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レゲエ界を代表するアーティスト、リー・“スクラッチ”・ペリーが85歳で逝去。その功績を辿る
ダブのパイオニアとしてレゲエ界に多大な貢献を果たした伝説的プロデューサー兼パフォーマーのリー・“スクラッチ”・ペリー(Lee “Scratch” Perry)が2021年8月29日に85歳で逝去した。ジャマイカのメディアは、彼が母国の病院で息を引き取ったと報じている。
ジャマイカの野党である人民国家党党首のマーク・ゴールディングは、自身のソーシャルメディアで次のように追悼を捧げている。
「ジャマイカは、我が国が誇る最も独創的な音楽の天才の一人であるリー・“スクラッチ”・ペリーの功績を称えます。プロデューサーやアーティストとして彼が残した膨大な作品群は、その影響力を裏付けるものです。彼の楽曲のユニークなタッチと感覚は、この国で最も愛されるポピュラー音楽を豊かにしてくれました」
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その生涯
1936年3月、ジャマイカ北西部のハノーバー教区にある小さな町、ケンダルでレインフォード・ヒュー・ペリーとして生まれた彼は、15歳で学校を退学してキングストンへと移り住み、1959年に音楽の道を歩み始めた。当時について彼は、「畑仕事以外には何もすることがなかったので、ドミノ(ゲーム)を始め、人の心を読むことを学んだ」と振り返っている。
彼の音楽界での最初の仕事は、有名なレゲエ・レーベルであり、レコーディング施設も兼ね備えていたスタジオ・ワンのアシスタントであり、著名音楽プロデューサーとして知られるクレメント・“コクソン”・ドッドに雇われていた。そんな彼の生涯のニックネーム“スクラッチ”は、1965年に録音した「Chicken Scratch」に由来している。
1960年代後半、レゲエが世界的な広がりを見せ、特にイギリスで多くのクロスオーバー・ヒットを記録する中、リー・ペリーのハウスバンドであるジ・アップセッターズ は、1969年にトロージャン・レコードからデビュー・アルバム『The Upsetter』を発表。
同年、バンドはリー・ペリーが作曲したインストゥルメンタル曲で、レゲエの名曲として知られる「Return of Django」を発表。B面に「Dollar in the Teeth」を収録した同シングルは、イギリスで5位にランクインした。バンドは1970年に入ると、『Clint Eastwood』を含む5作のアルバムを立て続けにリリース。その後、リー・ペリーはソロ名義で作品を制作するようになり、2021年だけでも4作のアルバムを発表するなど、その生涯において驚異的な多作ぶりを発揮した。
イギリスのアヴァン・ポップ・バンド、ハイ・ラマズの中心人物ショーン・オヘイガンは、1997年のガーディアン紙のインタビューでリー・“スクラッチ”・ペリーについてこう語っていた。
「(1970年代の)ペリーは多作だったと言っても過言ではないでしょう。完璧なミックスにこだわる彼の姿勢は、‘Police and Thieves’の少なくても7つのヴァージョンをはじめ、同様に並外れた‘Bad Weed’、ボブ・マーリーのシングル‘Keep On Movin’’の12ものミックスを生みました。ただ、スピード感とライヴ感に溢れたダンスホール・レゲエがメインストリームになりつつあった同時の当時のジャマイカの聴衆にとって、彼の異世界の音楽は、あまりにも洗練されていて、あまりにも突飛なものに思えたのか、彼の天才的な作品に耳が傾けられることはありませんでした」
1969年11月、英メロディ・メイカー誌でライターのクリス・ウェルチが、「レゲエ:新しい芸術のかたちか?」という見出しの特集を組んだ際、ジ・アップセッターズについては次のように記されていた。
「インストゥルメンタル曲‘Return Of Django’のヒットによって、レゲエがチャート入りするきっかけをつくった現在のレゲエ・インベージョンの先駆けである。ソングライター、プロデューサーとしてグループを率いるリー・ペリーは、ヴォーカリストとしても活躍。彼らの初の英国ツアーは11月末にスタート。ソングライターとしてそのキャリアをスタートしたリー・ペリーは、自身のヒット曲‘People Funny Boy’や‘Jackpot’のプロデュースを手掛けていく。ジョニー・ムーア、ヴァル・ベネット、ウィンストン・ライト、J・ジャクソン、ハックス・ブラウン、イージー・ベックフォード、ボブ・エイトケンズを引き合わせて結成したジ・アップセッターズは、彼に初の全英チャート・ヒットをもたらした」
ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズを早くから支持
リー・ペリーは、1970年にボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのシングル「Mr.Brown」をプロデュースするなど、早くから彼らを支持し、その後もマックス・ロメオ、ジュニア・マーヴィン(前述のヒット曲「Police and Thieves」を共作した)、ヘプトーンズなど、レゲエ界の著名アーティストたちのプロデュースを手掛けていく。1973年には、自身の新たなスタジオ兼レーベル“ブラック・アーク / Black Ark”を設立した。
リー・ペリーの名声と影響力は、レゲエとるニュー・ウェイヴの結びつきを強め、とりわけ「Complete Control」を共同制作したザ・クラッシュとの関係はよく知られている(ザ・クラッシュは彼らのファースト・アルバムで「Police and Thieves」をカヴァーしている)。
リー・ペリーはその他にも、モービー、スリッツのアリ・アップ、エイドリアン・シャーウッド、スライ・ダンバー(スライ&ロビー)、バーニー・ウォーレルなど、数え切れないほど多くの多様なミュージシャンたちと仕事を共にした。2010年には自身初のアート展を開催し、2011年にはベニチオ・デル・トロがナレーションを務めたリー・ペリーのドキュメンタリー映画『The Upsetter』が公開された。
1985年にスピン誌は、ボブ・マーリーが友人のリー・“スクラッチ”・ペリーが怒っていると言われた時「彼は怒っているわけではなくて、ただスクラッチしているなんだ」と答えたと報じている。人生においても仕事においても真の異端児だったリー・ペリーは、1990年にタイムズ紙の取材に次のように語っていた。
「スタジオは生き物のようでなければならない。機械は生きていて、知的な存在であるべきなんです。そして私は、コントロールやつまみを通して、あるいはパッチ盤に自分の精神を機械に送り込む。パッチ盤は頭脳そのものであり、頭脳は繋がれたケーブルからあなたが送り込んだものを受け取って生きられるんです」
Written By Paul Sexton
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