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アポロ・シアターの歴史:時代を代表する黒人スターを発掘してきた米ポピュラー音楽の殿堂
スモーキー・ロビンソンは、1959年にデトロイトからハーレムの伝説的なアポロ・シアターで演奏するために彼のバンドと初めて旅した時のことを忘れられないでいる。
「黒人ミュージシャンにとって最も偉大な場所であるアポロに着くと、壁には画が描かれていて、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、ハリー・ベラフォンテ、ジャッキー・ウィルソンなど、素晴らしいアーティストが描かれていたんだ。私は隣にいたミラクルズを見て、“いつかあの壁画の中に入りたいな”って言ったんだ」
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作られた当初
エミー賞受賞者で、この会場に関するドキュメンタリー映画を監督したロジャー・ロス・ウィリアムズはこう述べている。
「アポロ・シアターの物語とは、アメリカ黒人のアイデンティティ進化の物語であり、それらがどのように現代を代表する文化的ムーブメントに成長していったかの物語なんです」
その最盛期ではアポロ・シアターではベッシー・スミスやビリー・ホリデイといった巨匠が演奏したステージでアル・グリーンの曲を歌ったこともあり、21世紀にはバラク・オバマが大統領選挙で立ち寄る場所として選んでいる。しかし、アポロ・シアターがバーレスク劇場としてスタートした当初は、白人の出演者と観客だけに限定されていた。
アポロ・シアターはジョージ・キースターによって設計され、1913年にジュール・ハーティグとハリー・シーモンによって「ザ・ニュー・バーレスク・シアター」としてオープンし、その後、125th Street Theatreと改名された。1932年、ニューヨーク市長によってバーレスクが禁止された年に、シドニー・S・コーエンがこの劇場を購入してから、アポロはその決定的な雰囲気を持つようになった。
コーエンは、ギリシャ神話の音楽の神の名前を会場名に採用することに決め、1934年1月26日、アポロ・シアターとして正式に再オープンした。初日の夜は、テディ・ウィルソンを含むベニー・カーター&ヒズ・オーケストラがヘッドライナーを務めるジャズ・アラカルト・ショーが行われた。
時代を代表するスターを発掘
アポロ・シアターは、コメディアン、ダンサー、シンガーたちがこぞって出演し、ニューヨーク・ハーレムにおける演劇やエンターテイメントのプレミアショーケースの場となった。1930年代には、ルイ・アームストロング、ベッシー・スミス、ビリー・ホリデイ、レナ・ホーン、デューク・エリントンなど、当時のジャズ界の大スターたちがアポロに出演している。
この時代の革新的な出来事といえば、無名の演奏家にチャンスを与える「アマチュア・ナイト」の開催である。1934年11月21日、17歳のエラ・フィッツジェラルドは、この歌唱コンテストで優勝し、25ドルの賞金を手にした。その時の司会者がタレント・スカウトのバルドゥ・アリで、彼はエラをバンドリーダーのチック・ウェッブに推薦し、そのまま彼女は止まることなく成功の道を歩み始めることになる。それから30年後、22歳のギタリスト、ジミ・ヘンドリックスが、同じアマチュア・ナイト・コンテストで優勝を果たしている。
アポロ・シアターが兵隊のために毎日35枚のチケットを確保していた1940年代、ダイナ・ワシントンやサミー・デイヴィス・ジュニアがハーレムデビューを果たし、サラ・ヴォーンもアマチュア・ナイトの優勝者として有名となった。アポロ・シアターに出演していた白人コメディアンたちが黒塗りメイクをやめたのもこの頃だ。
ジェームス・ブラウン第二の故郷
俳優シドニー・ポワチエが出演した『The Detective Story』が舞台で上演されるようになった50年代の大きな革新は、『Showtime At The Apollo』の導入であった。これは、1955年に初めて放送されたもので、スタジオの「生」の聴衆の前でテープに録音されたショーが放送された。出演者は、ビッグ・ジョー・ターナーやカウント・ベイシー・オーケストラなど。この番組の司会はウィリー・ブライアントで、この会場から発信された番組は将来のリアリティ番組への土台を築いた。
1950年代には、ジェームス・ブラウン、ディオンヌ・ワーウィック、ジョー・テックスなどが「アマチュア・ナイト」の勝者となった。ソウルのゴッドファーザーであるジェームス・ブラウンは、アポロ・シアターにて200回以上の公演を行い、このステージはシンガーにとって第二の故郷のような存在となった。
1962年に録音され、翌年発売された『Live At The Apollo』は、彼のキャリアを決定づけ、スーパースターとしての地位を確立するきっかけとなった。彼の死後、その遺体は、葬儀の前にアポロに安置されている。
2018年にU2がアポロ・シアターでギグを行った際、ボノはこの会場をニューヨークでの音楽の魂の中心地と表現し、次のような発言をしている。
「ジェームス・ブラウンが“Please, Please, Please”と懇願した同じステージで、ついに僕らの曲を演奏できるなんて、死ぬまでにしたいことが叶った瞬間というだけでなく、信じられないほどの名誉だよ」
ジェームス・ブラウンがアポロ・シアターでライヴ・アルバムを録音した年、アポロではモータウンのパッケージ・コンサートであったモータータウン・レヴューがデビューし、シュープリームス、マーヴィン・ゲイ、テンプテーションズ、フォー・トップス、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、コモドアーズ、リトル・スティーヴィー・ワンダーらが出演していた。
また、1960年代にはソウルナイトやブルースナイトも開催され、B.B.キング、T-ボーン・ウォーカー、ジミー・ウィザースプーンなどがアポロ・シアターで演奏していた。B.B.キングは1990年にこの会場を再訪し、レイ・ブラウンをベースに迎えてグラミー賞を受賞したライヴ・アルバムを発売『Live at the Apollo』している。
「アーティストの真の実力を証明する場」
アポロは、新人にとって手ごわい舞台だった。アマチュア・ナイトにゴスペライアーズというグループのメンバーとして出演したディオンヌ・ワーウィックは、「アーティストにとって真の試練の場」と表現している。ミュージシャンにとって客席からブーイングする観客たちの評判はとても恐ろしく、スモーキー・ロビンソンも「多くのアーティストたちが観客を怖がっていた」と述べている。
1950年代から60年代にかけて、アポロ・シアターは黒人パフォーマーたちの天国だった。アポロ・シアター財団の現最高責任者であるジョネル・プロコープはこう語る。
「彼らがそこに出演したのは、他に行く場所がなかったからです。彼らは、メインストリームのシアターには入ることを許されなかったのです。アポロのステージに立った時の彼らは伝説ではなかった。私はアポロ・シアターを“チャンスの場”と呼んでいるんです。アポロのステージに出演した後、彼らは伝説になっていったのですから」
アポロ・シアターはまた、白人ミュージシャンたちが実力を試したいと思う場所にもなった。エルビス・プレスリーはテレビ出演のために何度もニューヨークを訪れ、ザ・ビートルズは最初のアメリカ・ツアーで立ち寄っている。ポール・マッカートニーは、この場所を音楽界の「聖杯のすべて」とも呼ぶほどだ。
1960年代から70年代にかけて、多くのアフリカ系アメリカ人アーティストがアポロのコンサートで知られるようになった。1961年に行われたアレサ・フランクリンのコンサートの看板には、「彼女のホーム(She’s Home)」とだけ書かれてた。メンフィスで生まれ、デトロイトに住んでいたアレサにとって、125丁目にあるこの雰囲気のある場所が一番落ち着く場所だったのだ。
しかし1970年代半ばになると、アポロはライバルのナイトクラブの台頭の影響や、犯罪の多発とドラッグの蔓延など様々な影響を受けて経営が下降し始め、深刻な財政難に陥っていった。その影響を受け、新しいオーナーのボビー・シフマンは、1976年1月、やむなく会場を閉鎖。1978年に一時的に再開したものの(このタイミングでボブ・マーリーが出演している)、会場の復活のきっかけとなったのは、80年代初頭に個人投資家に買収された時だった。
アポロ・シアターの復活
1985年5月5日、建物の改修を祝して50周年記念のグランド・リニューアル・オープンとテレビ特番『Motown Returns To The Apollo』が放映され、スティーヴィー・ワンダー、スモーキー・ロビンソン、リトル・リチャード、ダイアナ・ロス、ウィルソン・ピケットらが出演し、ロッド・スチュワート、ジョージ・マイケル、アル・グリーンもゲストとして登場した。その年のクリスマス・イブには、「アマチュア・ナイト」も再開された。
1991年、ニューヨーク州がアポロ・シアターの権利を買収し、会場運営のために組織された非営利財団に年間1ドルの費用で99年間リースをしたことで、アポロ・シアターの将来はより盤石となった。非営利団体が運営を行うことになったことで、アポロ・シアターは、教育や地域社会の支援にも力を注ぐことができるようにもなった。
「アポロのような場所は地球上にない」とトニー・ベネットが言ったように、この会場の未来は明るいようだ。1,500席のメインホールは今でも頻繁に満員になっており、2023年1月には最も人気のラッパーであるドレイクもコンサートを行っている。
また、2020年、アポロ・シアターは1934年以来初めてスペースを拡張し、隣接するヴィクトリア・シアターの再開発の一環として、99席と199席の2つの新しいコンサートホールをオープンさせた。アポロのエグゼクティブ・プロデューサーであるカミラ・フォーブスは、このような小さなスペースによって、「キャリア初期段階にあるアーティストをサポートできる」ことが拡大の理由の1つだと言う。
人生を変えたアマチュア・ナイトで人生を賭けて歌ったことで伝説的シンガーとなったエラ・フィッツジェラルドも、きっと拍手喝采だろう。ここは会場が自称していたように「スターが生まれ、伝説が作られる場所」なのだから。
Written By Martin Chilton
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