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モータウンを支えたファンク・ブラザーズのジョー・メッシーナが93歳で逝去。その功績を辿る
モータウンを支えた一流セッション・バンド、ファンク・ブラザーズ(The Funk Brothers)のギタリストの1人、ジョー・メッシーナ(Joe Messina)が2022年4月4日未明、デトロイト郊外のノースビルにある息子ジョエル・メッシーナの自宅で逝去した。93歳だった。
デトロイト・フリー・プレス紙によると、彼は長い間腎臓病を患っていたが、1ヶ月前まで自活し、仲間を招いてジャム・セッションを行っていたという。
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仲間たちから“ソウルを持った白人のブラザー”と呼ばれていたジョー・メッシーナは、フェンダー・テレキャスターを巧みに操り、マーサ&ザ・ヴァンデラスの「Dancing in the Street」、フォー・トップスの「Can’t Help Myself (Sugar Pie, Honey Bunch)」、ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスの「Someday We’ll Be Together」、マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルの「Your Precious Love」、テンプテーションスの「Ain’t Too Proud To Beg」など、数え切れないほどのモータウンの名曲にその演奏を刻んだ。
ポール・ジャストマンが監督を務め、モータウンの栄光を陰で支えたファンク・ブラザーズを描いた2002年のドキュメンタリー映画『Standing in the Shadows of Motown』のサウンドトラックがグラミー賞で2部門に輝く成功を収めた後、ジョー・メッシーナはレコーディング・アカデミーによって、ファンク・ブラザーズの13人のメンバーの一員として正式認定されている。
2004年にグラミー賞 特別功労賞生涯業績賞を受賞し、ようやくファンク・ブラザーズの功績が音楽界で広く認められたことで、2013年にはハリウッドの殿堂入りを果たし、2004年には英ロンドン・ロイヤル・フェスティバル・ホールでの記念すべき公演を含む、バンド名義の初ツアーが行われた。
デトロイトにあるモータウン・ミュージアムの最高経営責任者兼会長であるロビン・テリーは、次のように追悼を捧げている。
「元祖ファンク・ブラザーズの1人であるジョー・メッシーナは、モータウン・サウンドの創造者の1人として、永遠のレガシーを残しています。彼は、ベリー・ゴーディー直々に採用され、レーベルの最盛期に大きな影響を与えた、原動力たる才能の持ち主でした。彼のご家族とファンの皆さまにお悔やみ申し上げますとともに、私たちは彼の音楽的貢献を何世代にもわたって称え続けていきます」
その人生
ジョー・メッシーナは、モータウンの有名な“スネイクピット”スタジオで、ロバート・ホワイトやエディ・“チャンク”・ウィリスらと共に3パートのギター・アレンジの一端を担った。
1928年12月13日にデトロイトで生まれた彼は、キャリア初期から自身のスタイルを確立し、20代半ばに米ABC放送のお抱えバンドにまで出世し、1940年代後半から1950年代前半にかけては、デトロイトのジャズクラブで演奏しながら、その技巧をさらに磨いていった。
教育サイト“Educational CyberPlayGround”に掲載された音大生へ向けたメッセージの中で、ジョー・メッシーナはこう述べている。
「楽器や作曲を学ぶ時、教師が扉を開けてくれますが、和音の素晴らしい世界を知るためには、自分で中に入っていかなければなりません。モーツァルト、ベートーベン、ショパン、ブラームス、ドビュッシーら偉大な作曲家たちは皆、和音の知識が豊富でした」
また彼は、自身がリーダーを務めた“ジョー・メッシーナ・オーケストラ”や、コメディアン俳優スーピー・セールズの長寿TV番組で演奏したりと、絶え間なくライヴ活動を続けていた。映画『Standing in the Shadows of Motown』の中で彼が語っているように、1960年代初頭にモータウンが急成長し始めた時、彼はモータウンの創始者ベリー・ゴーディから直々に声がかかり、すぐにハウスバンドにとって欠かせない存在となった。
ジョー・メッシーナの巧みな演奏から恩恵を受けた多くのモータウン・スターたちの1人であるスティーヴィー・ワンダーは、かつてこう語っている。
「ベニー・ベンジャミン、ジェームス・ジェマーソン、ロバート・ホワイト、ジョー・メッシーナらオリジナル・メンバー、ピアノのジョー・ハンター、オルガンのアール・ヴァン・ダイク。それが、私にとってのモータウン・サウンドです」
ジョー・メッシーナは、夜通し続くモータウンでのセッションで過酷な要求に応えながら、地元でのライヴ活動も続け、会社がロサンゼルスに移転してからは、洗車場を購入するなど、ビジネスの才覚も発揮。2000年代になってファンク・ブラザーズの功績がようやく讃えられるようになってからも、彼は自身のレガシーについて謙虚な姿勢を貫いていた。
モータウンのアレンジャー兼トロンボーン奏者のポール・ライザーは、デトロイト・フリー・プレス紙の取材にこう語っている。
「彼は誰よりも心温かく、いつも笑顔で、人のことを褒め、陽気な人でした。彼は揺るぎなく、確信に満ちた、偉大なる音楽家でした」
Written By Paul Sexton
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