Join us

News

4人目のビースティ・ボーイズとも呼ばれた写真家リッキー・パウエルが逝去。その功績を辿る

Published on

Photo: Johnny Nunez/WireImage

ヒップホップ写真家、作家、そして4人目のビースティ・ボーイズとも呼ばれたリッキー・パウエル(Ricky Powell)が59歳で亡くなったことを、彼のマネージャーであり、ビジネスパートナーでもあるトノ・ラドヴァニーが公表した。ラドヴァニーは「私はただ、彼がとても特別な人だったことをみなさんにお伝えしたいのです」と語っている。

1961年11月20日にブルックリンで生まれたリッキー・パウエルは、地元の伝説たちをフィルムにおさめ、ヒップホップ黎明期の興奮を永遠にしたことで名を馳せた。彼は生前Mediumでのインタビューでそのキャリアのきっかけについてこう語っていた。

「1985年にニューヨーク大学に行ったガールフレンドがいたんです。凄く変わった人で、ダンス・インテリアというクラブで出会いました。僕らはクラブに行くときにはそれぞれカメラを持って行った。僕は彼女の予備のカメラで少し小さいオートフォーカスのものを借りていました。そこから始まったんです。遊びながらいろいろ写真を撮ったことから」

<関連記事>
女性ラッパーとして初めて100万枚を売ったソルト・ン・ペパの伝記映画
ビースティ・ボーイズの20曲:向こう見ずな革新性とHIPHOPの新しい可能性

Def Jam Presents: Through The Lens – Ricky Powell (Episode 2)

大学卒業後、共通の友人を介してビースティ・ボーイズとつながり、初期のツアーに参加。‟4人目のビースティ・ボーイズ”という名誉ある称号を得、アルバム『Paul’s Boutique』の収録曲「Car Thief」の歌詞でもその名前が言及されている。

その後すぐ、リッキー・パウエルはDef Jamの非公式フォトグラファーとなり、ランDMC、パブリック・エネミー、L・L・クール・J、エリックB&ラキムらの撮影を担当。また彼はヒップホップだけではなく、80年代から90年代にかけて、キース・ヘリングからバスキア、マドンナやアンディ・ウォーホルまで、ニューヨークのダウンタウンシーンのアイコンも撮影していた。彼はまた、ハイファッションの撮影、コマーシャル用の写真、セレブリティ・カルチャーにも彼のグリッティな美学を提供してきた。彼は撮影することについてInterview Magazineにこう語っていた。

「私の祖母は60年代後半にオーチャードストリートに買い物に連れて行ってくれました。祖母はすべての店の店主とユダヤ語で話していました。それは特別なことでした。だから私は本物を求めている、真面目で地に足の着いた、時にはコミカルなものを探しているんです。モデルやポスターは私のために何もしてくれないからね」

多作の写真家であると同時に『Public Access: Ricky Powell Photographs 1985-2005』『Oh Snap!: The Rap Photography of Ricky Powell』『Frozada Moments: Classic NYC Street Photography』といった著書も執筆。最近では、ドキュメンタリー映画『Ricky Powell: The Individualist』も公開となっていた(日本未公開)。

この訃報を受けて、多くの友人たちが彼への賛辞を送っている。

「私たちの最初のツアーガイドをしてくれたリックスターに感謝します。私たちは最初の全米ツアーでゲームに参加していた若い猫たちでしたが、新入生のような私たちにリックは文字通り私たちに何でも紹介してくれた代表的な猫でした」とザ・ルーツのクエストラブは投稿。

「伝説の写真家であり、ビースティの仲間であり、ニューヨークのカウンターカルチャーのアイコンであるリッキー・パウエルの死を知り、悲しみに暮れています。風変わりで、陽気で、親切な人であり、あなたが愛した負け犬であり、唯一無二であり、ダウンタウンが生み出した力でした。ご冥福をお祈りします」と、The Sourceの共同創設者であるジョナサン・シェクターはコメントを寄せている。

Written By Sam Armstrong



Share this story
Share
日本版uDiscoverSNSをフォローして最新情報をGET!!

uDiscover store

Click to comment

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Don't Miss