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多才なベーシスト、リチャード・デイビスが93歳で逝去。その功績を辿る
これまでに3,000作以上のレコーディングにその名を刻んできた多才なベーシスト、リチャード・デイビス(Richard Davis)が2023年9月6日に93歳で逝去した。彼の娘ペルシャ・デイビスは、この訃報を伝える声明の中で、「私たちは、コミュニティが長年にわたって彼に示してきたすべての愛とサポートに感謝しています」と感謝の意を捧げている。
イーゴリ・ストラヴィンスキーからエリック・ドルフィー、フランク・シナトラ、ブルース・スプリングスティーンに至るまで、これほどまでに幅広いジャンルの音楽界の大物たちと共演したアーティストは、おそらくリチャード・デイビスをおいて外にはいないだろう。
多作であり、この上なく多才なベーシストであるリチャードは、その70年に及ぶキャリアを通して、音楽の垣根にとらわれることなく、ジャズ(ビバップやアヴァンギャルド)からブルース、ポップス、ロック、フォーク、クラシックまで、あらゆる音楽を演奏してきた。彼は自身の音楽的インスピレーションについて、ある一人のアーティスト、デューク・エリントンの名前を挙げている。2014年に行われたボブ・ジェイコブソンとのインタビューの中で彼はこう語っている。
「デューク・エリントンは(音楽を)いかなるジャンルにも分類しませんでした。彼にとって音楽には2種類しかなかった。良いか悪いかです。私はデューク・エリントンと同じ考えです」
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ポップスからジャズ、音楽教育まで
リチャード・デイヴィスの名はポピュラー音楽の聴衆にはさほど知られていないかもしれないが、彼が演奏したレコードの数々、とりわけプラチナ・セールスを記録した、ブルース・スプリングスティーンの『Born To Run』、ポール・サイモンの『There Goes Rhymin’ Simon』、ヴァン・モリソンの『Astral Weeks』、ジャニス・イアンの『Between The Lines』らのポップ・ロックの傑作は間違いなく広く知られている。これらのポップスやロック作品での仕事は、確かに彼にとって経済的な助けとなり、その名を世に知らしめるきっかけとなった一方で、彼の心は常にジャズと共にあり、トランペットのパイオニアであるルイ・アームストロングやディジー・ガレスピー、ジャズ・シンガーのサラ・ヴォーンや前衛の魔術師エリック・ドルフィーまで、ジャズ界の大物たちと共演を果たしてきた。
深みのある豊かな音色と巧妙な演奏技術(指弾き、弓弾きどちらも同じくらい巧みにこなす)で有名なリチャードは、アコースティック・ベースとエレクトリック・ベースを交互に弾きこなす名手であり、サイドマンとしての需要も高かった。
また、時間を見つけては、ジョン・コルトレーンの元ドラマーとして知られるエルヴィン・ジョーンズやビブラフォン奏者のウォルト・ディッカーソン、サックス奏者のアーチー・シェップらとコラボレーションしながら、自身の名義で20作以上のアルバムをレコーディングした。彼はまた、ロシア系アメリカ人の作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキー(彼はリチャードの演奏技術を“神のようだ”と評したと言われている)と仕事を共にし、レナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズ、レオポルド・ストコフスキーといった著名指揮者のもとでも演奏してきた。
1977年にウィスコンシン大学マディソン校の音楽教授に着任したリチャード・デイビスは、以来39年もの間同校に在籍。自身の知識と知恵を伝えることを強く重んじていた彼は、「私は教えることが大好きなんです。自分の持っているものを分かち合うべきだと信じています」と語っていた。
その生涯
1930年4月15日にシカゴで生まれたリチャード・デイビスは、彼の母親が愛聴していた78回転のジャズ・レコードのコレクションのおかげで、幼い頃から音楽に夢中になり、四六時中没頭していた。実際に音楽活動を始めたのは、従兄弟の指導のもと、ファミリー・メンバーによるヴォーカル・トリオで歌ったのが最初だったが、楽器を手にしたいという衝動に駆られたのは彼が15歳の時だった。
子供の頃は恥ずかしがり屋で、サックスやトランペットのような目立つ楽器に惹かれることはなかったが、地元のデュ・セーブル高校に通っていた時の同級生には、後にスター・サックス奏者となるクリフォード・ジョーダンやブルースマンのボ・ディドリー(当時はエラス・マクダニエルとして知られていた)がいる。彼は、2022年に行われたスティーブ・クラクフとのインタビューの中で、自らが魅了されたアップライト・ベースについて「ベースはいつも後ろの方にあって、私はシャイな子供だったから、自分も背景になりたいと思ったんだ」と語っていた。
彼はイリノイ州兵第8連隊歩兵音楽隊の元リーダー、ウォルター・ダイエット大尉の指導を受けた。ウォルターは厳格で厳しい規律主義者だったが、その教えにインスピレーションを感じたリチャードは彼を、“夢に見るような先生”だったと評している。ジャズとクラシックに精通し、ナット・キング・コールやダイナ・ワシントンを教え子に持つウォルター大尉は、リチャードがあらゆるスタイルの音楽の良さを理解する手助けをし、彼が後に教職に就くきっかけになった人物でもある。
リチャードがキャリア初期において影響を受けたのは、オスカー・ペティフォード、ジミー・ブラントン、スラム・スチュアート、ミルト・ヒントンといったジャズ・ベースのパイオニアたちだったが、クラシック音楽の世界にも身を投じたいと考えた彼は、シカゴ交響楽団のコントラバス奏者ルドルフ・ファスベンダーの個人レッスンを受けた。
高校卒業後、彼はヴァンダークック音楽大学に入学し、音楽教育の学士号を取得したが、その傍らで、腕を磨くためにシカゴ市内のジャズ・クラブやバーで演奏していた経験が、後にサン・ラを名乗ることになるインスピレーション溢れるピアニスト、ソニー・ブラウントとの仕事に繋がっていく。2人が初めて出会った時、サン・ラは彼にこう言った。
「君はまだ準備が出来ていないから、私は君を月まで連れて行くつもりはない」
その言葉は若き日の彼の心を揺さぶり、同時に彼はサン・ラが深い精神的なレベルで音楽と向き合う神秘主義者であることを知った。そしてこの知覚は、リチャード自身の音楽へのアプローチに大きな影響を与えていく。
1952年、新進気鋭のピアニスト、アーマッド・ジャマルのトリオに参加したことが、彼にとって大ブレイクのきっかけとなった。それから2年後、ピアニスト、ドン・シャーリーのグループに移籍したリチャードは、初めてニューヨークへと渡り、そこで彼はドンとのデュエット・アルバム『Tonal Expressions』でレコーディング・デビューを果たした。最初のうちは、才能あるミュージシャンがひしめくニューヨークの街に怯えていたことを彼はのちにこう明かしている。
「すでにニューヨークで地位を確立しているベーシストが、ベースを持っている私を見て、“どこへ行くんだ、小僧”と声をかけてくるんじゃないかといつも思っていた」
人気ミュージシャンへ
そんな彼の心配をよそに、その完璧な演奏技術と優れた読譜力とが相まって、彼は瞬く間にビッグ・アップルを制覇し、人気ミュージシャンとして名を馳せていく。
ソーター・フィネガン・オーケストラで何度か演奏した後、1957年にドラマーのロイ・ヘインズの推薦でサラ・ヴォーンのバンドに加入した彼は、彼女のトリオのメンバーとして、代表作『Swingin’ Easy』を含む4作のアルバムを録音。
サラ・ヴォーンの伴奏を5年間務めた後、リチャード・デイヴィスは別の挑戦を求めるようになる。彼は、歴史家のテッド・パンケンとに、当時前衛ジャズ・シーンの新星だったエリック・ドルフィーとニューヨークの地下鉄のホームで偶然出会った時のことをこう回想している。
「彼が“来週は何をしているんだ”と尋ねてきて、私は“特に何も”と答えた。そしたら彼は“一緒にファイブ・スポットに行かないか”と言ったんだ」
エリック・ドルフィーのバンドに加入したリチャード・デイビスは、すぐにフリー・ジャズ、あるいは当時“ニュー・シング”と呼ばれていた演奏スタイルに魅了されていく。彼は2021年に行われたピーター・ジマーマンとのインタビューで次のように説明している。
「コード進行に縛られることに抗い、スケールやリズムの制約から自由になろうとしていた。特定の音符やコードに縛られることは、ある意味、権力者の奴隷になることだ」
彼はエリック・ドルフィーと、1963年の『Iron Man』と1964年の『Out To Lunch!』という2作のアルバムを録音した。ブルーノートからリリースされた後者は、アヴァンギャルド・ジャズにおける画期的な作品としてすぐに評価された。このアルバムのライナーノーツの中で、エリック・ドルフィーは、リチャード・デイビスの独自性について、「リチャードは平凡なベース・パターンを弾かない。彼は自分のラインでリズムを奏でる。彼は私たちをどこか別の場所へと導いてくれるんだ」と評している。
60年代の活躍
ジャズの最先端を行っていたリチャード・デイビスの関心は、同時期に、ヴィブラフォン奏者のボビー・ハッチャーソン、ドラマーのトニー・ウィリアムス、異端的なピアニスト/作曲家のアンドリュー・ヒルなど、音楽の壁を打ち破ろうと決意した他のパイオニアたちとの活動にも反映されており、彼らとは1963年から1969年にかけて、ブルーノートからのアイコニックなアルバム『Point Of Departure』を含む7作のアルバムをレコーディングした。
一方で、リチャードが60年代に関わったすべてのプロジェクトが、ジャズの境界線を押し広げようとするものだったわけではない。彼は、生計を立てるために多くの広告用のジングルを録音し、何十ものメインストリーム作品のレコーディングに参加した。ベテランのアルト・サックス奏者ジョニー・ホッジス、R&Bシンガーのルース・ブラウン、ラテン・ジャズ・パーカッショニストのウィリー・ボボのセッションなど、彼の仕事は多岐にわたったが、それらはすべて、ジャンルを超えた興味と順応性の高いミュージシャンとしての彼の名声の高まりを反映していた。
1967年、彼は、ジョン・コルトレーンの元ドラマー、エルヴィン・ジョーンズとの共同名義でアルバム『Heavy Sounds』を発表。その収録曲の中でも、とりわけジョージ・ガーシュウィンの「Summertime」の素晴らしいヴァージョンで、彼はその弓弾きと指弾きの妙技を存分に発揮している。また、1969年にはドイツのMPSレーベルから、ポスト・バップのスター達とのセッションを収めたソロ・デビュー作『Muses For Richard Davis』を発表している。
この時点で、リチャード・デイビスの名はジャズ界以外でも知られるようになっていたが、それは前年に彼が参加したヴァン・モリソンのアルバム『Astral Weeks』によるところが大きかった。リチャードの流暢ながらも揺るぎないベース・ラインは、ヴァン・モリソンの曲の自由奔放なエッセンスを表現する上で極めて重要な役割を果たしており、著名なロック批評家、グリール・マーカスが「ロック・アルバムで聴かれた最高峰のベース」と称賛したほどだ。2008年には、同アルバムのプロデューサーであるルイス・メレンシュタインが、リチャードが“アルバムの魂”を提供しているとまで語っている。
ロックへと向かい教員となった70年代
ポール・サイモン、ジャニス・イアン、メラニー、ローラ・ニーロ、ジュディ・コリンズなど、多くのアメリカのシンガー・ソングライターが『Astral Weeks』での成功を賞賛し、彼らの作品への参加を求めて列を成した70年代は、彼のソロ・キャリアにおいても実り多き10年となった。彼はアヴァンギャルドから正統派まで、様々なレーベルのスタジオ・アルバムやライヴ・アルバムのレコーディングに参加した。
70年代に入り、メインストリームの趣向がジャズから遠ざかり、ロックへと向かった結果、多くのジャズ・クラブが閉店を余儀なくされる中、リチャード・デイビスはウィスコンシン大学での教職のオファーを受け、アカデミックな世界へと足を踏み入れた。彼は1979年のOn Wisconsin誌のインタビュー記事の中で、その経緯をこう振り返っている。
「マディソンにある大学で仕事をしないかという電話をもらったんです。キャンパスにベースの教師がいなかったから。マディソンがどこにあるのかも知りませんでした。でもこの大学から何度も電話がかかってきたので、マディソンについて知っている人がいないか訊いて回りました。マーティン・ルーサー・キング牧師は、人に教えることの重要性を説いていたので、今がその時なのかもしれないと思いました」
教職に専念するようになったリチャードの正式な肩書きは、ベース(ヨーロッパのクラシック音楽とジャズ)、ジャズ史、コンボ・インプロヴィゼーションの教授となり、レコーディング・セッションに参加することはもとより、ツアーに出ることもたまにしかなかった。しかし、彼は演奏をやめることはなかった。彼はすぐに、デュ・セーブル高校時代の恩師であるウォルター・ダイエットに倣い、厳しいながらも公平な教師としての評判を得ていく。彼は後にこう語っている。
「私は人格を教えています。最後までやり遂げることと努力することが私にとって一番大事なことなのです。世界があなたを待っているわけではない。世の中は才能ある人で溢れています」
以降、彼は若い才能、特にベース奏者の育成に全力を尽くした。1993年、彼は“リチャード・デイビス・ファウンデーション・フォー・ヤング・ベーシスト”という名の基金を立ち上げ、3歳から18歳までの最大100人のミュージシャンを対象とした年次合宿イベントを主催した。彼が、彼のクラスから生まれた多くのミュージシャンを誇りに思っていた。最も有名な彼の生徒の中には、フリー・ジャズ・ベーシストのウィリアム・パーカーや、ベーシストで作曲家、作家、教育者でもあるのカール・E・H・シーグフライドがいる。
情熱的な社会活動家であり、生涯を通じて人種差別を真っ向から批判してきたリチャード・デイビスは、1977年に教鞭を執り始めた当時、学生の97%が白人だった同大学の人種的多様性の促進にも貢献した。彼は『Racial Conditioning(人種的条件づけ)』と題したワークショップなどを開催した他、マイノリティの学生の在籍を保持するため、1998年に“Retention Action Project (RAP)” をローンチ。彼はまた、異なる民族的背景を持つ人々の率直な対話を通じて、人種間の結束を促進するために特別に設立された組織“Madison Institute for the Healing of Racism”も設立している。
彼は、音楽家や教授以外にも熱心な馬術家としての顔を持っていた。彼の馬への愛情は9歳の時に芽生え、シカゴの馬小屋で若き日のボ・ディドリーと一緒にアルバイトをしたこともあった。彼は馬場馬術や障害飛越競技にも出場し、ウィスコンシン州に移住してからはしばらく馬の繁殖にも携わっていた。
存在感を示していたベーシストとして
しかしながら、やはりリチャード・デイビスが最もよく記憶されているのは、ミュージシャンとしての功績だろう。彼は、1967年から1974年までの7年連続で、影響力のあるジャズ雑誌“Downbeat”のベスト・ベーシストに選ばれた他、2014年にはNEA(全米芸術基金)ジャズ・マスターズを受賞するなど、現代ジャズの偉大なミュージシャンの一人としての地位を確固たるものにした。
彼の最後のレコーディングは、2009年に日本のみでリリースされたピアニスト、故ジュニア・マンスとのデュオによる『Blue Monk』だ。その6年後、彼はウィスコンシン大学での教職を退いたが、以降も若手ベーシストのための年次合宿イベントには尽力し続けた。
エリック・ドルフィーのコラボレーターとして前衛的なジャズを演奏していた時も、ビバップ・サックス奏者のソニー・スティットの後ろでウォーキング・ベース・ラインを弾いていた時も、ブルース・スプリングスティーンやブルースマンのジョシュ・ホワイト、ラテン・ポップ・アイドルのホセ・フェリシアーノといったさまざまなシンガーの伴奏をしていた時も、彼の深い響きを持ったベース・ラインは常に、グルーヴと結束力をもたらす独特の音楽的存在感を示していた。特にジャズにおける彼の貢献は、ベースをタイムキーパーとしての役割から解放し、より多目的で表現力豊かな楽器とした先駆者の一人である。
そして、おそらく彼の最大の強みは、その音楽的感性の中核にあるジャンルの流動性だろう。彼の資質に驚嘆したジャズ・ベーシストで教育者のルーファス・リードはこう述べている。
「リチャードは想像しうるあらゆる音楽の場で演奏してきた。交響楽団での演奏、ジングルの録音、ジャズ・レコードのレコーディング、そしてニューヨークのヴィレッジのクラブでの夜が明けるまでの演奏…彼は1日にその全てをこなしていたかもしれない」
Written By Charles Waring
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