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変わった場所で録音されたアルバム16選:ピラミッドやタージ・マハルや宇宙、トイレから車中まで

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アルバムは宇宙空間や水中、獄中や殺人現場まで、様々な変わった場所でレコーディングされてきた。ここでは中でもめずらしい例を紹介しよう。


ベテランのアーティストなら一度は、ピカピカで広々としたアビー・ロード・スタジオやキャピトルのスタジオAを見渡して、もしタイヤの廃工場でレコーディングしたらどうなるだろう?と考えたことがあるだろう。城や教会、バスルーム、刑務所、そして宇宙空間まで。ミュージシャンたちが実際に変わった場所でのレコーディングを決意したときは、必ず逸話が生まれている。しかもそこから傑作レコードが生まれることさえあるのだ。

ここでは実に風変りな場所でレコーディングされた名アルバムのいくつかを紹介しよう。

 

歴史的事故物件:ナイン・インチ・ネイルズ『The Downward Spiral』(1994年)

ナイン・インチ・ネイルズの代表的アルバムのレコーディング場所は、チャールズ・マンソンのカルト信者がシャロン・テートほか6人を殺害したハリウッド・ヒルズの家だった。当初トレント・レズナーは、世界中の風変りな場所の中からそこを選んだことは偶然だったかのように話していた。「たくさんの場所を見て、一番気に入ったのがそこだっただけなんだ」。彼はバンドの最高傑作がリリースされた1994年に、エンターテイメント・ウィークリー誌にそう話している。

その後、彼はローリング・ストーン誌にその家への不気味な執着を白状し、シャロン・テートの姉妹と会って目が覚めたと明かした。「初めて、思い切り顔をビンタされたような感じだった」。だが、レズナーが殺人現場となり捨て去られた家から悪い空気を感じ取っていたわけではない。彼は「Hurt」を収録した同アルバムについて、どちらかといえば物憂げな空気感から影響を受けたと話す。「その家は恐ろしいというよりも、悲しげだった。穏やかな悲しさがあったんだ」

 

宮殿:ザ・ローリング・ストーンズ『Exile On Main St』(1972年)

『Exile On Main St (メイン・ストリートのならず者)』は大物バンドがDIYで作ったアルバムの典型例だ。キース・リチャーズと当時の恋人であるアニタ・パレンバーグは、”ミニ・ヴェルサイユ”とよばれた邸宅、ヴィラ・ネルコートに移り住んでいた。だが宮殿のような邸宅の絢爛さやデカダンスは、作品の粗削りなサウンドと際立った対比を成している。バンドは未完成の洞窟のような地下室に、移動式の機材を持ち込んでレコーディングを行った。『Basement Tapes (地下室)』というアルバム名は既に他で使われていたが、同作を『Dirty Work』と名付けた方がより適していたかもしれない。

 

海の上:ウィングス『London Town』(1978年)

係留された船の上の居心地はどうだい? “ヨット・ロック”という言葉がただの冗談ではなくなる以前に、海の上でのレコーディングに喜びを見出していたアーティストがいた。ウィングスが解散に向かい始めた1970年代後半、ポール・マッカートニーは残ったメンバーをヴァージン諸島に属するセント・ジョン島にあるウォーターメロン・ベイに集めた。そしてグループは船を借り、仮設のスタジオで最後から2番目のアルバムのほとんどをレコーディングした。

メンバーは泳いで過ごすことも多く、ヨット・ロックのサウンドと似て、その環境によって大きなドラマが生まれることはなかった。1980年代、1990年代にはピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアが船上でのレコーディングをより本格的に取り入れている。彼はハウスボートというこれまた風変りな場所をレコーディングの場に選び、ピンク・フロイドとしての最後の3枚のアルバムや、最後のソロ作2枚の一部をそこで制作している。

 

採掘現場の底ケイティ・メルア『Concert Under The Sea』(2007年)

今度はもっと低い場所だ。水上でレコーディングしただけのビートルズやピンク・フロイドのメンバーにこれは覆せないだろう。イギリスのシンガーであるケイティ・メルアと彼女のバンド・メイトは2006年、広大な採掘現場のプラットフォームの底でライヴをしてギネス世界記録に認定された。現場では20人の油田採掘スタッフがコンサートを見守った。残念なことに、セット・リストに『リトル・マーメイド』の楽曲「Under The Sea」のカヴァーは含まれていなかった。

Katie Melua – The Gig on The Rig (Concert Under The Sea DVD Album Trailer)

 

Apple Store(にあるmacを勝ってに使って)プリンス・ハーヴェイ『PHATASS』(2015年)

ラッパーのプリンス・ハーヴェイによるデビュー・アルバムのタイトルは、『PRINCE HARVEY AT THE APPLE STORE: SOHO』の頭文字をとったものである。買い物客にとっては別の意味でアップル・ストアが変わった場所になったかもしれないが、ハーヴェイはアカペラでアルバムの全編をレコーディングした。彼は店のノート・パソコンに入ったガレージバンドのソフトだけを使い、4か月かけて制作を行ったのだ。

プリンス・ハーヴェイは部屋から立ち退きを命じられた友人と家を空けている間にパソコンを差し押さえられていたことから、売り場でレコーディングをしようと思ったと話す。初めは店内での無許可のパフォーマンスに対し、店員はマイクを占有しないようにと注意をしていたが、最終的には内心応援するようになっていった。買い物客もその場でのパフォーマンスに目を奪われていたという。

Prince Harvey – Sometimes

 

刑務所ジョニー・キャッシュ『At Folsom Prison』(1968年) / 『At San Quentin』(1969年)

ジョニー・キャッシュが実際に刑期を務めたことはない。だが1950年代中盤のヒット曲「Folsom Prison Blues」の内容にはあまりにも説得力があり、まるで彼が実際に服役したことがあるかのようだった。そのため彼が同じ刑務所の名を冠したライヴ・アルバムを作ったとき、久しぶりの古巣訪問だと思ったファンは少なくなかった。当時、ジョニー・キャッシュはコロンビア・レコードを説得して刑務所に移動式レコーディング機材を持ち込んだという。ライヴにはジューン・カーター・キャッシュやスタトラー・ブラザーズ、カール・パーキンスら、ツアーを共に回っていた顔ぶれも出演した。

それは虐げられた人々への深い想いからの行動なのか、あるいはキャリアを復活させるための見事な方策だったのか。その1年後、『At Folsom Prison』に続く『At San Quentin』(サン・クエンティン州立刑務所)はさらに大きなヒットを記録し、同作収録の「A Boy Named Sue」は更生を誓う囚人からの涙を誘った。その後間もなく、刑務所はアルバムを作る場所としてめずらしくはなくなった。キャッシュが草分けとなり、B.B.キングの『Live In Cook County Jail』やリトル・ミルトン、トレイシー・ネルソン、マーシャル・チャップマンなど、ほかの往年のミュージシャン次々に刑務所での音源をリリースするようになったのだ。

 

車中ベン・ヴォーン『Rambler 65』(1997年)

ロックンロールと車文化の関係性は、米国のミュージシャン兼プロデューサー、ベン・ヴォーンが自分のヴィンテージ車ランブラーの中で1枚のアルバムを作り上げたことでローファイの極致に達した。ミキサーを前列席に、8トラックのオープン・リール式レコーダーを後部座席に置き、ヴォーン自身も歌と演奏のほとんどをそこで録った。隔離されたブースの場所がない?ヴォーンはとても広いランブラーのトランクにそれを設けている。アルバムがリリースされた年、映画『レポマン』の監督であるアレックス・コックスはこのアルバムの制作についての25分間のドキュメンタリーを撮っている。

Ben Vaughn – Rambler 65 – Full Show

 

ゴム工場ブラック・キーズ『Rubber Factory』(2004年)

オハイオ州アクロン出身の人気デュオ、ブラック・キーズは、ゼネラル・タイヤの廃工場でレコーディングを行い、彼ら自身と並び同地を代表する産業にオマージュを捧げた。出来栄えには満足しているようだったが、ダン・オーバックはシカゴ・トリビューン紙に対し、理論的には良いアイデアだったが実際は「何も理想的なところはなかった」と明かしている。彼はこう続ける。「遠すぎるし、2階だったし、死ぬほど暑い。なのに窓も開けられない。音響もひどい」。だが廃工場には他の良さもきっとあるはずだ。

 

宇宙(大気圏外):クリス・ハドフィールド『Space Sessions: Songs From A Tin Can』(2015年)

月の近くで副業をすることなどできるのだろうか。それが、できるのだ。カナダの宇宙飛行士クリス・ハドフィールドは国際宇宙ステーションを操縦する立場を生かし、大気圏外で世界初(そして現時点で唯一)のアルバムを制作した。その題名からも想像できるが、彼は無重力状態でデヴィッド・ボウイの「Space Oddity」をカヴァーした(2013年にビデオが大きな話題を呼んだ)。アルバムには、より自由な彼の自作曲が収録された。

Space Oddity

 

ピラミッドキリング・ジョーク『Pandemonium』(1994年)

キリング・ジョークのベーシスト、マーティン・グローヴァー(通称ユース)は1990年代中盤にある確信を抱いた。それは、ポスト・パンク・バンドの彼らが数千年の歴史を持つ世界的建造物、エジプトのギザにあるピラミッドの中でレコーディングをし、ピラミッドの大いなる力に浸るべきだということだった。だが神聖な空間に持ち込んだ電源は、予定の10時間に対して10分で不調となった。超自然レベルのパワー不足に、彼は分別あるロック・ミュージシャンなら誰でも考える行動をとった。ほとんど全裸になり、賢人や水晶や聖水を使った儀式を行ったのだ。これにより霊的な状態が高まり、ユースはフロントマンのジャズ・コールマンがヴォーカルのレコーディング中に空中浮遊したのを見たと信じているそうだ。

Killing Joke – Pandemonium

 

キャンプファイヤーを囲んでミッシェル・ショックト『The Texas Campfire Tapes』(1986年)

伝承民謡フィールドレコーディングで有名なアラン・ローマックスが数十年に亘り自然の中で音を撮り続けてきたことを考えれば、アルバムを作る場所としてキャンプファイヤーはあまりめずらしくないかもしれない。だがイギリスのプロデューサーのピート・ローレンスは、当時無名のシンガーソングライターだったミッシェル・ショックトが歌う様子を、ソニーのウォークマンという極端にローファイな持ち運びできるレコーディング機材で記録した。彼は同作を自身のレーベル、クッキング・ヴァイナルから1987年にリリース。さらに彼女をプレスに売り込んで、メジャー・レーベルとの契約まで取り付けた。

ショックトも当初はこのデビュー・アルバムをプロモーションしたものの、後になって同作を認めないと主張している。彼女はプロデューサーのローマックスとの比較に気分を害し、ローレンスが合意なくリリースした搾取のための”ブートレグ盤”だと言い張ったのだ。そうしてテープに関する権利を得てからショックトは、演奏時間も長く音を調整したヴァージョンを2000年代になり発表している。公認であったかどうかにかかわらず、『The Texas Campfire Tapes』は思いがけない(カルト的な)”スター誕生”の瞬間のひとつであり、指折りのDIYアルバムである。

 

ツアーでのホテルやバスジャクソン・ブラウン『Running On Empty』(1977年)

“フィールド・レコーディング”という言葉は、アラン・ローマックスなど音から人類学を研究する学者たちの用語だ。だが時として、有名アーティストもそうした現場に出向くことがある。ジャクソン・ブラウンの『Running On Empty』は今でも奇抜な発想から生まれたロック史に残る名作だ。”ツアー・アルバム”と呼ばれた同作は、ライヴのステージではない(一部ステージの演奏も収録されているが)ホテルの部屋やリハーサル室、バスなどでレコーディングされた。骨の折れるツアー日程にある種の精神性を見出したかったのだろう。

 

鉄道ビリー・ブラッグ&ジョー・ヘンリー『Shine A Light: Field Recordings From The Great American Railroad』(2016年)

まったく別の種類のツアーもある。イギリス人とアメリカ人のデュオ、ビリー・ブラッグとジョー・ヘンリーは『Shine A Light』の制作のために、シカゴからロサンゼルスまで5日間の鉄道の旅に出た。道すがら、彼らは宿や鉄道のプラットフォームで、ウディ・ガスリーやジミー・ロジャースなど鉄道を愛した往年のミュージシャンのスタンダード・ナンバーを演奏した。これほど良質な放浪者の音楽はこれまでなかっただろう。

 

教会カウボーイ・ジャンキーズ『The Trinity Session』(1988年)

カウボーイ・ジャンキーズはその名前で警戒されないように、トロントの大きな教会を借りる際、ティミンズ・ファミリー・シンガーズと名乗ったといわれている。彼らはなけなしの予算のほとんどを教会につぎ込み、ゲスト・ミュージシャンを呼ぶのにも資金を費やした。メンバー全員が身を寄せ合って歌う一本だけのマイクの位置を決めるのに手間取ったときは、これは失敗に思われた。

だがその日に彼らが生み出したのは、アメリカーナらしい傑作だった。同作は当時の批評家に絶賛されただけでなく、プラチナ・アルバムにも認定されている。彼らに続くように、他のアーティストも教会の音響を生かしたDIYのアルバム作りを試みている。その中の一組、ディッセンバリスツはポートランドの教会でアルバム『Picaresque』をレコーディングした。

 

タージ・マハルポール・ホーン『Inside the Taj Mahal』(1968年)

名高いフルート奏者もタージ・マハルの中での録音の許可は得ていなかった。だが彼はビートルズとともにマハリシを訪ねた1968年の旅の途中、メジャー・レーベルからリリースされるアルバム全編をワン・テイクで演奏してみせた。ただ演奏するだけで28秒ものディレイが生まれる強力な残響の空間は他にはないだろう。そして警備員のひとりがホーンの即興に合わせて歌を歌い始めると、トリップ感がいよいよ増してくる。結果として同作は60年代屈指の珍奇なジャズ・アルバムとなった。だがホーンはジャズに傾倒していたというより、アンビエントやニュー・エイジといったジャンルを開拓したかったという説もある。風変りというよりエキゾチックだが、ホーンはその後もギザの大ピラミッドやリトアニアの聖カジミエル教会、北京の天壇など、様々なめずらしい場所で(時には許可を得て)演奏をしている。

 

トイレモダン・ラヴァーズ『Rock’n’Roll With The Modern Lovers』(1977年)

記録は曖昧だ。このアルバムがレコーディングされたのはサンフランシスコにあるCBSスタジオの男性トイレだったか、それとも女性トイレだったのか。ギタリストのリロイ・ラトクリフがようやく真実を明かした。レコーディング・スタジオの音響にリーダーのジョナサン・リッチマンが強く腹を立て、メンバーは廊下を通してコントロール・ルームに繋がったケーブルを引きずって男性用トイレに逃亡した。だがリッチマンはそれでも満足せず、もう一方のトイレに向かった。そうして配置をやり直してもシンガーのリッチマンはまだ納得いかない様子で、結局は男性トイレに戻ったという。

「決め手になったのは……」ラトクリフはファン・サイトに向けてこう語っている。「間違いなく、男性用の小便器が作用して”あの独特なサウンド”になったことだ」。トイレの音響を試したのはモダン・ラヴァーズだけではない。ウィアード・アル・ヤンコヴィックはブレイクのきっかけになったシングル「My Bologna」をカリフォルニア・ポリテクニック大学の男性トイレでレコーディングしている。

 

Written By Chris Willman



 

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