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ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ『Kaya』解説:皮膚がん、政治問題、逮捕を乗り越えた名作
『Kaya』が1978年3月23日にリリースされた時、前作の『Exodus』はまだイギリスのチャートに入っていた。これは、当時のボブ・マーリーの絶大な人気を証明するだけでなく、ボブ・マーリーの素晴らしい労働倫理と、悪化する健康問題にかかわらず音楽を作り続ける能力の証でもある。
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皮膚がんの診断
ボブ・マーリーが1977年5月に『Exodus』ツアーの最終2公演をキャンセルした原因となった足の親指の負傷は、アクラル・メラノーマという悪性の皮膚がんであると診断された。ロンドンとマイアミの医師たちは、がんが転移しないよう、親指の切断を勧めたが、「肉を切ることに」関わるラスタファリアニズムの教義に反するため、ボブ・マーリーは親指切断の手術をためらった。
1977年7月、彼はマイアミにて切断の代わりとなる複雑な医療処置を受ける。親指のがん細胞が取り除かれ、患部には太腿の皮膚が移植された。最初に医師の勧めた親指切断なら、彼の命は助かったかもしれないが、残念ながらボブ・マーリーが受けた複雑な医療処置は、長期的にがんの進行を抑えることはできなかった。
母国の政治的緊張と《ワン・ラヴ・ピース・コンサート》
1978年4月22日、『Kaya』のワールド・ツアーが始まる1ヵ月前、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズは、キングストンのナショナル・スタジアムで行われた《ワン・ラヴ・ピース・コンサート》でメインアクトを務め、歴史的・政治的な偉業を成し遂げた。
ボブ・マーリーがジャマイカの地を踏んだのは、1976年12月、九死に一生を得た銃撃事件の2日後に行われた《スマイル・ジャマイカ・コンサート》以来のことだった。母国に戻った彼らだが、今回も緊張状態はほぼ変わらなかった。コンサート開催の主な理由は、マイケル・マンリー率いるジャマイカ人民国家党と、エドワード・シアガ率いるジャマイカ労働党との間の激しい政治闘争を鎮めるためだったのだ。彼らの政治闘争は議会を飛び出し、ストリートにまで広がっていた。
ボブ・マーリーが母国へ戻ることを承諾した決定的理由は、マイケル・マンリーとエドワード・シアガがロンドンにいる彼を訪ねてきたことだった。2人とも、ジャマイカの状況は大きく改善したと、ボブ・マーリーを説得したのだ。
ボブ・マーリーは公の場で宣言をしようと、コンサートが最高潮に達した「Jamming」のパフォーマンス中にマイケル・マンリーとエドワード・シアガをステージに上げると、2人を握手させた。握手は赦しと友愛のシンボルだ。マーリーの勇敢で理想主義的な行動は、ほんの一時的ではあれ、緊張状態を緩和した(それぞれ敵対する陣営に属していたフェスティバルの主催者2人は、2年以内にどちらも殺害された)。
平和勲章の授与
ボブ・マーリーは、人気のミュージシャンという地位から大きく成長し、貧しく疎外された世界の人々にインスピレーションを与える重要人物となった。《ワン・ラヴ・ピース・コンサート》から2ヵ月後の6月15日、彼はニューヨークの国連総会で第三世界平和勲章を授与された。ジャマイカの政情不安の中、正義と愛を求めて訴えたボブ・マーリーの勇気ある行動が認められ、同勲章はセネガルの青少年大使、モマドゥ・“ジョニー”・セカからボブ・マーリーに授与された。
ボブ・マーリーが母国ジャマイカを遥かに超えて、権利を剥奪された何百万人もの人々の指導者となり、事実上のスポークスパーソンとなったことは明らかだった。この傾向は特にアフリカで顕著だった。ボブ・マーリーは、1978年終盤にアフリカを初めて訪れている。彼はケニアと、ラスタファリアンの心のふるさと、エチオピアを訪れた。
前作『Exodus』との姉妹盤『Kaya』
『Kaya』は前作の『Exodus』と同様に、ボブ・マーリーがジャマイカから“亡命”していた間にロンドンでレコーディングされた。そして『Kaya』は、『Exodus』の姉妹盤と呼ばれることも多い。しかし、2つのアルバムの作風は、全く対照的だ。
黙示的、終末論的なヴィジョンと壮大な盛り上がりを有した『Exodus』に対し、『Kaya』の音楽的雰囲気は、より平和で調和のとれた精神状態を反映している。『Kaya』は“マリファナ”を意味するジャマイカのストリート・スラングで、アルバムのグルーヴから、軽くハイになった博愛精神の軽快なムードが漂ってくる。そしてこの雰囲気は、アルバムの裏ジャケットに描かれているガンジャの絵で強調されている。
アルバムの内容
ロンドン滞在中、ボブ・マーリーはマリファナの所持で逮捕・起訴された。1977年6月4日、彼はメリルボーン治安判事裁判所に出廷し、有罪判決を受けると、50ポンドの罰金を課された。ボブ・マーリーは『Kaya』でイギリスの警察当局に対し、雄弁に反撃した。警察の制裁を受けても、ボブ・マーリーはラスタの信仰では神聖な行為とされるマリファナの吸引を止めなかった。彼はアルバム『Kaya』の1曲目「Easy Shanking」でこう歌っている。
Excuse me while I light my spliff
Good God I gotta take a lift
マリファナ煙草に火をつけさせてくれ
ハイにならなければ
「Easy Shanking」はタイトルが示すとおり、リラックスした楽曲だ。タイトル・トラック「Kaya」も同様にリラックスした過去曲の新録だ。同曲の中で彼は陽気に「So high, I even touch the sky(すごくハイになってる、それにも手が届きそうだ)」と語っている。
満足気な雰囲気は、ザ・ウェイラーズの過去曲に贅沢なホーン・アレンジメントを加えた「Satisfy My Soul」でも続く。そして、マイナー・キーを使った陰鬱な雰囲気を持つ「Sun Is Shining」ですら、歌詞をわざと明るくし、楽天主義を加えている。
アルバムからの最大のヒット「Is This Love」は、普遍的なテーマをメロウに解釈した曲で、イギリスのチャートでは9位を記録した。当時あらゆる場所で流れ、モダン・ポップのスタンダードとなった曲としては、控えめなチャート・アクションである。
もうひとつのラヴ・ソング「She’s Gone」はおざなりな扱いを受けたが素晴らしい曲で、ボブ・マーリーの曲の中でも特に過小評価されている名曲だ。アルバムがB面を進むにつれ、暗雲がかかり始める。ミステリアスな「Misty Morning」、シンコペーションが激しい「Crisis」、さらに人間の存在について沈思する「Running Away」は、とどまることなく流れていく考えを語る荒く歪んだラップで終わるが、ボブ・マーリーの声は、普段のヴォーカルとはかけ離れている。
アルバムを締めくくる楽曲が、フォークをルーツにした陽気な「Time Will Tell」なのは珍しいが、リフレインの歌詞は「Think you’re in heaven but you’re living in hell.(君は天国にいると思っているが、本当は地獄にいるんだ)」と重苦しい。
『Kaya』はボブ・マーリーにとって英国のチャートで最高位を獲得したアルバムとなり(コンピレーション・アルバムを除く)、最高4位を記録した。当時の評論家の中には、ボブ・マーリーがハードコアな政治的信条を手放し、メインストリーム・マーケットに向けてよりソフトな情緒のあるアルバムを作ったと考える者もいた。しかし、アルバムのリリース時、ボブ・マーリーはホット・プレス誌にこう語っている。
「俺は政治が象徴するものが好きじゃないんだ」。そして、新しい曲の数々は、「特に何かが変化したワケじゃない。これは音楽だ。常に政治的ではいられないのさ」。また、古い曲を再レコーディングすることに関して、ボブ・マーリーはフランスのロック&フォーク誌にこう語っている。
「最初の時よりも、曲に対する理解が深まった気がする。最初は感じたままのインスピレーション。2回目は理解……曲は進化していくんだ」。彼がスカの時代に書いた「One Love」をリメイクしたことについては、「当時は音楽的に、こんなに良い曲だとは思っていなかった」と語っている。
Written By David Sinclair
ボブ・マーリー『Kaya』
1978年3月23日
CD&LP / iTunes Store / Apple Music / Spotify
ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ『Greatest Hits In Japan』
2020年10月28日発売
CD / iTunes / Apple Music / Spotify
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