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ジャズ・サックスの巨匠、ウェイン・ショーター逝去。その功績を辿る
謎に満ちたジャズ・サックス奏者/作曲家のウェイン・ショーター(Wayne Shorter)は、ジャズ・ロックやフュージョンの生みの親の一人でもある。そんな彼が、2023年3月2日、ロサンゼルスの病院で亡くなったと広報担当者がニューヨーク・タイムズに伝えた。89歳だった。彼は、3番目の妻であるキャロライナ・ドス・サントスと娘のミヤコを残してこの世を去った。
先達のジョン・コルトレーン同様、ウェイン・ショーターはソプラノ・サックスの人気向上に大きく貢献した。ソプラノ・サックスはメロディーを奏でるだけでなく、浮世離れした不気味な音色を出すのにも打って付けの楽器だ。
ショーターは1950年代後半のハード・バップ・シーンでテナー・サックスを演奏して経験を積んだあと、1960年代に発展したポスト・バップ・ジャズ界の中心人物として名を馳せた。その時期には一連のソロ・アルバムをブルー・ノートから発表したほか、マイルス・デイヴィス・クインテットの一員としても活動。そうした音楽活動を通じて、彼はコーラス、ヴァース、コーラスという定型化した構成を捨て去り、ハーモニーやメロディー、そして楽曲構成に関して目新しいアプローチをすべく試行錯誤を重ねていった。
1970年から1986年にかけては、さらに音楽性の幅を広げるべく、キーボード奏者のジョー・ザヴィヌルとともにジャズ・ロック界の革新的スーパーグループであるウェザー・リポートの中核メンバーとして活躍。その期間を通じて、スティーリー・ダン、ジョニ・ミッチェル、サンタナといったポップ/ロック界屈指の大物アーティストたちとのコラボレーションも行なった。
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・録音から15年近くも日の目を見なかったウェイン・ショーター名作
その音楽と同様に謎めいた人柄
耳に残るメロディーや一風変わったコード進行が特徴的なショーターの音楽は謎めいた印象を与えるが、その人柄にも似たように謎めいたところがあった。
彼はSF小説を愛し、1973年に実践し始めた仏教信仰に熱心だったことでも知られている。また、インタビューで遠回しな表現を使うことでも知られ、テッド・パンケンによる2002年の取材では自身のことを「一匹狼」と評している。彼と活動をともにしていたハービー・ハンコックは2014年の回顧録『Possibilities』の中で、ショーターを映画『スター・ウォーズに登場する架空の戦士、ジェダイの一人になぞらえこう表現している。
「彼はヨーダみたいなところがある。変わった話し方をするが、同時にとても頭が良い」
自らの可能性に挑戦するショーターの姿勢は、80代になっても変わることがなかった。2018年には、視覚と聴覚の両面に働きかける大作『Emanon』を発表し、自身11度目となるグラミー賞を受賞。同作は、合計2時間に及ぶ音楽と74ページのグラフィック・ノベルを組み合わせた作品だった。そして、彼はこの世を去るそのときまで、それ以上に野心的なプロジェクトに取り組んでいた。それが、『Iphigenia』と題されたオペラ作品だ。
エウリピデスの戯曲に着想を得た『Iphigenia』は、人類全体の利益のために自身の命を投げ出す女性の物語だ。2021年には、ワシントンD.C.で初演を迎えている。グラミー賞受賞歴を持つジャズ・ミュージシャンで、同オペラの作詞も手がけたエスペランサ・スポルディングは、2014年にマーキュリー・ニュースの取材で次のように話している。
「彼は異次元の探究心を持っている。彼は100万人に一人のミュージシャンだと思います」
その生涯
そんなショーターは1933年、ニュージャージー州のニューアークに生まれた。両親のジョセフとルイーズは、どちらも工場に勤めていたという。二人兄弟の次男だったウェインは、幼いころからアメリカン・コミックにのめり込み、将来はイラストレーターになるのが夢だった。だが、ニューアークにある芸術系のハイスクールで絵を学んでいた14歳のときに転機が訪れる。彼はそこで初めて、セロニアス・モンクやチャーリー・パーカー、バド・パウエルらの演奏をラジオで耳にしたのだ。彼は2002年に出版された公認の伝記『Footprints: The Life And Work Of Wayne Shorter』の中で、著者のミッチェル・マーサーにこう語っている。
「俺はその音に耳をそばだてた。何かピンとくるものがあったんだろう。その時の俺は、音楽にはまるで興味を持ってこなかったからね」
そうしてビバップがもつ無軌道なエネルギーと目新しさに魅せられた彼は、楽器演奏に挑戦してみることにした。彼はマーサーに対してこう話している。
「まずはトーネットを買ったんだ。8つの穴が開いた小さなプラスチック製の楽器だ。見た目は潜水艦みたいな感じさ」
15歳を迎えるころにはクラリネットを吹くようになり、音楽が彼の人生の中心となっていた。彼は頻繁に学校をサボって地元の会場に足を運び、ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーといった名手の演奏を見にいったという。そして楽器をテナー・サックスに持ち替えると、アルト・サックスを吹いていた兄のアランとともに地元のビバップ・グループに加入したのだった。
昼は学業、夜はジャズ
その後、彼はニューヨーク大学で音楽教育を学び始めたが、夜のライヴ・シーンの誘惑は続いた。しかも彼は、バードランドやカフェ・ボヘミアといった1950年代のジャズの聖地から、地下鉄ですぐの場所に暮らし始めていたのだ。彼はマーサーに話している。
「夜中の1時か2時までニューヨークのクラブで過ごして、家に着くのは3時近くになることが多かった。それから7時には起きて大学に行っていた。毎日それの繰り返しだったんだ」
このころになると、彼はニューヨークのジャズ・シーン界隈で”ニューアーク生まれのフラッシュ”と呼ばれるようになっていた。素早いサックスさばきを得意とする彼の腕前を、アメリカン・コミックのキャラクターに例えたあだ名である。
また、ショーターが作曲を始めたのもこの時期からで、マンボ調のダンス・ナンバーを2曲ほど書いたほか、クラシック音楽の影響を受けた作品も残している。彼が19歳のときに書いたオペラ『The Singing Lesson』もその一つだ。そして、ニューヨーク大学を卒業して間もない23歳のときには、ピアノ中心のディキシーランド・ジャズ・グループであるジョニー・イートン&ヒズ・プリンストニアンズに加わり、初めてプロとしてのレコーディングを経験。このとき彼のオリジナル曲も2曲録音したというが、それらの音源がリリースされることはなかった。
アメリカ陸軍での2年間の兵役においては、ニュージャージー州のフォート・ディックスで軍楽隊にも参加。その後ニューヨークに戻った彼は、ハーレム地区における夜の人気スポットだったミントンズ・プレイハウスで、ハウス・バンドの一員となった。
そして1959年、彼は同地でサックス奏者のジョン・コルトレーンに出会う。彼より7歳年上のコルトレーンは、当時マイルス・デイヴィスのバンドを去ろうとしており、その座を継ぐことを若手のショーターに強く勧めたのだった。
マイルス・デイヴィスからの拒絶とアート・ブレイキーとの合流
そうしてショーターは、後任の候補として自らデイヴィスに連絡を取ったのだが、デイヴィスにとってこれはまったく予期せぬ出来事だった。彼はコルトレーンが脱退しようとしていることなど知らなかったのだ。デイヴィスは1989年に出版した回顧録『Miles: The Autobiography』の中でそう振り返っている。
「あれはショックだった。それで俺はこう言った。“サックス奏者が必要になれば、自分で見つけられる!”ってね。そして電話を切ったよ」
この一件はショーターを落胆させたが、これが二人の縁の切れ目となったわけではなかった。
ショーターは拒絶された悲しみをしばらく引きずっていたが、その年のうちにアート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズに加入。同グループにはその後4年に亘って在籍することになった。ピッツバーグ生まれのブレイキーは、ポリリズムを多用する見事な腕前と、荒々しく激しい演奏スタイルで知られるドラマーだった。だが彼は自分の手で作曲をしておらず、ショーターに計り知れないほどの価値を見出していた。ショーターは卓越したサックス奏者というだけでなく ―― ビブラートを効かせないその音色は、コルトレーンのような鋭さとソニー・ロリンズのようなたくましさを兼ね備えていた ―― 優れたジャズ・ナンバーを作り出せる作曲家でもあったのである。
そして加入から数ヶ月経つと、ショーターはグループと並行してソロ・アーティストとしての活動も開始。だが、シカゴのヴィージェイ・レコードから発表したソロ・デビュー作『Introducing Wayne Shorter』は、悪くない内容ながらも華々しいアルバムとは言い難い出来だった。
その一方で、彼はジャズ・メッセンジャーとしての活動で大きなインパクトを残していった。バンドのまとめ役も任されていた彼は、作曲家としての自信をみるみる深めていったのである。サックス奏者としての彼の憧れであるレスター・ヤングに捧げた「Lester Left Town」や、ベラ・ルゴシが主演した『魔人ドラキュラ』に着想を得たといわれる「Children Of The Night」など、印象的なハード・バップの名曲を次々に残したのもこの時期だった。
“アート”に親しむ
現実的で合理的なアート・ブレイキーの考え方は、ウェイン・ショーターが作曲家としての勘を磨く上で参考になったという。ショーターは2012年の雑誌”Recor Collector”の取材でこう話している。
「俺たちはアートと親しく付き合いながら、彼の言う”ポイントを押さえる (getting to the point) “という手法を学んだ。ジャズの演奏においては、ポイントを押さえるのが大事だ。レコードを作るとき、練習に時間をかけちゃいけない。練習をしたいなら、同じアイデアや考え、表現を繰り返さないように練習するんだ”と彼に教えてもらった」
その後、アイリーン・ナカガミというシカゴ出身の女性と結婚した彼は、さらに音楽の幅を広げるため、1964年にメッセンジャーズを脱退。ブルー・ノート・レコードから初めて発表したリーダー・アルバム『Night Dreamer』では、メッセンジャーズ時代と変わらぬ力強い演奏を披露した。だがそれ以外の部分では、同アルバムはたくましく勇ましいブレイキー流のハード・バップの対極にある作品だった。ノリの良いグルーヴやアンセム調のコーラスが影を潜めた同作で彼は、一風変わったメロディーやコードを使用した繊細な作風を打ち出した。そしてそれは、進化を続けるショーターのスタイルの特徴としてすぐに定着していくことになる。
マイルス・デイヴィス・バンドへの加入
このとき、ショーターにとって苦い思い出となったマイルス・デイヴィスとの電話から5年の歳月が経過していた。その間、デイヴィスはショーターの成長を注視しており、ショーターをバンドに誘っては断られる状況が続いていた。驚くべきことに、二人の立場はすっかり逆転していたのである。そして1964年9月、ショーターはこの誘いをついに受け入れた。
彼はサム・リヴァースに代わってデイヴィスのバンドに加入。ジャズ研究家たちが”セカンド・グレート・クインテット (第二の名クインテット) “と呼ぶ同時期のラインナップには、ピアニストのハンコック、ベーシストのロン・カーター、そして当時17歳だったドラムの神童、トニー・ウィリアムスが名を連ねていた。
ショーターはこのグループでも、特に作曲家として、大きな存在感を示した。そして彼の加入後、グループはより自由で難解な演奏スタイルを採るようになっていく。それは、ビバップを下敷きにしつつも、メロディーやハーモニーに関してはフリー・ジャズに近い自由な感覚を重視したスタイルだった。「ウェインが入ってきたときから、魔法が起こり始めた」。ハンコックは回顧録の中で、この”フリー・バップ”時代についてそう綴っている。
「E.S.P.」「Masqualero」「Footprints」などショーターが1960年に書いた楽曲群は、うねりながら進むメロディーや、型破りなハーモニー、そして無駄を省いた楽曲構成などを特徴としていた。そうした楽曲には、このグループのサウンドの本質がすべて詰まっていたのだ。ハンコックはこう綴っている。
「マイルスはウェインのことが大好きだった。というのも、彼はあんなに完璧な曲を書くのに、マイルスのところへやってきて1枚の紙を渡し、”書いてみたんだ”と言うだけだった。マイルスもウェインの曲に手を入れることはしなかった。どの曲も、俺たちの演奏スタイルにぴったりだったからだ」
マイルス・デイヴィス率いるクインテットは、ハード・バップに代わってジャズの新たな潮流となったフリー・ジャズの概念に賛同こそしていなかったが、その音楽には間違いなく解放感があった。デイヴィスは、メンバーに演奏の仕方を指示するのではなく、自分自身をありのままに表現し、恐れず演奏するよう彼らを鼓舞したのだ。ショーターは2012年のRecord Collectorの取材でこんな風に話している。
「マイルスといると、別世界の大学にいるような感じだった。全部が自分次第なんだ。彼が音楽について話すことはなかったし、リハーサルもなかった。”自分の部屋で練習するな、ステージでやれ”と言っていたよ」
18ヶ月で6作のアルバムを制作
1960年代中期は、いまにも花開こうとしていたショーターのソロ・キャリアにおいて実りの多い時期でもあった。彼は1964年4月から1965年10月までの間に、ブルー・ノートで6作ものアルバムを次々に制作したのである。すべてがその時期にリリースされたわけではないが、それらのアルバムには、ソロならではの音楽表現への進化が如実に表れていた。中でも、風変わりな旋律や予測できないコード進行を特徴とする『Speak No Evil』は、批評家やファンから特に高い評価を得た。そんな同作のハイライトである「Infant Eyes」は、彼が長女のミヤコに向けて書いた心に残るバラードである。
1968年、ロックが若者たちの間で大きな人気を得るようになると、デイヴィスも時代の潮流に合わせて路線を転換。楽器にアンプを使用したり、ロックの影響を受けたビートを取り入れたりするようになった。そして1970年、彼はショーターらとともに、長大な2枚組アルバム『Bitches Brew』を制作。批評家たちはこの新たなジャズ・ロック・サウンドを”フュージョン”と呼んだが、同作はそのジャンルを確立する決定的作品となった。1968年に解体された”クインテット”のころと違い、ショーターは同作でソプラノ・サックスを吹くことを選んだ。その決断にはもっともな理由があった。単純にテナーよりソプラノの方が、アンプを使用した”音の壁”の中で音色を際立たせやすかったのである。
ウェザー・リポートの登場
それまでのソロ作よりも瞑想的・内省的な作風となった『Odyssey Of Iska』を最後にブルー・ノートとの契約を終えたショーターは、複数のジャンルを融合させる試みをさらに本格化させていく。そんな彼は『Bitches Brew』や『In A Silent Way』といったデイヴィスのアルバムで共演していたピアニストのザヴィヌルとともに、新バンド、ウェザー・リポートを結成した。
ウェザー・リポートもジャズ・ロックを基調とするグループだったが、ギタリストを加えず、空気感を重視した音世界に力点を置いている点が彼らの大きな特徴だった。ショーターはミッチェル・マーサーにこう話している。
「それまでとは違った表現方法で音楽をやろうとしていた。映画音楽に近い感覚だね」
同グループが1971年にコロムビア・レコードから発表したセルフ・タイトルのデビュー作は、非常に実験的なアルバムとなった。そこでは想像力を喚起する詩的な音楽が、ロックのような大音量のサウンドと、アヴァンギャルド・ジャズのような妥協のないスタイルで演奏されていたのである。
性格の面では、ショーターとザヴィヌルは完全に真反対といえる二人だった。ショーターが寡黙でロマンチックで、思索にふけりがちな性格なのに対し、ザヴィヌルは率直で男らしく、非常に負けず嫌いな性格だったのだ。だが音楽のことになると、二人は独特の化学反応を起こした。ザヴィヌルの書く楽曲にはアンセム調の壮大なものが多い一方、ショーターの楽曲はミニマリズム的で謎めいていることが多かった。その二面性が、ウェザー・リポートの映画的なサウンドを形作っていたのだ。
しかし経験を重ねるにつれ、初期ウェザー・リポートの特徴だった自由で映画的な作風は、シンセサイザー中心のファンキーなアプローチへと変化していった。その最たるものが、1974年にリリースされた4thアルバム『Mysterious Traveller』である。そして1976年、人目を引く派手やかなベーシスト/作曲家であるジャコ・パストリアスの加入により、グループのサウンドはさらなる進化を遂げる。R&Bの影響を受けた彼のプレイ・スタイルが、世間受けするような魅力を彼らの音楽にもたらしたのである。1977年のヒット作『Heavy Weather』を聴けばそのことは誰の耳にも明らかだろう。
ウェザー・リポートとしての活動が15年にわたって続いたことで、その間、彼はソロとして1作のアルバムを制作するに留まった。その1974年作『Native Dancer』は、シンガーのミルトン・ナシメントを迎え、ジャズとブラジリアン・ミュージックを見事に融合させたアルバムだ 。他方、彼はウェザー・リポート在籍中になんとか時間を捻出し、別プロジェクトとしても活動していた。
1977年、彼はマイルス・デイヴィス・クインテット時代の同僚と再び手を組み、アコースティック・バンドのV.S.O.P.クインテットを結成。同グループでは自身が1960年代に書いた楽曲も取り上げている。また、ジャズとほかのジャンルとの共通項を模索し続ける中で、スティーリー・ダンの『Aja (彩 [エイジャ] ) 』 (1977年) 、ジョニ・ミッチェルの『Mingus』 (1979年) 、サンタナの『The Swing of Delight』 (1980年) など、ロック/ポップス・アルバムにもゲスト参加している。
そうした中でもウェザー・リポートに対するショーターの忠誠心が揺らぐことはなかったが、1978年ごろになると、ザヴィヌルがグループ内での発言権を明らかに強めるようになった。それと同時に、アルバムにおけるショーターの楽曲の割合もみるみる減少していった。1981年、ミュージシャン誌の取材を受けた彼は、ウェザー・リポートやそれ以外での創作活動についてこう話している。
「俺は曲を書こうとして、もがいていたんだ。絵を書いている途中に”これでおしまいだ…もう描くものは何もない”と言って手を止めてしまった画家の話を聞いたことがあるんだ。俺もそんな気持ちだった。もう一生、何も生み出せないんじゃないかと不安になったよ」
1982年にはパストリアスがバンドを去り、ウェザー・リポート自体も1986年にその活動を終えた。このバンドでやれることをやり切ったと感じたザヴィヌルとショーターの二人が、解散を決意したのだ。マーサーによれば、1985年にショーターの次女イスカが亡くなったことも、グループの終焉を早めたのだという。彼の2番目の妻であるポルトガル生まれのアナ・マリアとの間に生まれたイスカは、てんかん性発作のためこの世を去った。
ソロ活動の再開
1985年、ショーターは11年ぶりのソロ・アルバム『Atlantis』を発表した。このとき彼は、長いあいだ続いたスランプをようやく克服したように見えた。このアルバムは入念に練り上げられた楽曲で構成されており、即興演奏の部分は最小限に抑えられていた。これは、より映画的なショーターの新しい方向性を示す作品だった。ショーターは、このアルバムの楽曲を「小さな映画」と表現している。
音作りの面に目を向ければ、ここではシンセサイザーとファンクのリズムが多用されており、1980年代の雰囲気がはっきりと表れていた。これに続くいくつかのアルバムでは、ドラム・マシンやウィンド・シンセサイザー (電子管楽器) のリリコンがたびたび使用されており、彼が新しい革新的なテクノロジーをためらうことなく受け入れてきたことがわかる。
1996年、2番目の妻アナ・マリアが飛行機事故で悲劇的な死を遂げた後、ショーターは新たな音楽の制作に没頭した。そうしてできた新しいアルバム『1+1』は、亡き妻を追悼する作品となった。これは、ハンコックと組んだアコースティック楽器によるコラボレーションだった。「『1+1』を作ったときは、まるで彼女がそこに存在しているような感じだった」とハンコックは後にマーサーに語っている。
このアルバムに収録された「Aung San Suu Kyi」は、ミャンマーの政治家/人権活動家、そして1991年のノーベル平和賞受賞者であるアウン・サン・スー・チーに捧げた曲で、グラミー賞の最優秀インストゥルメンタル作曲賞を受賞。これを皮切りに、ショーターは亡くなるまでの30年間にグラミー賞を8つ獲得することになる。
2000年、ショーターはピアニストのダニーロ・ペレス、ベーシストのジョン・パティトゥッチ、ドラマーのブライアン・ブレイドという優れた若手ミュージシャン3人とアコースティック・カルテットを結成した。その後15年間、ショーターの活動はこのカルテットが基軸となり、そのレパートリーは過去の楽曲と新曲の組み合わせで構成されていた。グラミー賞を受賞した2005年のライヴ・アルバム『Beyond The Sound Barrier』では、各ミュージシャンがまるでテレパシーで会話しているかのような阿吽の呼吸が感じられる。
ブルーノートへの帰還
2012年、79歳になったウェイン・ショーターは、42年ぶりにブルーノート・レコードに戻ってきた。ショーターとの再契約で重要な役割を果たしたのが、このレーベルの社長でプロデューサーのドン・ウォズだ。ウォズは、ショーターがブルーノートの過去と現在をつなぐ架け橋になると考えており、2018年にuDiscover Musicのインタビューでこう語っている。
「ウェインがこのレーベルにいるっていうのは、ここで働く人たちやほかのミュージシャンたちにとってまさしく刺激的なことなんだ。とにかく彼には、ポジティブでパワフルなエネルギーがある。……そして彼は、85歳になっても、この業界で最も革新的な男なんだ」
こうして24枚目のアルバム『Without A Net』は、ブルーノートへの復帰作となった。これは進取の気性に富んだライヴ・パフォーマンスを集めた作品であり、ショーターが80歳の誕生日を目前に控えていても、さらに自分自身に挑戦し続けていることを示していた。彼は雑誌”Record Collector”のインタビューで、「予期せぬことや未知のことを恐れない大胆さが必要だ」と語っている。その言葉は、このアルバムの背景にある信念を言い表したものだった。
2015年、ショーターは『Without A Net』のツアーや、旧友のハンコックやサンタナと組んだスーパーグループ、”メガ・ノヴァ”の一員としての活動をこなしたあと、グラミー賞で生涯功労賞を受賞した。その後も表彰は続き、ポーラー音楽賞やケネディ・センター名誉賞なども受賞している。
最後まで失わなかった野心
ショーターはその後も野心的な作品を生み出し続けた。2018年、85歳の誕生日に合わせて、彼はまたもやブルーノートでアルバム『Emanon』を発表。これはさまざまなメディアを組み合わせた大作であり、ライヴとスタジオ録音の両方を収録した3枚組アルバムと、数々の賞を受賞したマーベル/DCコミックのアーティスト、ランディ・デュバークによるグラフィック・ノベルで構成されていた。
ここで描かれたのは、人類を助け、世界の脅威を乗り越えようとするスーパーヒーローの物語である。ここでの特徴として、ショーターは自らの過去の楽曲を新たに作り変えている。2012年、彼は”Record Collectors”のインタビューで、既存の作品を新たに録音する理由を説明している。
「いつも言っていることだけれど、どの曲も本当の意味では未完成なんだ。曲は、誰かが“これで終わり”と言えば、そこで終わりになる。しかし私にとっては、”始まり”とか”終わり”といったものはない。音楽は永続的なものだ。あらゆるものがさらに前に進む可能性を秘めている。だから、進化や革命が存在するんだよ」
uDiscover Musicのインタビューで、ブルーノート社長のウォズはこうしたコンセプトについて次のように語っている。「これは革命的だ。こんなことをやった人は、ほかに誰一人思い浮かばない」。
このアルバムはグラミー賞の最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・アルバム賞に選ばれ、New York Timesと雑誌Rolling Stoneでも2018年のベスト・アルバムの一つに選ばれた。その栄誉に甘んじることなく、ショーターはグラミー賞受賞歴を持つジャズ・ベーシスト/作曲家であるエスペランサ・スポルディングとのコラボレーションに数年間を費やし、オペラ『Iphigenia』を作り上げた。これによって、彼のキャリアはニューヨーク大学での学生時代の原点に回帰することになった。
いくつかの面で、ショーターはジャズ界のスーパーヒーローだったと言える。彼は恐れを知らぬ音響の世界の探検家だった。その好奇心は決して衰えることがなく、年齢を重ねるごとにその音楽はより大胆さを増していった。評論家たちは、魅力的な演奏スタイルを持つ名演奏家として、そして「Infant Eyes」や「Footprints」のような心に残る名曲を作った作曲家として彼を讃えていくことだろう。そして若きミュージシャン志望者たちは、彼が遺した名曲の数々にこれからも熱心に取り組んでいくことだろう。とはいえ、彼の友人たちは、彼の存在の神秘的な側面や、彼がこの世界を見つめるときに見せた子供のように無邪気な熱中ぶりを強く記憶している。
2014年のショーターの伝記『The Universal Tone』の中で、サンタナは以下のように語っている。
「ウェインは、クリスマスツリーのてっぺんにいるあの明るい天使だ」
とはいえ、彼のことを最も巧みに要約したのは、おそらくハービー・ハンコックだろう。彼は自らの回顧録で次のように書いている。
「ウェイン・ショーターは人間として進化した。そして、ジャズのすべての歴史を総合して、非常に特別で、非常に生き生きとした音楽表現ができるようになった。そんなことができる人は、今は彼一人だけだ」
Written By Charles Waring
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