Playlists
クインシー・ジョーンズの20曲:飽くことを知らない創造力
音楽界で最も偉大な(そして最長の)キャリアを持つアーティストの一人について、わずか20曲で語ろうとするのは、実に野心的な行為だ。しかし我々は、1933年3月、クインシー・デライト・ジョーンズ・ジュニアとしてシカゴで生まれたクインシー・ジョーンズのトリビュートをここに披露することにした。
多様で見事に飽くことを知らない創造力とセンスの良さによって、クインシー・ジョーンズはグラミー賞でノミネーション回数は79、そして受賞回数は27部門。もし音楽界全体の自由を讃える賞があるとしたら、彼は何十年も前にその賞を受賞していたであろう。我々のプレイリストが、真のスタジオの天才である彼の多面的な魅力を網羅していることを願っている。
クインシー・ジョーンズの物語は、1953年から1954年の時期に始まる。まだ20歳の彼は、プレスティッジから発売されたアート・ファーマー・セプテットのセルフ・タイトル・アルバムで、共同アレンジャー兼トランペット奏者を担当した。クインシー・ジョーンズは、1956年発表の彼らのアルバムでは、クインシーの名前をつけた「Up In Quincy’s Room」が収録されるという名誉を授かった。
その時すでに、彼はロイ・ヘインズと制作した『Jazz Abroad』で自身の名を記した作品を発表していたが、今回の20曲のプレイリストは、1957年の彼のソロ・デビュー作『This Is How I Feel About Jazz(邦題;私の考えるジャズ)』収録の「Stockholm Sweetnin’」から始まる。この記念すべき年に、彼は偉大なレイ・チャールズとダイナ・ワシントンの『The Swingin’ Miss D』にも参加。彼の電話帳は、ジャズ、ブルース、その他の偉大なミュージシャン達の名前で埋まりだした。
偉大なサラ・ヴォーンと彼の長い恋愛を振り返るために、1959年の『Vaughan And Violins』からの曲を選んだ。それから、1962年の『Big Band Bossa Nova(邦題;ソウル・ボッサ・ノヴァ)』より、ポップ・チャートとソウル・チャートの両方でブレイクした忘れ難い「Soul Bossa Nova」を。いわゆる音楽の境界に抑えられるような男ではなかった彼は、1963年にはポップ・チャートで1位を連発するレスリー・ゴーアの師となり、10代の恋愛を歌った名曲「It’s My Party(邦題;涙のバースデイ・パーティ)」をプロデュースした。
クインシー・ジョーンズは常に、スタジオでのコラボレーションのマスターだった。それは、彼の1960年代のフランク・シナトラとエラ・フィッツジェラルドとの曲や、彼自身のアルバムの特色となっている。1978年の「Stuff Like That」でのチャカ・カーンの素晴らしいリード・ヴォーカルから、1981年の「One Hundred Ways」のジェームス・イングラムのソウルフルな解釈まで、スーパースター達がこぞってクインシー・ジョーンズの作品の輝かしいラインナップに加わった。
のちの1989年、ジェームス・イングラムは、バリー・ホワイトと共に「The Secret Garden (Sweet Seduction Suite)」でカムバックした。『Back On The Block』の全米R&Bチャート1位を達成した2曲の内の一曲だ。
この間にクインシー・ジョーンズは、アレサ・フランクリンの1960年代以降の一連のヒット曲のひとつである「Angel」を作曲し、ザ・ブラザーズ・ジョンソンを大きな成功に導き、ジョージ・ベンソンには彼の人生で最も多くの世界中のファンをもたらした。そして彼はドナ・サマーと組んで、1982年発表の驚異的なアルバムを制作。このアルバムに収録されたジョン・アンダーソンとヴァンゲリスの「State Of Independence」のカヴァーがヒットした。
そして大人になったマイケル・ジャクソンのサウンドを本当に発明したのは、クインシー・ジョーンズであった。このプレイリストでは、史上最も売り上げたアルバム『Off The Wall』と『Thriller』の両方から曲を選んだ。何百枚も曲を売り上げるスーパースター達を何十人も集結させ、世界規模の決定的チャリティー・ソング「We Are The World」を制作した功績を挙げるまでもなく、クインシー・ジョーンズのような偉人は、2度と現れることはないであろう。
Written By Paul Sexton