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ブライアン・アダムス『Reckless』: 全米1位を記録したアリーナ級の名盤を振り返る
カナダ出身のシンガー・ソングライター、ブライアン・アダムス(Bryan Adams)は、25歳を迎えた時点で既に3作のアルバムを世に送り出しており、誕生日当日の1984年11月5日には、キャリアを決定付けることになる4枚目のアルバム『Reckless』をリリースした。
マルチ・プラチナに認定される大ヒットとなった同作でブライアンは、スプリングスティーンのような名人級の語り口と、スタジアムに合うスケールの大きいサウンドで労働者階級の精神を描き出してみせた。リスナーは、熱のこもったハスキー・ヴォイスで過去の失恋や夏の思い出を歌い上げる彼の等身大の歌声に魅了されたのである。
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スケールの大きなサウンドの追求
1981年のセカンド・アルバム『You Want It You Got It』が失敗に終わると、ブライアン・アダムスは続くサード・アルバムに『Bryan Adams Hasn’t Heard Of You Either (“ブライアン・アダムスだってきみのことなんて知らない”の意) 』というタイトルにしようと自虐的な冗談を言ったこともあったという。だが1983年に『Cuts Like A Knife』としてリリースされたそのアルバムは、アメリカだけで100万枚以上のセールスを上げた。
そうして成功を手にし、名声まであと一歩というところまでやってきたブライアンは、故郷であるカナダのバンクーバーに凱旋。レコーディングのため、これまでも手を組んできたプロデューサーのボブ・クリアマウンテンとともに、リトル・マウンテン・サウンド・スタジオに入った。しかし9曲の録音を終えたところで、ブライアンとクリアマウンテンは、同スタジオの環境が彼らの求めるスケールの大きなサウンドを得るには不向きであることを確信。
そこで『Reckless』の制作拠点は、ニューヨークのヘルズ・キッチンにあるパワー・ステーションへと移されることになった。そこは1970年代中盤から、ボブ・ディランやブルース・スプリングスティーン、マドンナ、デヴィッド・ボウイらの作品のレコーディングに使用されてきた有名スタジオだ。
今度はクリアマウンテンも『Reckless』の向かう方向性に満足していた。この時点でレコーディングを終えていた楽曲の中には、1983年に映画『ナイト・イン・ヘブン』のテーマ曲として録音されたバラード「Heaven」や「One Night Love Affair」、そして「Run To You」などが含まれていた。
このうち「Run To You」はもともと、ブルー・オイスター・カルトに提供するつもりで作曲したものの不採用に終わった作品で、結果的にはブライアン・アダムスのキャリアを代表するヒット曲になった。
「どこにロックがあるんだ?」
一方でブライアン・アダムス自身は『Reckless』にはまだ何かが足りないと感じていた。そこで彼はマネージャーのブルース・アレンをニューヨークに呼び、録音した曲を聴かせるとアレンは一言「どこにロックがあるんだ?」と疑問を呈した。
その翌日、ブライアンは飛行機でバンクーバーに移動。「One Night Love Affair」と「Summer Of ’69」をもっと熱量のある楽曲にすべく、共同作曲者であるジム・ヴァランスを呼び出した。そのとき、同時に新曲も完成。その1曲「Kids Wanna Rock」は、アレンの疑問に対するブライアンからの回答といえるナンバーだ。
夏の定番アンセムとして愛され続けている「Summer Of ’69」は、ヴァランスがボブ・シーガーの「Night Moves」に触発されて書いた1曲。彼はそこで、初恋や初めて組んだバンド、そのころの音楽など、自分の青春時代の思い出を表現した。そんな同曲はアメリカで大きな反響を呼び、同国でのブライアン・アダムスの知名度を高めたが、その人気は現在に至るまで衰えるどころか高まり続けている。
ラジオにぴったりの作品
ライヴ・パフォーマンスのエネルギーがそのまま詰まったアルバム作りを目指していたブライアンは、ラバー・ビスケットというスカ・バンドのドラマーだったパット・スチュワードを起用して「One Night Love Affair」「Summer Of ’69」「Kids Wanna Rock」の3曲を再録。彼とは、ブライアンがクラブで演奏したある晩にたまたま出会ったのだという。
このアルバムは“無謀”を意味する『Reckless』という題名ではあるが、蓋を開けてみればラジオにぴったりのキャッチーな作品だった。「Run To You」(米6位)に始まったシングルの全米トップ15入りの連続記録は、「Somebody」(米11位)、「Heaven」(米1位)、「Summer Of ’69」(米5位)、「One Night Love Affair」(米13位)、そしてティナ・ターナーとのデュエット曲「It’s Only Love」(米15位。この曲でブライアンはグラミー賞の最優秀ロック・パフォーマンス賞ヴォーカル入りデュオまたはグループ部門にノミネート) と続いた。これほどの成績でチャートを席巻した例は、ほかにマイケル・ジャクソンの『Thriller』とブルース・スプリングスティーンの『Born In The USA』しか存在しない。
それでも『Reckless』には、単なるヒット曲の寄せ集め以上の魅力がある。例えば、アルバムの冒頭を飾る「One Night Love Affair」や正統派のロック・チューン「Somebody」でブライアンは、メロディアスな楽曲にパワー・コードを組み合わせた。
また、大ヒット・シングルとなった「Run To You」も、ムード溢れるダークなリフから幕を開ける。ブライアン・アダムスが印象的なレザー・ジャケットに身を包んだ同曲のプロモーション・ビデオは、MTVでひっきりなしに流れ続けた。
ロックンロールの復活
シンセ・ポップが音楽シーンを牛耳っていた当時、『Reckless』は同じく労働者たちのヒーローであるブルース・スプリングスティーンやジョン・メレンキャンプ、ZZトップらの作品と並んで、ギターを中心に据えたロックンロールを全米チャートに蘇らせた。
1985年6月、「Heaven」は全米シングルチャートで首位を獲得。当時、ブライアン・アダムスは1984年12月にスタートし、1986年10月まで続いた世界ツアーの真っ只中だった。このツアー中の1985年には、同様にツアーでヨーロッパを回っていたティナ・ターナーとの共演も実現。これも助けとなって、海外でも『Reckless』の人気に火がついた。
ブライアン・アダムスはアリーナ・ロックの創始者でこそなかったが、『Reckless』でその道を極めたことには疑いがない。
Written By Ryan Healy
ブライアン・アダムス『Reckless』
1984年11月5日発売
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