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レディスミス・ブラック・マンバーゾの創設者ジョセフ・シャバララが78歳で逝去。その半生を辿る
南アフリカを代表する男性コーラス・グループでアフリカの“文化大使”でもあった、レディスミス・ブラック・マンバーゾの創設者で、音楽監督を務めたジョセフ・シャバララが2020年2月11日、78歳で逝去した。
レディスミス・ブラック・マンバーゾは、グループ結成から20年以上、
“そっと歩く”と言う意味を持つズールー語に由来するそのグループ名は、
1955年に缶と木板で自作したギターがジョセフ・シャバララにとって音楽に道に進む第一歩となった。その後ダーバンへと移住し、機械工として働き始めたが、実際に彼が音楽シーンに深くのめり込んでいったのはレディスミス・ブラック・マンバーゾの前身となるグループを結成したことがきっかけだった。彼らの結成年には、1960年、もしくはネルソン・マンデラが国家反逆罪で収監された1964年など諸説ある。
レディスミス・ブラック・マンバーゾは、地元で開催されたのど自慢大会で披露したズールー語の移民労働者の音楽である“イシカタミア”のパフォーマンスが高く評価され、その後1972年の南アフリカの老舗レーベルGalloとのレコード契約へと繋がっていく。彼らのデビュー・アルバム『Amabutho』は南アフリカ出身の黒人ミュージシャンとしては初のゴールドディスク獲得という偉業を達成し、そのシアトリカルなパフォーマンスから放たれる粘りっ気のある歌声の評判はより広く知れられていった。
ポール・サイモンに招かれ、彼の名盤『Graceland』の代表曲とも言える「Diamonds on the Soles of Her Shoes」と「You Can Call Me Al」に参加したことで、レディスミス・ブラック・マンバーゾは世界的な知名度と名声を獲得。同アルバムが、アパルトヘイト政策を行っていた当時の南アフリカ共和国に対する文化的ボイコットを妨害するものとして、ポール・サイモンを批判する声もあった中、ジョセフ・シャバララは毅然たる態度でポール・サイモンを称賛した。
「神がポール・サイモンにこの作品を作らせたのです」とジョセフ・シャバララは後に行われた英Qマガジンのインタビューで語っていた。「人々は、彼の作品づくりを中断させられなかったのは、彼が神によってあと押しされているからだ、ということに気付いていないのです。彼はボイコットを妨害したかったわけではありません。ただ神が彼を利用したのです」
数百万枚の大ヒットを記録したこのアルバムの成功は、1987年にポール・サイモンがプロデュースを手掛け、ワーナー・ブラザースからリリースされた彼らの全米デビュー・アルバム『Shaka Zulu』へと繋がっていく。この作品はグラミー賞で“最優秀トラディショナル・フォーク・レコーディング”を受賞し、彼らの名は当時広がりをみせていた新たな音楽ジャンル“ワールド・ミュージック”の代名詞にまでなった。
その後、1990年代後半にはイギリスのA&Mレコードと契約を交わしたレディスミス・ブラック・マンバーゾは、ドリー・パートンのアルバム『Treasures』へのゲスト参加やゴールド・ディスクを獲得した1997年のアルバム『Heavenly』での成功、また彼らの楽曲が大手食品メーカーのハインツのTVコマーシャルに起用されたことも手伝って、再ブレイクを果たした。翌1998年に発表したベストアルバム『The Best of Ladysmith Black Mambazo – The Star and the Wiseman』はトリプル・プラチナを記録している。
近年もツアー活動を続けているレディスミス・ブラック・マンバーゾは、これまでに5度のグラミー賞を受賞、2018年には『Shaka Zulu』の30周年記念盤がリリースされた。ジョセフ・シャバララは、晩年健康状態の悪化に悩まされ、2014年に引退していたが、アフリカ文化の普及に彼が果たした貢献は誰もが認めるところだ。
Written By Paul Sexton
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