Stories
【生誕100年】ジュディ・ガーランドのベスト・ソング:その生涯とエンターテイナーが残した名曲たち
「彼女は最高だった。ほかの歌手たちは、私自身を含め。みんな忘れ去られるだろうが、ジュディはいつまでも人々の記憶に残りつづけることだろう」
これはフランク・シナトラの言葉である。ここでの彼が述べていること、つまり「ジュディ・ガーランドが史上最高のエンターテイナーのひとりである」という主張に反論する人はほとんどいないだろう。
彼女は多芸多才な天才子役として映画界に登場し、34本のハリウッド映画に出演し、17歳でアカデミー賞を受賞している。それだけではない。ジュディ・ガーランドは、最高の表現力を持つその歌声で数々のヒット曲を生み出し、グラミー賞を3回受賞しているのである。そして、さらに優雅さと華麗さと正確さを兼ね備えた軽快なダンス・ステップで、ジーン・ケリーとフレッド・アステアというハリウッドの2大スターと一緒に踊ることさえできたのである。
才能という点では、ガーランドは十分すぎるくらいに恵まれていた。とはいえハリウッドの華やかさの裏には、傷つきやすく、深い悩みを抱えた魂が隠されていた。彼女はハリウッドの撮影所システムに育てられたスターだった。しかしその撮影所システムによって、取り返しのつかないダメージを受けた。幼い頃に受けたたくさんのトラウマが彼女の自尊心に深い傷跡を残し、その傷は亡くなるまで癒えることはなかった。
音楽面について言えば、ジュディがデッカでレコーディングした初期のレコードは、そのほとんどが幸福でのんびりした雰囲気に仕上がっており、彼女の苦悩を覆い隠していた。しかし、やがて彼女の私生活がそのサウンドにしみ込んでいくことになる。
1950年代から1960年代にかけてキャピトル・レコードでレコーディングされた曲にはあからさまといっていいくらい心痛と悲しみが刻み込まれており、そうした曲には深い自伝的要素が加わっていた。晩年の(特にステージ上での)パフォーマンスで披露されたか弱さと冷静さは、幅広い層にまで人気を広げた。
聴く側は彼女の痛みや傷つきやすさを感じてはいたが、その一方で彼女の英雄的な忍耐力に夢中になった。ジュディは内なる悪魔と戦いながら、「the show must go on(ショーは続けなければならない)」という古い格言に忠実であり続けたのである。
1936年から1963年にかけて、ジュディ・ガーランドの才能は灯台の光のように輝いた。この豊饒な時代に発表された作品の中から、今回は彼女の比類のない天才的な才能を凝縮したベスト・ソングを選び出した。
<関連記事>
・ジュディ・ガーランドはなぜゲイの人々から支持されたのか?
・“エンターテイメントの歴史で最も素晴らしい夜”『Judy At Carnegie Hall』
スター誕生
ジュディ・ガーランド(本名フランシス・ガム)は1922年、ミネソタ州グランドラピッズで三人姉妹の末っ子として生まれた。両親はボードヴィル芸人であり、映画館も経営していた。
歌と踊りに対する両親の情熱を受け継いだ幼いフランシスは2歳で舞台に立ち、やがて2人の姉と共にガム・シスターズという姉妹トリオの一員となった。1934年、フランシスが12歳のときに、このトリオはガーランド・シスターズと改名した。その1年後(このころになるとフランシスはジュディ・ガーランドという芸名を名乗っていた )、三姉妹はロサンゼルスでステージに立った。そこでジュディはスカウトに見初められ、映画スタジオMGMのオーディションに合格する。
MGMがジュディ・ガーランドの思春期の才能を生かす最善の方法を検討している間に、デッカ・レコードが1936年から彼女のレコードをリリースし始めた。ジュディの3枚目のシングル「(Dear Mr. Gable) You Made Me Love You」はアル・ジョルソンの1913年の曲「You Made Me Love You (I Didn’t Want To Do It) 」のカヴァー・ヴァージョンだ。
彼女がこの曲を初めて歌ったのは、36歳を迎えた映画スター、クラーク・ゲーブルの誕生日パーティーでのことだった。このパーティーを主催したMGMはジュディのパフォーマンスを高く評価し、映画『踊る不夜城』で彼女にこの曲を歌わせることにした。
彼女は15歳という若さにもかかわらず、年齢以上に成熟した深みのある表現でこの曲を歌い上げた。この曲はジュディの映画界でのキャリアを後押しし、さらにはポップ・チャートにもランクインすることになった。とはいえ彼女の代名詞ともなった曲は、その2年後に発表されている。
映画『オズの魔法使』にドロシー・ゲイル役で出演した彼女は、ハロルド・アーレン&イップ・ハーバーグが共作した夢のようなバラード「Somewhere Over The Rainbow (虹の彼方に)」を歌った。これはアメリカのポップ・チャートのトップを飾り、ジュディはアカデミー賞も受賞した。
1940年代のジュディ・ガーランド
1940年代には、ジュディ・ガーランドの映画からヒット曲がさらに生まれ続けた。その例としては、ミッキー・ルーニーと共演した1940年の『アンディ・ハーディ・ミーツ・デビュタント』の挿入歌「I’m Nobody’s Baby」や、ジーン・ケリーとのデュエットであり1943年の『フォー・ミー・アンド・マイ・ギャル』の主題歌などが挙げられる。
さらにはクリスマスがテーマとなった1944年の映画『若草の頃』の「The Trolley Song (電車のうた)」も大ヒットし、アメリのヒット・チャートのトップ20圏内に入っている。この映画の監督を務めたヴィンセント・ミネリは、ガーランドの2番目の夫となった。
この映画では、ヒュー・マーティン&ラルフ・ブレインの共作曲「Have Yourself A Merry Little Christmas」も初めてレコーディングされた。ジュディが魅力的なレコードを吹き込んだおかげもあり、この曲はポップス/ジャズのスタンダード曲になっている。
1945年には、ミュージカル映画『ハーヴェイ・ガールズ』の挿入歌で鉄道をテーマにした「On The Atchison, Topeka & The Santa Fe」が全米トップ20にランクイン。デッカからリリースされたシングルでは、ジュリーの歌声をザ・メリー・マックスの豪華なハーモニーが飾っている。
キャリア後期のミュージカル作品
1950年、28歳のジュディ・ガーランドは、代表曲のひとつである爽やかなビッグ・バンド曲「Get Happy」を録音した。この曲は、ある農場にやってきた劇団を描いたジーン・ケリーとの共演作『サマー・ストック』のフィナーレだった。このハロルド・アーレン&テッド・コーラーが共作した名曲は、ジュディが最初に吹き込んだわけではなかったが、これはその後、彼女のライヴの定番曲となった。
『サマー・ストック』はジュディのキャリアにとって大きな分岐点となった。MGMでの映画出演がこれで最後になったのである。MGMで撮影した映画の作品数は27本にのぼった。
その後の彼女は歌手としてのキャリアを築き上げ、1950年代前半にコロンビアでシングルを何枚も録音した。1954年、彼女はワーナー・ブラザースのミュージカル『スタア誕生』にイギリス人俳優のジェームズ・メイソンと共に出演することになった。これは過去の映画のリメイク作品で、物語は落ち目になった名歌手の助けによって新たに誕生するスターを描いていたものだ。
そしてこの映画は、ジュディのカムバック作となった。彼女はパフォーマーとしての人生を鮮やかに描いた「Born In A Trunk」や、ジャズのテイストを取り入れた情感豊かな曲「The Man That Got Away」などを歌って、ひときわ輝きを放った。そうしたパフォーマンスは、ジュディの歌手としての成熟ぶりを際立たせていた。彼女は、これらの曲をまるで自分自身の物語のように歌い上げていた。
ジュディが最後に出演した映画は、1963年の『愛と歌の日々』。彼女は、プライベートな問題に悩む孤独なコンサート歌手を演じた。これは、彼女が自らを投影できるような役柄だった。この映画の主題歌は、名曲「Somewhere Over The Rainbow」を作ったハロルド・アーレン&イップ・ハーバーグの共作曲であり、この曲は静かに始まり、やがて高らかに歌い上げるパートへと盛り上がっていく。ユーモアとペーソスを織り交ぜたこの曲で、ジュディはその歌唱力を遺憾なく発揮することができた。
キャピトル在籍期
1950年代以降のジュディ・ガーランドはあまり映画に出演していないが、そんな時期も歌手としての活動は順調に続いていた。コロンビアから離れた後はキャピトルに移籍してさらなる成功を収め、1955年から1962年にかけては7枚のスタジオ・アルバムを制作している。
キャピトルで吹き込んだ最初のアルバム『Miss Show Business』はジャック・キャスカートが編曲を手がけた。彼女が主役となった初めてのテレビ特番と同時期に発売されたこのアルバムは、まさにタイトル通りの内容だった。ここでのジュディは、コンサートでの定番曲「Rock-a-Bye Your Baby With a Dixie Melody」や「After You’ve Gone」を見事に歌い上げている。
キャピトルでの2枚目のアルバム『Judy』(1956年) では、フランク・シナトラのアレンジャーだったネルソン・リドルが編曲を担当。彼は、ジュディの堂々とした歌声を洗練されたジャズ風のアレンジで支えている。
特に素晴らしい出来栄えとなったのは、アルバム冒頭に収録され、ハロルド・アーレン&ジョニー・マーサーの共作曲だったダイナミックでアップテンポなラテン・ナンバー「Come Rain Or Come Shine (降っても晴れても)」だ。
ドルは、1958年のアルバム『Judy In Love』でも再び魔法のようなオーケストラの指揮棒を操っている。1943年にジュリーがヒットさせた曲のセルフ・カヴァー「Zing! Went The Strings Of My Heart」や「I Concentrate On You」といった曲はスウィングするビッグ・バンド・アレンジになっており、これらの曲ではホーンが鳴り響くラテン風のせわしない曲調に乗ってジュリーが高らかに歌い上げている。
ボードヴィル芸人の一家で育ったおかげで、ジュディはいかにもハリウッド風の華やかな楽曲をやすやすと表現することができた。とはいえ、彼女が自らの心の中を露わにするのは、胸を締め付けるようなバラードでのことだった。
こうした曲では、彼女はより繊細でニュアンスに富んだアプローチを採用している。1957年のLP『Alone』は喪失感、心の傷、孤独感を歌ったバラード曲集となった。ここでの彼女は、アーヴィング・バーリンの「How About Me」を美しくほろ苦く歌い上げている。
興奮に満ちたライヴ・パフォーマンス
ジュディ・ガーランドは優れたスタジオ録音をたくさん吹き込んでいたが、彼女のライヴ・アルバムを聴くと、その興奮に満ちたドラマチックなステージを鮮やかな形で追体験できる。
最初のライヴ・アルバムである1959年の『Judy Garland At The Grove』には彼女のステージが見事に記録されており、特に「When You’re Smiling」のカヴァーは印象的だ。
さらにその上を行くのが、彼女の最も有名なライヴ盤『Judy At Carnegie Hall』である。1962年にリリースされたこの2枚組LPでは主としてグレート・アメリカン・ソングブックのスタンダード曲が取り上げられていた。
このアルバムによって、ジュディはグラミー賞の最優秀アルバム賞と最優秀女性歌唱賞の2部門を受賞している。ここでの彼女は、その気品ある歌に時折ユーモラスな語りを交えながら魅惑的なパフォーマンスを披露していた。
音楽的なハイライトとしては、リズミカルなエネルギーと興奮に満ちた「That’s Entertainment」や、微妙なニュアンスたっぷりのヴォーカルで官能的な側面を見せるソフト・バラード「Do It Again」などが挙げられる。
ジュディ・ガーランドは若くしてこの世を去ったが、印象的な映画やレコードをたくさん残した。そうした作品のおかげで、彼女は不滅の地位を獲得し、その偉業はしっかりと歴史に刻み込まれている。
今回紹介したジュディ・ガーランドの歌は、彼女がどれほど自らのパフォーマンスに心を込めていたのかを教えてくれる。さらに言えば、彼女が本物の自分以外の何者にもなろうとしなかったことも教えてくれる。「誰かの二番煎じになるのではなく、常に最高の自分になること」。このような有名な言葉をかつてジュディは口にしていた。そして彼女は、最後までそのモットーに忠実だった。
Written By Charles Waring
ジュディ・ガーランド『Judy At Carnegie Hall』
2020年3月4日に初日本国内盤が登場
国内盤CD / iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music
- ジュディ・ガーランド アーティスト・ページ
- “エンターテイメントの歴史で最も素晴らしい夜”『Judy At Carnegie Hall』
- ジュディ・ガーランドの伝記映画『ジュディ 虹の彼方に』サントラ
- ジュディ・ガーランドが74年振りにBillboard TOP10入り
- LGBTQに愛された15人のパイオニア
- ハリウッド史上最高の映画挿入歌50選
- レディー・ガガ主演の映画『アリー/スター誕生』予告編公開
- メロディ・ガルドー初のフルライヴ盤『Live In Europe』