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カントリー界のヒットメイカーで俳優のミッキー・ギリーが86歳で逝去。その功績を辿る

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Mickey Gilley photo - Courtesy: GAB Archive/Redferns

アーバンカウボーイ・ムーブメントの隆盛に貢献したカントリー界のヒットメイカーで、俳優としても活躍したミッキー・ギリー(Mickey Gilley)が5月7日、ミズーリ州ブランソンで逝去した。86歳だった。

彼は、今年4月に10公演を行なった最新ツアーから戻ってきたばかりだったが、先週、体調を崩し、家族や親しい友人たちに見守られながら安らかに息を引き取ったという。この訃報は、ナッシュビルの長寿ラジオ番組“グランド・オール・オプリ”の中でも伝えられた。

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Mickey Gilley – "Stand By Me"

ミッキー・ギリーと同世代のカントリー・スターであるT.G. シェパードは、自身のソーシャルメディアで次のように追悼を捧げている。

「彼は真の意味でカントリー・ミュージックの歴史を変えました。私は幸運にも3週間前に行われた彼の最後のコンサートのひとつを観ることができました。シンディやご家族、そして彼のファンの皆様に、心からお悔やみ申し上げます」

その生涯

ミッキー・ギリーは、1936年3月9日にミシシッピ州ナッチェスで生まれ、ルイジアナ州フェリデーで育った。ロックンロールの元祖ジェリー・リー・ルイスとテレビ伝道の先駆者として知られるジミー・スワガートを従兄弟に持つ彼は、彼らと共にブギウギ・ピアノを弾きながら育ち、大人になってからも昼間は建設業に勤しむ傍ら、地元ルイジアナのナイトクラブで演奏していた。

1968年にポーラ・レーベルからリリースした「Now I Can Live Again」で、自身初の米カントリー・チャート入りを果たしたミッキー・ギリーは、その後のキャリアを通して全46曲を同チャートに送り込んだ。

彼が歌手として本格的にブレイクしたのは、1971年に共同経営者のシャーウッド・クライヤーとテキサス州パサデナにナイトクラブ“ギリーズ”をオープンして以降のことで、彼の音楽的成功に後押しされ、同クラブは全米にチェーン展開されるほど人気を博していった。

1980年に公開されたジョン・トラボルタとデブラ・ウィンガー主演の映画『アーバン・カウボーイ』は、ジャーナリストのアーロン・レイサム(後に映画の脚本も手掛けた)が、有名なロデオ・マシンが置かれていた同クラブの常連客2人の恋愛関係について書いたエスクァイア誌の記事から着想を得て製作され作品だが、1982年にミッキー・ギリーはこう語っている。

「“アーバン・カウボーイ”には感謝してもしきれません。あの映画は私のキャリアに大きな影響を与えましたし、今でもそうです」

ミッキー・ギリーは、1974年にプレイボーイ・レーベルからリリースした1949年のサミー・ケイのポップ・ヒット「Room Full Of Roses」のカヴァーで、自身初のカントリー・チャート1位を獲得し、その後も「I Overlooked An Orchid」、「City Lights」、「Window Up Above」での3曲連続No.1を含む全17曲が同チャートの1位を飾る快挙を成し遂げた。

Mickey Gilley "Room Full of Roses"

さらに、『ジェシカおばさんの事件簿』『俺たち賞金稼ぎ!!フォール・ガイ」『ファンタジー・アイランド』『爆発!デューク』などの米ヒット・ドラマに出演するなど俳優としても活躍したミッキー・ギリーは、過去に6度のアカデミー・オブ・カントリー・ミュージック賞に輝き、ハリウッドの殿堂入りをしている他、2011年にはテキサス・カントリー・ミュージックの殿堂入りを果たしている。

1986年の「Doo-Wah Days」が彼にとって最後のTOP10ヒットとなったが、ブランソンにあるミッキー・ギリー・グランド・シャンハイ・シアターの運営に携わるなど、その後もカントリー界ではその存在感を示していた。

Doo Wah Days

Written By Paul Sexton




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