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ドクター・ドレーの経歴を振り返る:西海岸を代表する最高のヒップホップ・プロデューサー

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Photo: Christopher Polk/Getty Images for Coachella

西海岸を代表するヒップホップ・プロデューサーであり、ラッパー、そして実業家としても成功しているドクター・ドレー(Dr. Dre)が、2025年2月18日で60歳の誕生日を迎えた。

そんな節目を祝して彼のこれまでの音楽人生を振り返る記事を掲載。

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ラップの世界で最も有名な人物のひとりであるドクター・ドレーは、かつてはコンプトンのグループ「ワールド・クラス・レッキング・クルー」の一員としてハウスパーティーやクラブでパフォーマンスを行っていた。そしてそのころから現在まで、長い道のりを歩んできた。

ドレーはスヌープ・ドッグ、エミネム、50セント、そして最近ではケンドリック・ラマーなどをプロデュースしてスターの座に押し上げ、自らもこのジャンルで最も危険なグループ、N.W.A.の一員として爆発的な成功を収めてきた。世界中で何百万枚ものレコードを売り上げ、グラミー賞を7回に亘って受賞したドレーは、ギャングスタ・ラップのパイオニアとして尊敬を集めている。彼がトップの座に君臨しているのはいたって当然なのだ。

 

ルースレス・レコードとN.W.A

ドクター・ドレー (本名アンドレー・ロメル・ヤング) は、まさに存在そのものがヒップホップだ。コンプトン出身の彼はもともとはバスケットボールの伝説的選手、ジュリアス・”ドクターJ “・アーヴィングにちなんでドクターJという芸名を名乗っていた。しかし最終的にはその芸名と本名を組み合わせたドクター・ドレーという名に落ち着いた。

80年代初頭、ワールド・クラス・レッキング・クルーのDJとして活動を始めた彼は、1986年にアイス・キューブと出会う。それをきっかけに、地元の有名人から国際的なスーパースターへの道を歩み始めることになる。

キューブとドレーの二人は、地元の麻薬密売人エリック・”イージー・E”・ライトが設立したレーベル、ルースレス・レコードのために曲を作るようになる。やがてふたりはヒット曲「Boyz-N-The-Hood」を作り上げた。イージーも加わりN.W.A. (ニガーズ・ウィズ・アティテュード) というグループを結成した彼らは、ラップの世界を一変させることになる。

Boyz-N-The-Hood

アルバム『N.W.A. and The Posse』はほとんど注目されず、リスナーの支持を得られなかったが、その後キューブ、ドレー、イージーの3人に加えてMCレンとDJイェラも参加したN.W.A.は、1988年に独創的なアルバム『Straight Outta Compton』をリリース。このあからさまに暴力的なアルバムは、世界初のギャングスタ・ラップとは言えないものの、このジャンルで初めて広く人気を得た作品であることは間違いない。

そしてドレーはN.W.A.で次々とヒット曲を生み出した。その例としては「Express Yourself」や非常に物議を醸した「F**k Tha Police」などが挙げられ、彼のプロデュースの才能は疑いようのないものだった。

N.W.A. – Fuk Da Police

多くの成功を収めたN.W.A.だったが、メンバーの脱退によってグループ内の人間関係だけでなくドレーの心もかき乱されることになり、1989年にアイス・キューブがN.W.A.を脱退すると、ドレーは「100 Miles And Runnin」という曲の中で彼を非難したが、それからまもなく自分のやり方が間違っていたことに気がついた。

とあるインタビューで、彼はN.W.A.の舞台裏で胡散臭いビジネスが進んでいたことについて語り、「キューブが契約書にサインしなかったのは賢明だった」と述べている。対立するエゴと不公平なレコード契約を理由に、ドレーはまもなくレコード業界の大物になるシュグ・ナイトの助けを借りてN.W.A.とルースレス・レコードから離脱。ラップの新たな時代を切り開くことになった。

N.W.A. – 100 Miles And Runnin'

 

デス・ロウ時代とGファンク

1992年、ドレーはシュグ・ナイトとデス・ロウ・レコードを結成する。ボム・スクワッドのビートとジョージ・クリントンのファンクをコラージュしたドレーのサウンドによって、このレーベルはラップの最高峰へと上り詰めた。とはいえ、高く舞い上がったのは彼のビートだけではない。1992年春、ドレーは新たな仲間であるスヌープ・ドギー・ドッグとともに、印象的な初のソロ・シングル「Deep Cover」を発表。そのリリックの表現は一歩前進し、ギャングスタ・ラップの新たなサウンドであるGファンクの先駆けとなった。

Deep Cover

義理の兄弟であるラッパーのウォーレン・Gを通じてスヌープを見出したドレーは、このレイドバックしたファンク主導のリリシストとたちまち意気投合した。そうしてスヌープの傑作デビュー・アルバム『Doggystyle』 (1993年) をプロデュースする。両者は、創作活動において常に近しい存在だった。

スヌープはドクター・ドレー本人の見事なデビュー・アルバム『The Chronic』 (1992年) にも参加し、そのスタイリッシュな言葉遊びと独創性によって「Nuthin’ But A ‘G’ Thang」は世界的な大ヒット曲となった。現在でも友人であるドレーとスヌープは、ヒップホップの歴史に残る名コンビとしていつまでも評価されることだろう。

Dr Dre – Nuthin' But A "G" Thang [Official Music Video]

ドクター・ドレーの『The Chronic』は、N.W.A.の作品で聴かれた非道徳的で快楽主義的なテーマを引き続き扱い、ラップ・ミュージックにおける最高傑作のひとつとしてたびたび語られている。ラップというジャンルがエキサイティングだったこの時代、ドレーの傑作アルバムにはすべてが詰まっていた。銃撃戦の話題、ゲットーで暮らす若者たちの物語、そして何の必要もないのに登場するコミカルなフェラチオのエピソード。これはまるでストリート版の若者の聖典のようだった。

またこのアルバムではサンプリングが多用されていた。たとえばアルバムの目玉である「Fuck Wit Dre Day (And Everybody’s Celebratin’)」はイージー・EとN.W.Aのマネージャー、ジェリー・ヘラーをディスる曲だが、ここではジョージ・クリントンの「Atomic Dog」がサンプリングされている。こうしてこのアルバムは、次世代のラッパーたちのお膳立てをしていたのだ。

Dr. Dre – Fuck Wit Dre Day (And Everybody's Celebratin') [Official Music Video]

この時期、ラップ界で圧倒的な強さを誇っていたデス・ロウ・レコードは、他のレーベルの追随を許さないほど充実した顔ぶれを擁していた。ここに“収監”されていたアーティストは次のような面々である。

ザ・ドッグ・パウンド (ダズ&クラプト) 、ネイト・ドッグ、D.O.C.、DJ・クイック、レディ・オブ・レイジ、ミシェレー (ドレーと彼女は長年に亘って恋愛関係にあり、ドレーの三男を出産している) 、RBX、ダニー・ボーイ……。

さらにこのレーベルは、刑務所に入っていたラッパー、トゥパック・シャクールと契約を結ぶが、彼の波乱に満ちたライフスタイルがやがて悲惨な結果をもたらし、物議を醸すことになる。このデス・ロウの新しいスーパースターのために、ドレーはレコード数枚でプロデュースを担当した (「California Love」や「Can’t C Me」にはドレーも参加している) 。とはいえこの2人の仲が悪かったことは周知の事実だった。トゥパックはのちにリリースした「Toss It Up」の中で、ドレーを口汚く罵っている。

そうしてドレーは、シュグ・ナイトの強引な戦略に嫌気がさし、またトゥパックとの関係も不穏な状態にあったため、1996年夏にデス・ロウ・レコードを去った。彼が音楽面で貢献した結果、デス・ロウは劇的に成長。このレーベルが売り上げたレコードの枚数は約5,000万枚にまで達している。

そのように力を注いだレーベルにドレーは別れを告げたが、正直なところ、これは最高のタイミングだったと言える。デス・ロウの先行きは怪しくなっていたのである。スヌープ・ドッグは過酷な殺人裁判を経験し、自らを落ち着かせようと苦闘していた。またトゥパックはラスベガスで射殺されてしまった。シュグ・ナイトは仮釈放の条件を守らなかったとして収監された。こうして輝きを失いつつあるかつての本拠地を横目に見ながら、ドレーはまたもや別のレーベルを設立して活動を立て直した。

 

自らのレーベル、アフターマス

ドレーは、今度こそすべてを自分の思い通りにしようと考えた。そうして設立したアフターマス・レーベルは、彼にとって新たな時代の幕開けとなった。まずブラック・ストリートの1996年の大ヒット曲「No Diggity」をプロデュース (さらには簡単なヴァースを付け加えた) 。その後ドレーは、現在のように誰もが知る有名人になる。

Blackstreet – No Diggity (Official Music Video) ft. Dr. Dre, Queen Pen

1996年11月にリリースしたコンピレーション『Dr. Dre Presents… The Aftermath』は、新レーベルに所属するアーティストたちを紹介する最初のアルバムだった。これは商業的には過去の作品ほど成功しなかったものの、ドレーの一貫性はやがて吉と出る。

ザ・ファーム (ナス、ネイチャー、AZ、フォクシー・ブラウン) が1997年に発表したマフィオソ・ラップをテーマにしたデビュー・アルバムにもドレーは参加し、これはゴールド・ディスク止まりという期待外れの不発に終わった。しかしそれも大したことではなかった。なぜならドレー自身は、エミネムと一緒にプラチナの輝きを放とうとしていたからだ。

 

エミネムの発掘

長年に亘って多くのアーティストたちの面倒を見てきたドクター・ドレーは、才能を見抜く鋭い耳の持ち主でもあった。ときには見込み違いということもあったが (トゥルース・ハーツを覚えているだろうか?) 、彼が出会った素晴らしい若手白人ラッパー、エミネムは大当たりだった。

1999年、愉快なくらい不穏なメジャー・デビュー作『The Slim Shady LP』をリリースしたエミネムは、ドレーが共同で契約を結び、エグゼクティヴ・プロデューサーも担当し、彼が面倒を見ていた。そしてエミネムはビースティ・ボーイズ以来の本格派白人ラッパーとなり、多くのラッパーにとって夢でしかないような大成功を収めた。ドクター・ドレーはモンスターを生み出したといっても過言ではないであろう。

エミネムのリリックは時代を先取りしており、そのテーマはより広いファンを引きつけた。そのサウンドを支えるのは、ドレーの耳とこのジャンルを形作ったビートだ。デビュー以来、エミネムは世界中で1億枚以上のアルバムを売り上げている。

【和訳MV】Eminem – Without Me / エミネム – ウィズアウト・ミー

 

アルバム『2001』

エミネムの成功により、アフターマスはあっという間に「最先端のレーベル」となった。ドレーは、1999年11月に2作目のソロ・プロジェクト『2001』をリリースする。ここでは自らが生み出したGファンク・サウンドを最新型にアップデートしていたが、作品のフォーマット ―― つまりマリファナ、女、騒動 ―― は1992年の傑作デビュー作とさほど変わっていなかった。

このアルバム『2001』に収録され、エミネムをフィーチャーした「Forgot About Dre」のようなトラックは自らの個人的な成長からインスピレーションを得ている。これは、彼がまだ存在し、まだヒット曲を作り続けていることを知らしめる曲だった

Now all I get is hate mail all day saying Dre fell off
What, cause I been in the lab with a pen and a pad
trying to get this damn label off
今俺に届くのは、ドレーが落ち目だというヘイトメールばかりだ
バカ言うな、俺は自分の研究室でペンとメモ帳を持って
このレーベルを羽ばたかせようとしてるんだ

Eminem, Dr. Dre – Forgot About Dre (Explicit) (Official Music Video) ft. Hittman

このアルバムはアメリカだけで700万枚以上のアルバムを売り上げ、ドレーを嫌う者たちを墓場送りにした。ドレーはここでも創作面でのパートナーたちとの共同作業を続けており、従来からのダズ、クラプト、スヌープ、ネイト・ドッグだけでなく、エミネム、メル・マン、ヒットマン、イグジビットといった新しい顔ぶれも加わった。

『2001』は90年代の終わりと2000年代の始まりを決定づけたアルバムであり、その意味では他のどのアーティストのアルバムよりも象徴的な作品だった。桁外れのギャングスタ・ラップに不吉なストリングスとソウルフルなヴォーカルが加わることで、まさしくとてつもないアルバムが生まれたのである。

当時から現在に至るまでのあいだに、ドレーはヒップホップ界でとりわけ重要なアイコンのひとりとして認知されるようになった。そうした過程で噂されていたサード・アルバム『Detox』は、間違いなく過去10年間で最も待ち望まれていたヒップホップ・アルバムとなった。

その一方で、ドレーは50セントとケンドリック・ラマーをスーパースターにする余裕さえあった。そして今やヘッドフォンに関しては、「Beats By Dr. Dre」が音楽ファンのあいだでナンバーワンの人気を誇っている。ドレーは長年の友人でありインタースコープ・レーベルのトップでもあるジミー・アイオヴィンと共同でこのブランドを設立し、世界的な成功を収めた。

そうして、プロ・レベルのスタジオ品質のサウンドを消費者の耳に届けることに成功した。現在この会社は、数百万ドルの事業規模を持つところまで成長した。このこともまた、ドレーが音楽界で最も重要な耳を持っていることを証明している。

Written By uDiscover Team


ドクター・ドレー『The Chronic』
1992年12月15日発売
CD&LP / iTunes Store / Apple Music / Spotify / YouTube Music



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