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多様性が称賛された90年代のダンス・ミュージックがメインストリームへと躍り出るまで
ディスコをブッ飛ばそうという1979年の悪名高いイベント「ディスコ・デモリッション・ナイト」から、ダンス・ミュージックが若いオーディエンスと再び繋がったのは、80年後半のイギリスの伝説的“セカンド・サマー・オブ・ラヴ”以降だった。ファーリー・“ジャックマスター”・ファンクの「Love Can’t Turn Around」とスティーヴ・‟シルク”・ハーレイの「Jack Your Body」(どちらも最近再発されたDJインターナショナルに収録)といった興味深いシカゴのハウス・ヒットが少しずつ出現し始め、そこにこのサウンドを解釈したマーズの「Pump Up The Volume」とボム・ザ・ベースの「Beat Dis」といったイギリス人のナンバーや、インナー・シティの「Good Life」といったデトロイトのテクノ・アンセムが加わった。1989年までには、その愛好家は大人数になっていた。イギリス・チャートや、『トップ・オブ・ザ・ポップス』といった主要テレビ音楽番組もダンス・ナンバーで溢れた。ペット・ショップ・ボーイズやザ・スタイル・カウンシルといった頼もしいアーティスト達もまた、スターリング・ボイドの「It’s Alright」やジョー・スムースの「Promised Land」といった曲の創造性を、それぞれのカヴァー・ヴァージョンで強調した。こうして90年代ダンス・ミュージックがメインストリームへと躍り出る準備は整った。
90年代には、DJやインディー・バンドがレイヴに参加しては、群衆を一夜にして虜にし、エレクトロニカは世代を超えた人々の心を掴んだかのような勢いとなった。そうして90年代ダンス・ミュージックが、これまで以上にサブジャンルや革新的なアーティストを次々とシーンに送り込む中、学生はケミカル・ブラザーズのブロック・ロッキン・ビートを手に入れる為に走り、ジャーナリストはアンダーワールドのふざけた歌詞に夢中になり、中年プログレッシヴ・ロッカー達はジ・オーブのアンビエントなサウンドを称賛し、その音楽の魅力に屈したリスナーはどんどん広がっていった。エレクトロニカと、同じくサンプルを多用するヒップホップ(彼等もまた90年代に独自に世界を制覇した)の世界との心地良いコラボレーションと相まって、ロック・ミュージックは漸く本格的な競争相手と出会えたように思えた。多数の人々がエレクトロニックをリリースし、HMVでも、車の後ろのトランクを使ったような即席販売所でも驚くほど良く売れたほどだった。
イギリスでは、1989年の夏はジャジーB一色だった。彼のグループであるソウルIIソウルのうっとりするような「Back To Life (However Do You Want Me)」と、その収録アルバム『Club Classics Vol. One』は、この後に人気を博す個性的なアーティストによるプロジェクトの最初の兆しを捉えた作品だった。
皮肉なことにアメリカが、自国で誕生した激的な変化の魅力に圧倒されるまでには、もっと時間が掛かった。人種差別主義と同性愛嫌悪的なディスコに対する不信感はついて回ったが、イタリア出身のアーティスト、フォーティナイナーズの1990年シングル「Touch Me」といったトラックで、クラブ・ヒットが誕生。同じ年、クラッシュにインスパイアされたビーツ・インターナショナルのナンバー「Dub Be Good To Me」は大西洋を跨いでヒットし、ノーマン・クックのダンス時代の本格的幕開けを告げた。DNAは「Tom’s Diner」を引っ下げ、イギリスのサッカー・ナショナル・チームさえもがニュー・オーダーの「World In Motion」とコラボレートしその仲間に加わった。
1991年には、ブラザーズ・イン・リズムの「Such A Good Feeling」、クリスタル・ウォーターズの「Gypsy Woman」、シー・シー・ペニストンの「Finally」等、さまざまな形の優れた名作によるピアノ・ハウスやガレージ・ヒットが絶えることなく続いた。更にブリストルからは、マッシヴ・アタックが産声を上げ、後にソウルIIソウルの新しいサウンドに対するダウンテンポで多角的アプローチを更に追及し、90年代ダンス・ミュージックの為の新しい道を築き、その過程で、このウェスト・カントリーの街は極めて多産な期間を推し進めていった。
意外なことでもないが、マッシヴ・アタックにはネリー・フーパーという、ソウルIIソウルと共通のコラボレーターがいた。彼等のファースト・アルバム『Blue Lines』はすぐさま名作として扱われ、無数の心を焦がし、グループは非常にアーティスティックなキャリアをスタートさせ、のちに1998年のダークな『Mezzanine』でチャートの頂点に立った(彼等のすぐ後に続いたのは、一緒に組むこともあったトリッキーと、非常に独特の雰囲気を持った、ブリストルのもうひとつのアーティストのポーティスヘッドだった)。マッシヴ・アタックはアンビエントなタッチを決して完全に避けていたわけではなく、90年代ダンス・ミュージックのそちら側もまた、1991年のエニグマの奇抜な『Sadeness (Part 1)』に大きな影響を及ぼし始め、その最新のグレゴリアン・チャントでアメリカ・チャートを驀進した。その一方で、シーンの中心人物ジ・オーブが、1992年に『UFOrb』でイギリス・アルバム・チャートのトップを飾った。同アルバム収録曲「Blue Room」の完全に手を加えられたヴァージョンもまた、チャート・ヒットになった(『トップ・オブ・ポップス』出演時、この曲を演奏するのを期待されたグループが終始チェスに興じたのは有名な話)。
この10年間の半ばまでには、90年代ダンス・ミュージック・シーンからは、オルタネイトの「Activ-8」、ベイビーDの「Let Me Be Your Fantasy」、N-トランスの「Set You Free」等、素晴らしいテクノイドの瞬間に溢れた大ヒット作が次から次へと現われた。ドイツでは、テクノはラヴ・パレードやメーデーのイベントに代表されような東西ドイツの再統一を祝う終わりなきパーティーのサウンドトラックになり、アルバムを発表するアーティストによる国際的な波が、この最先端の時代に育まれていった。テクノ・スターのアンダーワールドは、1994年の『dubnobasswithmyheadman』と、話題になったライヴで評価を得ていた。進化し続ける彼等のナンバー「Born Slippy」が、1996年の大ヒット映画『トレインスポッティング』で最大限に利用されたこともまた大きく作用した。時代の先端を行くサウンドトラックは映画同様に話題を呼び、アメリカでも賞賛された。
ギターとシンセの世界には長年関連があり、それは卓越したクラブ・リミックスへと繋がり、元シュガーキューブスのビョークは再度ネリー・フーパーと組み、その新鮮なサウンドで輝かしくも不思議なソロ・キャリアをスタートさせた。一方その時代で最も成功した多数のアーティストの一組だったケミカル・ブラザーズは、ビッグ・ビートとして知られるスタイルを生み、インディとダンスの世界を繋げることに成功。彼等はタイムリーなコラボレーションを活用したが、中でも有名な1996年のスマッシュ・ヒット「Setting Sun」は、オアシスのノエル・ギャラガーがフィーチャーされ、1999年に世界的成功を収めた『Surrender』では、ニュー・オーダーのバーナード・サムナーとプライマル・スクリームのボビー・ギレスピーを仲間に迎えた「Hey Boy Hey Girl」という傑作ダンス・ナンバーを誕生させた。
ノーマン・クックは90年代半ばに、ファットボーイ・スリムとして自己改革し、ビッグ・ビートを愛する群衆を増やしていきながら、世界中を沸かすことになる『You’ve Come A Long Way, Baby』(1998)を発表。90年代ダンス・ミュージックの盛り上がりの中で画期的なリリースだった本作には、クリストファー・ウォーケンが主演し、アメリカ人のスパイク・ジョーンズが監督した風変りなMVが話題になった「Praise You」といったヒット曲がフィーチャーされていた。スパイク・ジョーンズはダフト・パンクに対しても、当初評判が芳しくなかったブレイクスルー・ヒット「Da Funk」用に、同様の風変わりなクリップを提供し彼等を盛り立てた。ブレイクビート革命の静かな側では、DJシャドウが、眩暈がするようなサンプル多用のカルト的名作『Endtroducing…』(1996)を制作し、ジ・オーブ同様に、聴き手を70年代最大の伝説的コンセプト・アルバムに匹敵するような旅へと誘った。
2000年が見えてくる頃になると、70年代後半のディスコへの反発同様、人々はシーンのあからさまな商業主義にうんざりし始め、激しい振動と共に止まってしまったかにみえた。この10年間の終わりには、ロバート・マイルズのナンバー「Children」(1995)等の素晴らしい作品を世に送り出したトランスやハード・ハウスといった、90年代ダンス・ミュージックのより早いタイプのものが面白みを失っていった。そうしてモービーが、ユーロダンス・スマッシュ・ヒット一辺倒の状況を止め、途方もない成功を収めたテクノ・ライトな『Play』で、時代は幕を閉じた。
しかしアンダーグラウンドでは、ハウスとガレージ・ビートは活気を失わなかった。アーマンド・ヴァン・ヘルデンが手掛けた、CJボーランドの「Sugar Is Sweeter」(1996)等の重低音の効いたナンバーは、非常にスピード感あるドラムンベース・サウンドを大多数が受け入れられるようなテンポに合わせたものであり、UKガラージの始まりを予感させた。UKガラージはこの10年の間に変化し続け、グライム、ダブステップやその他数多くのサブジャンルへと繋がっていった。
ダンス・ミュージックは2000年代に入って消えたわけでは決してないが、90年代ダンス・ミュージックの黄金期が本格的に再評価されるのは、つい近年になってから、エレクトロニック・ダンス・ミュージックことEDMの台頭と、アヴィーチーが惜しくも亡くなった後だった。90年代とははエレクトロニカ・ファンにとって、クラシック・ロック信奉者にとっての60年代、つまりは、音楽のインパクトと商業的成功と同様に、その多様性が称賛された神聖な時代だった。
Written By Phil Smith