラスト・ドラゴン』のサウンドトラックに収録された「Rhythm Of The Night」でクロスオーヴァー・ヒットを飛ばした。
なお、デバージの共同マネージャーは、コモドアーズと契約を結んだA&Rエグゼクティヴ、スザンヌ・デ・パッセ。彼女は後年、1983年の大きな話題をさらった画期的TV番組『Motown 25』で大きな役割を果たすこととなる(同番組は、2014年9月からDVDで販売されている)。
変わったものと変わらなかったもの
もちろん、モータウンが25周年を祝った時の音楽業界は、60年代のデトロイトとは大きく様変わりしており、特にカリフォルニアではその変化が顕著だった。モータウンの所属アーティストは、キャリア形成に際するあらゆる側面をインハウスのエキスパートに委ねてはいなかった。ロサンゼルスのサンセット・ブールヴァードにあるモータウン本社には、ミス・マキシン・パウエルのエチケット・スクールもなければ、ヴォードヴィルの巨匠、チョリー・アトキンスによるダンス・レッスンもなかった。
ただし、失われていなかったのは、真の才能に対するニーズだった。楽曲を見事に歌い上げ、観客を圧倒し、女性ファンを魅了する才能である。モータウンでは、アーティストが自ら曲を書ける場合はプラスとなったが、必須条件ではなかった。しかし幸いなことに、ブライアン・マックナイト(リック・ジェームスと同じく、彼もニューヨーク州バッファロー出身だ)は、自ら曲を書くことができた。
ジャクソン5 がモータウンからシングルをリリースし始めた年に生まれたブライアン・マックナイトは、マルチプレイヤーで、力強く柔軟なファルセットの持ち主でもあった。さらに彼は、ティーンエイジャーの頃から自身のデモを売り込む利口さも持ち合わせていた。
1988年、ブライアン・マックナイトはビリー・エクスタイン(スウィング時代の大物バンドリーダー/シンガーで、後年、ベリー・ゴーディのためにレコーディングも行った)の息子が主宰するレコード・レーベル、ウィング・レコードと契約を結ぶ。
ウィング・レコードでヒットを放ち、自身の地位を確立すると、ブライアン・マックナイトは1998年にモータウンへと移籍し、自身のキャリアで最大のヒットとなったアルバム『Back At One』をリリース。タイトル・トラックは、20世紀終盤の大ヒットとなった。
スティーヴィー・ワンダー ともしばしば比較されるスタイルを持つブライアン・マックナイトだが、14歳の頃に教会で自身のヒーローのスティーヴィーを見事に真似した際のエピソードを語る謙虚さを持っている。この時、ブライアン・マックナイトの母親は「今のは何?」と尋ね、さらにこう言ったそうだ。「スティーヴィー・ワンダーなら間に合ってるわよ!」と。
テンプテーションズもスティーヴィー・ワンダー同様、超一流のアーティストだった。しかし、それに怖気づくことなく、ネイザン・モリスとマーク・ネルソンは80年代後半、フィラデルフィアのパフォーミング・アーツ・スクールで、ワンヤ・モリス、ショーン・ストックマン、マイケル・マッケリーと男性ヴォーカル・グループを結成した。
ニュー・エディションのマイケル・ビヴンスの引き立てにより、ニュー・エディションの楽曲からグループ名を取ったボーイズIIメン(マーク・ネルソンは脱退)は、モータウンと契約を結び、1991年にレコード・デビューを果たした。
なお、彼らのデビュー・アルバムには、過去とのつながりがある。マイケル・ビヴンスがプロデュースしたボーイズIIメンのファースト・アルバムは、1975年の映画『クーリー・ハイ』にインスパイアされ、『Cooleyhighharmony』と名づけられたのだ。品質・人気ともに絶頂期の90年代ニュージャック・スウィング・サウンドである。そして、ボーイズIIメンは同アルバムの中で、前述の映画に使われていたモータウン・ソング「It’s So Hard To Say Goodbye」を見事なハーモニーでカヴァーしており、これは彼らにとって初のR&Bチャート・ナンバーワンとなった。
彼らはさらにヒットを飛ばし、ソウルの頂点へと上りつめるが、さらに重要なのが、これまた映画『ブーメラン』の楽曲で、全米シングル・チャートにおいて歴史的な偉業を成し遂げたことだ。その曲とは「End Of The Road」。この曲はL.A.リードとケニー・‘ベイビーフェイス’・エドモンズが共同でペンを取り、プロデュースを行った悲痛なバラードである。
1992年夏にリリースされた同曲は、ポップ・チャートにクロスオーヴァ―し、13週連続でナンバーワンを獲得。エルヴィス・プレスリーが「Don’t Be Cruel/Hound Dog」で36年間維持していた11週連続1位記録を破った。また、ボーイズIIメンによる13週連続ナンバーワンの記録は、モータウン内の最長ナンバーワン・ソング「Endless Love」の9週連続1位を4週間も上回った。まさに、クールでハイなハーモニーである。
さて、これをモータウン物語の第3章と呼ぼう。「End Of The Road」の成功後、ボーイズIIメンは、インディアナ州の兄弟グループが名声を得るまでの物語、1992年のTVミニシリーズ『The Jacksons: An American Dream』にカメオ出演した。
このTVドラマで、フィラデルフィア出身のボーイズIIメンは、街角のドゥワップ・グループを演じ、1956年にR&Bチャートで首位を獲得したファイヴ・サテンズの「In The Still Of The Nite」を歌っている。
1956年といえば、ベリー・ゴーディがジャッキー・ウィルソン向けに初のヒットを書く1年前。マイケル・ジャクソンが生まれる2年前。そして、ゴーディがモータウン・レコードを設立する3年前である。こうして因果は巡っていくのだ。
Written By Adam White
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