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“ブリティッシュ・ブルースのゴッドファーザー”、ジョン・メイオールが90歳で逝去。その功績を辿る

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Photo: Michael Putland/Getty Images

“ブリティッシュ・ブルースのゴッドファーザー”、ジョン・メイオール(John Mayall)が90歳で逝去した。シンガーソングライターであり、マルチ・インストゥルメンタリストでもあった彼は、ザ・ローリング・ストーンズ、アニマルズ、ヤードバーズといったバンドを生んだ60年代のブリティッシュ・ブルース・シーンの中心人物だった。

イングランド北西部チェシャー州出身の彼は、ロンドンを拠点に長く活動したザ・ブルースブレイカーズを率いて名声を高め、その先駆的なブルース・ロック・サウンドを通して、エリック・クラプトン、ザ・ローリング・ストーンズのミック・テイラー、フリートウッド・マックのミック・フリートウッド、ジョン・マクヴィー、ピーター・グリーンといった英ロック界の多くのスターたちを世界に紹介した。

親しいコラボレーターたちは、彼が情熱的で学術的なブラック・アメリカン・ミュージックの信奉者であり、同時代の英国人ミュージシャンたちをロックの礎のひとつであるブルースに傾倒させたと記憶している。ミック・フリートウッドは、2015年にオーストラリアのFairfax Mediaのインタビューで、「ジョン・メイオールの家に行くと、そこはブルースの神殿だった。彼はまるで学校の先生のようにその場に私を座らせ、レコードを出してくるんだ」と回想していた。

エリック・クラプトンはまた、自身の自伝の中で、ミック・フリートウッドのジョン・メイオールに対する印象を、「長いカーリーヘアーにあごひげを生やし、イエスとは似ても似つかない風貌の彼は、クールでありながら、皆から好かれる校長先生のような雰囲気を漂わせていた。彼は酒を飲まず、健康食の狂信者であり、私が出会った最初のちゃんとしたベジタリアンだった」というエキセントリックな指導者として記憶している。

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Crawling Up A Hill (Live At Klooks Kleek, London / 1964)

 

ミュージシャンズ・ミュージシャン

10代の頃に聴いたシカゴやミシシッピのブルース・レコードに触発されたジョン・メイオールは、アメリカの芸術様式に多大な恩恵を受けつつも、英国独自のソングライティング・スタイルを確立していった。

彼は北部のアクセントで歌い、ギター、ピアノ、ハーモニカなどの楽器の演奏を独学で学び、その60年に及ぶキャリアの中で、約70作ものアルバムを発表した。60年代から70年代にかけては、その独特なブルース作品で、UKとアメリカのロック・チャートに名を連ね、中でも1969年のアコースティック・アルバム『The Turning Point』はアメリカでゴールド・アルバムに認定されている。

浮気な女性や不運といったブルースの伝統的なテーマに固執する代わりに、彼は自身を取り巻く世界について書くことで際立つ存在となった。1970年の「Nature’s Disappearing」は公害についての曲で、同年の「Plan Your Revolution」では建設的な政治的・社会的変革について歌った。

Nature's Disappearing

近年では、2014年の 「World Gone Crazy 」で、宗教的対立と戦争の関係を掘り下げている。彼は2014年のガーディアン紙の取材にこう語っている。

「ブルース・シンガーは自分の人生について歌うべきだ。ブルースは他人の真似をするものだと思ったことはない。自分の人生を音楽で表現することを考えなければならない」

WORLD GONE CRAZY

ジョン・メイオールは、そのキャリアの大半を“ミュージシャンズ・ミュージシャン”(※一般的な知名度は必ずしも高くないが、ミュージシャンからの支持が厚いミュージシャン)として過ごし、有名なブルース・アカデミーを卒業したアーティストたちには知名度で追い越される運命にあったが、「それが私の人生の物語なんだ。私は今日でもアンダーグラウンドな存在で、一般大衆にはあまり知られていないんだ」と2016年に出演したABCラジオで語っていた。

ただ、だからといって、彼がロックやブルースに与えた影響が大きくないわけではない。ガーディアン紙は2014年の記事の中で、「ジョン・メイオールほど、ブルースの歴史に残る名士と呼べる英国人はいない」と彼の功績を称えている。

 

キャリア初期

ジョン・ブラムウェル・メイオールは、1933年、チェシャー州マックルズフィールドで、マーレイとベリル・メイオールという両親のもとに生まれ、3人兄弟の長男として育った。父親はジャズ愛好家で、78回転レコードや弦楽器を収集するアマチュア・ミュージシャンだった。

10歳の時、戦時中の映画スターで英国人歌手のジョージ・フォーンビーに触発された彼は、家にあったウクレレを手に取り、独学で演奏を始めた。15歳の頃、すっかりジョージ・フォーンビーに夢中になっていた彼は、1920年代のテキサスで生まれたブルースをベースにしたピアノ主体のダンス・ミュージックである“ブギウギ”に興味を持つようになり、自宅にあったピアノでブルースの曲を独学で弾き始め、ショーウインドーの飾り付けのアルバイトで稼いだお金でリード・ベリーやブラインド・レモン・ジェファーソンといったアメリカ人アーティストのレコードを購入していた。

ジョエル・マキヴァーと共同執筆した2019年の自伝『Blues From Laurel Canyon』の中で、「私のレコード・コレクションは、ピアノへの執着を反映したもので、“ブギ”という言葉が入っているレコードなら何でも集めていた」と当時を回想している。

英国軍に入隊し、2年間の韓国駐留中に艦隊バンドでギターを演奏した後、故郷マックルズフィールドに戻り、知人の家のリビングで演奏したブギウギのピアノ曲をそのままディスクに録音したのがジョン・メイオールにとって最初のレコーディングだった。

その後5年間、彼はマンチェスターのリージョナル・カレッジ・オブ・アートで写真を学び、ブラックフライヤーズ・ソサエティ・ジャズ・バンド、ハウス・オブ・サウンド、パワーハウス・フォーといった地元のブルースやジャズのグループで継続的に演奏した。

また、マンチェスターのフリー・トレード・ホールでのコンサート・フォトグラファーの仕事を通じて、ネットワークを広げ続けた彼は、彼のアイドルの一人であるテネシー出身のカントリー・ブルース・ミュージシャン、ブラウニー・マギーのプライベート・コンサートを自宅で主催したこともあった。

ブルース・インコーポレイテッドとの出会い

1960年代初頭、広告代理店でタイポグラファーとして働いていたジョン・メイオールは、当時ロンドンのバーやクラブ・シーンを席巻していた新しいサウンドに興味を持つようになる。 ブルース・インコーポレイテッドやシリル・デイヴィス・オール・スターズといったバンドに代表されるこのサウンドは、ロックンロール、ジャズ、アメリカのリズム&ブルースを融合させた騒々しいものだった。

1962年にブルース・インコーポレイテッドがマンチェスターで行ったライヴを観た後、イギリスのバンドがこれほどまでにアメリカのフィーリングを持った音楽を作れることに衝撃を受けたことを明かしており、「アイデアと野心に胸を躍らせながら家に帰った」と自伝の中で綴っている。

そして、この日のライヴを啓示として体験したのは彼だけではなく、ライヴ後、気心が合った地元のミュージシャンの数人から、アメリカのブルースを素材にした新しいバンドの結成を持ちかけられることになる。そうして誕生したバンド“ブルース・シンジケート”で歌とピアノとハーモニカを担当したジョン・メイオールは創作面の核となり、彼が書いたオリジナル曲と正統派のアメリカン・ブルースのカヴァーを融合させた。

リヴァプール出身のザ・ビートルズが音楽シーンでブレイクしたばかりだった当時は、イングランド北西部出身の若いミュージシャンにとっては刺激的な時代だった。「ビートルズは、アメリカを襲う次の影響力のある波への道を開いた。UKはブルースを取り入れていった」と彼は自身の回顧録に記している。

ついにマンチェスターで、後にクリームのメンバーとなるジャック・ブルースやジンジャー・ベイカーが在籍していたブルース・インコーポレイテッドのオープニングを務めることになったブルース・シンジケートのライヴ後に、フロントマンのアレクシス・コーナーからロンドンへの移住を勧められたジョン・メイオールは、その数週間後にロンドンに移り住み、すぐにジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズという新たなバンドを結成。

ウェスト・ロンドン出身のベーシスト、ジョン・マクヴィーを含むラインナップに落ち着いた後、バンドはフラミンゴやマーキーといった人気のナイトスポットを中心としたロンドンのR&Bシーンで、瞬く間に人気を獲得していった。彼は2013年のUltimate Classic Rockのインタビューで当時をこう回想している。

「ロンドンのクラブでキャリアをスタートさせ、そこから活動を広げていこうとする人たちが国中から集まってきて、とても活気があった。ニューカッスル出身のアニマルズ、バーミンガム出身のスペンサー・デイヴィスやスティーヴ・ウィンウッドもそう、いろんなところから人が集まってきたんだ」

 

ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズと“ブルース・ロック”の幕開け

やがてジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズは、当時ザ・ローリング・ストーンズが在籍していたロンドンの名門レーベル、デッカの目に留まった。後に彼の代表曲のひとつとして知られることになるハイテンポなブルース進行と泣きのハーモニカが印象的な「Crawling Up a Hill」は、1964年のリリース当時はあまり大きな話題にはならなかったが、ジョン・メイオールの生涯の友となるアメリカのブルース・レジェンド、ジョン・リー・フッカーとのUKツアーを経て、バンドの知名度は着実に上がり続けた。

彼は2019年のウェブメディアPennyblackmusicの取材にこう語っている。

「自分たちのヒーローと一緒に仕事をするのは素晴らしい経験なんだ。座って話さなくても、それを経験するだけで、ダイナミクスについて彼らから多くを学ぶことができる」

ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズは、熱のこもったエネルギッシュなライヴ・パフォーマンスですぐに知られるようになった。 彼らのロンドンのクラブ“ルックス・クリーク”でのライブ音源は、デッカからの最初の作品『John Mayall Plays John Mayall』として1965年にリリースされた。

I Need Your Love (Live At Klooks Kleek, London / 1964)

 

エリック・クラプトンとの出会い

ジョン・メイオールはその頃までにバンドのラインナップを大きく変え、ヤードバーズでの活動を経て建設現場で働いていたサリー生まれの20歳のギタリスト、エリック・クラプトンを加入させた。

クラプトンのまばゆいばかりのフレットワークと魅力的なステージングは、バンドに新たなエネルギーを吹き込んでいった。彼は回顧録の中で「エリックの加入後、私たちの知名度は上昇した。エリックのおかげで、ライヴのたびに女の子がたくさん来るようになった」と書き記している。

11歳という年齢差にもかかわらず、エリック・クラプトンとすっかり意気投合したジョン・メイオールは、Forbes誌のインタビューの中でエリックについて、「彼はブルースの本質を経験し、共感できた初めての人物だった」と明かしている。

エリック・クラプトンもまた、自身の自伝の中で、ジョン・メイオールを父親のような存在だと語り、「私が現れるまで、音楽的嗜好において彼はかなり孤立していたが、今ではブルースに関して自分と同じくらい真剣な同志を見つけたんだ」と記している。

そんな彼らの相性の良さは1965年の「I’m Your Witchdoctor」でも聴くことができる。この曲は彼らが一緒にレコーディングした最初のシングルであり、ロック史上初めてギターのフィードバックをフィーチャーしたレコードのひとつである。

I'm Your Witchdoctor

それから1年後にリリースされたアルバム『Blues Breakers』の制作について、ジョン・メイオールは自伝の中で「エリックがバンドの中心的存在である以上、楽曲のサウンド面でも彼が評価されるべきだと決めていたんだ」とエリック・クラプトンに同等の評価を与えている。

『Blues Breakers』は、ポップ・ミュージック史における極めて重要な瞬間として記憶されており、長いソロと歪んだギター・ラインをフィーチャーした、伝統的なブルースよりもラウドでアグレッシブなそのサウンドは、“ブルース・ロック”と呼ばれるジャンルの幕開けとなった。彼は2019年のForbes誌の取材に当時をこう振り返っている。

「伝統的なジャズが少なくとも10年間は主流だったが、新世代は何か別のものを求めていたから、新しいものが生まれたんだ」

また、このアルバムは、エリックが“Beano”の漫画を読んでいる姿をジャケット写真にあしらったことから、“Beano”アルバムとして知られるようになり、 そのサウンドは、ルーズで即興的なアプローチと、オーティス・ラッシュの 「All Your Love」のカヴァーに代表される、エリック・クラプトンの荒々しいギターから発せられる悲痛な感情の叫びによって、等しく定義された。

All Your Love (Mono)

ジョン・メイオールはUltimate Classic Rockのインタビューの中で、当時をこう回想する。

「毎晩クラブでやっていたように演奏しただけで、制作に関しては完全に自分たちに任されていた。とにかくレコーディングを始めてみて、結局アルバムを3日間で完成させたんだけど、それは当時の私たちにとっては普通のことだったんだ」

アルバム『Blues Breakers』は全英アルバム・チャートのトップ10入りを記録し、2003年にはローリング・ストーン誌による“歴代最高のアルバム500選”の195位にランクインした。

 

ピーター・グリーンとの共作

1966年にエリック・クラプトンがクリームを結成するためにバンドを脱退した後、ジョン・メイオールは彼の後任として、甘いトーンと表現力豊かな チョーキングで注目されていたロンドン出身のギタリスト、ピーター・グリーンを起用。彼は以前にもエリックの代役としてザ・ブルースブレイカーズで数回ライヴに参加したことがあったピーターについて自伝の中でこう綴っている。

「私の耳にとって、彼の演奏は驚くべきものだった。彼は、エリックが去ってから私が聴いた中で最も純粋な音色でブルースを演奏した。ザ・ブルースブレイカーズの昔のサウンド、スピリット、激しさが戻ってきたんだ」

続くアルバム『A Hard Road』では、ピーター・グリーン自らが作曲したインストゥルメンタル曲「The Supernatural」で、彼の高鳴るメロディーラインと独特のサステイン使いが披露されたが、全英トップ10入りを果たしたこのアルバムは、ピーター・グリーンが参加した最後の作品となった。

1967年、彼はベーシストのジョン・マクヴィ、ドラマーのミック・フリートウッドという元ザ・ブルースブレイカーズのメンバー2人とともに、フリートウッド・マックという新バンドを結成する。

The Super-Natural

この時点で、ジョン・メイオールは才能あるギタリストを発掘する名手として名声を得始めていた。1967年、彼はピーター・グリーンの後釜として無名の18歳のギタリスト、ミック・テイラーを迎え入れた。1969年まで在籍したミック・テイラーは、ジョン・メイオールの推薦により、ブライアン・ジョーンズの後任としてザ・ローリング・ストーンズに加入することになる。

ミック・テイラーがザ・ブルースブレイカーズと共にレコーディングした3枚のアルバムのうちの1枚『Crusade』は、ジョン・メイオールにとって自身初の全米チャート入りした作品であり、マックルズフィールド出身のブルースマンにとってアメリカへの長きにわたる憧れの始まりとなった。

また、この頃までにジョン・メイオールは新たな音楽領域に進出し始めていた。とりわけ1967年の実験的なソロ・アルバム『The Blues Alone』では、彼がパーカッション以外のすべての楽器を演奏している。一方で、彼の名声はザ・ブルースブレイカーズでの活動に拠るところが大きく、1968年にバンド初のアメリカ・ツアーを敢行後、ジョン・メイオールが帰国すると、イギリスのMelody Maker紙による読者投票で彼はブルース・アーティストの1位に選出された。

John Mayall – The Blues Alone (1967) Part 1 (Full Album)

 

ザ・ブルースブレイカーズの解散とアメリカへの移住

アメリカにすっかり魅了されていったジョン・メイオールは、休暇をロサンゼルスで過ごすようになり、そこでフランク・ザッパや地元のブルース・バンド、キャンド・ヒートと交流を深めていった。

西海岸での滞在は彼にとって極めて重要な時間となり、1968年にリリースされた『Blues from Laurel Canyon』は、ブルース・ミュージシャンとしては革新的な、各トラックがシームレスに次のトラックへと続く、旅行記のようなコンセプト・アルバムとなった。

1969年、ロサンゼルス郊外のローレル・キャニオンへの愛が高じ、彼はその地に家を購入した。以降も頻繁にイギリスに戻っていたものの、彼は残りの人生をハリウッドヒルズで過ごした。

そんな中、彼は突如としてザ・ブルースブレイカーズの解散を発表し、ファンに衝撃を与えた。彼はバンド解散の理由について自伝の中でこう触れている。

「リード・ギター、オルガン、ベース、ドラムの編成で行けるところまで行ったと感じ、ロサンゼルスへの引っ越しが迫っていたこともあって、変化を起こすには良いタイミングだと思ったんだ」

それはジョン・メイオールにとって新章の始まりだった。 1969年、彼はポリドールからソロ・ライヴ・アルバム『The Turning Point』をリリース。全曲アコースティックのこのアルバムのライナーノーツの中で、彼はこの作品について、「“重いリード・ギターとドラム”をフィーチャーしない “低音量の音楽”を作る試み」だったと説明している。

同アルバムに収録の「Room To Move」は、鋭いハーモニカとヴォーカル・パーカッション・ノイズをフィーチャーした感染力のあるナンバーで、今でも最も人気のある楽曲のひとつである。

Room To Move

ツアーでより多くの聴衆の前で演奏するようになった彼は、この時期のアメリカでの音楽活動についてはこう綴る。

「美しい日々だった。私たちはアメリカの豊かでオープンなロックンロールの世界を体験していたし、私たちを出迎えてくれた女性たちは、まるで王族の訪問のように感じさせてくれた」

ザ・ブルースブレイカーズを始めたころは酒を飲まなかったと言うジョン・メイオールにとって、この注目は「Groupie Girl」という曲を書くきっかけとなり、享楽的なライフスタイルを加速させた。彼の回顧録によると、彼はドラッグに手を染めることはなかったものの、13年間大量の酒を飲み続け、「私のアルコールの過剰摂取は本当に手に負えなかった」と明かしている。

Groupie Girl

 

ブルースへの愛を探求し続けたキャリア

以降も実験的な音楽作品を作り続けていたジョン・メイオールは、元マザーズ・オブ・インヴェンションのヴァイオリニスト、ドン・”シュガーケイン”・ハリスを含むドラマー不在の新バンドで、次なるアルバム『USA Union』(1970年)をレコーディング。

続く1971年の2枚組アルバム『Back To The Roots』では、エリック・クラプトンとミック・テイラーと再会し、ファンを驚かせた。これを皮切りに、アメリカでの音楽キャリアの中で彼はラインアップの変更を繰り返し、それは予測不可能な雰囲気を漂わせていた。これについて彼は自伝の中でこう説明している。

「私のレコード・レーベル(当時はポリドール)は、数ヶ月ごとに新しいアルバムを私に要求しているように思えた。それを達成するために、私は音楽を新鮮に保つ必要があり、それはとりわけ長く疲れるツアーを終えた後に、時としてラインナップを再構築することを意味した」

その後40年以上、ジョン・メイオールはブルースへの愛をさまざまな文脈で探求し続けた。1970年代後半にファンキーな方向性を打ち出した後、1980年代には再びブルース・ロックに回帰し、1990年代にはザ・ブルースブレイカーズを復活させ、1999年のアルバム『Padlock On The Blues』では旧友ジョン・リー・フッカーと再会を果たした。

2008年を最後に彼はザ・ブルースブレイカーズを完全に解散したが、ソロ・アーティストとしてのツアーやレコーディング活動は80代になっても続けていた。

Padlock on the Blues

 

晩年

最晩年の2015年、ジョン・メイオールはバッキンガム宮殿で行われたセレモニーでエリザベス女王から音楽界への貢献を称える最高の栄誉である大英帝国勲章(OBE)を授与された。彼はまた、イングランド北西部出身のミュージシャンとしては驚くべきことながら、ブルースの殿堂入りも果たしている。

英国の聴衆にブルースのサウンドを紹介する上で中心的な役割を果たした彼は、ブルースという形式をまったく新しいアプローチで発明し、それを生んだ国に逆輸出することで、アメリカの若い世代にブルースの喜びと美しき悲哀を教え込んだのだ。

Ultimate Classic Rockのインタビューの中で、ジョン・メイオールは自身のキャリアを振り返り、20世紀のロック・ミュージックにおける最も偉大な才能の何人かを育てた自身の役割について、謙虚な姿勢で次のように振り返っている。

「これは私の歴史の一部なんだ。それは私がロンドンにいた時期の生活をよく要約している。ミュージシャンの入れ替わりが激しかった。どのミュージシャンも自分の足元を固めようとしている若者で、私はその手助けをすることができたよ」

ジョン・メイオールに音楽的な恩義を感じている多くのUKミュージシャンの一人であるミック・フリートウッドは、ジョン・メイオールの自伝の序文で彼の功績についてこう述べている。

「彼はミュージシャンのためのプラットフォーム、ステージを作ってきました。その一員である私も含めて、それは忘れてはならないことです。ジョンのレガシーは、彼がブルース・プレイヤーとしての学びに忠実であったことです。彼はそれに決して妥協せず、それ以外のものになろうとしたこともありませんでした。彼は信念を貫き、ブルースへの愛を何よりも大切にしてきました」

Written By Charles Waring



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