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ラスカルズのオリジナル・メンバーで、ドラマーのディノ・ダネリが78歳で逝去。その功績を辿る

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Dino Danelli - Photo: Don Paulsen/Michael Ochs Archives/Getty Images

1960年代に大きな人気を博したニュージャージー出身のソウル・バンド、ラスカルズ(The Rascals)のオリジナル・メンバーで、ドラマーのディノ・ダネリ(Dino Danelli)が78歳で逝去した。

この訃報は、ディノ・ダネリのフェイスブック・ページを通して、ラスカルズのアーキビスト(記録保管人)で友人でもあるジョー・ルッソによって次のように伝えられた。

「ディノを知るには、芸術が彼の人生そのものだったことを理解しなければなりません。アート、音楽、そして映画が、彼の考えや心を支配していました。彼は不眠症で、時には何日も起きていることがありました。なぜなら、彼は常に書き、読み、絵を描き、映画を観ていたからです。彼はプライベートを誰よりも大事にし、また、多くの人が史上最高のドラマーの一人と認める人でありながら、どこまでも謙虚な人でした」

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稀代の名ドラマー

1965年から1971年までラスカルズのドラマーを務め、1982年から1984年までEストリート・バンドのメンバーである“リトル”スティーヴン・ヴァン・ザントが率いたザ・ディサイプルズ・オブ・ソウルでも演奏したディノ・ダネリは「私が知る中で最もプライベートを大事にした人物」だったとジョー・ルッソは語っている。

また、ビリー・ジョエルは、「彼はポピュラー音楽界で最も偉大なドラマーの一人でした。彼のご家族に心からお悔やみを申し上げます」と彼を偲んでおり、KISSのポール・スタンレーも「ディノは類い稀な名ドラマーであり、素晴らしい人でした。ジーン・クルーパやバディ・リッチをルーツに持つショウマンで、“ドラマーの中のドラマー”です。素晴らしいスタイルの持ち主でした」と追悼を捧げている。

ジョー・ルッソは、彼の死因を明らかにしていないが、ディノ・ダネリが、ラスカルズの2013年の“Once Upon a Dream”再結成ツアーの突然の顛末について、「痛烈に失望」していたと述べており、その後、彼の体調が悪化し始めたため、“彼を奮い立たせる方法を見出すことにほとんど取り付かれていた”とを明かしている。

1944年7月23日にニュージャージー州のジャージーシティで生まれ、1964年にシンガーのエディ・ブリガッティ、キーボーディストのフェリックス・キャヴァリエ、ギターリストとジーン・コーニッシュとヤング・ラスカルズ(後にラスカルズへ改名)を結成したディノ・ダネリについて、ジョー・ルッソはこう述べている。

「この(再結成)プロジェクトの試みが失敗した時、ディノの強烈な芸術的精神が衰え始めたのです。2017年当時、彼の動きや安定した歩行能力に微妙な変化が生じていることに気づきました。そんなある日、診察を受けた病院まで迎えに来てほしいと頼まれました。私たちは彼のアパートに戻り、そこで彼は私に、彼が亡くなった後に尊重してほしい事について話し始めたのです。あれくらいの年齢になると、不思議ではないのかもしれませんが、あまりにも唐突で、違和感を感じました。音楽的な事業が枯渇する中、彼が愛した“クリエイティブなことをしたい”という欲求と能力が突如消え始めたのです。彼は“ディノ”であることを辞めたんです。ほとんど一夜にして、私が10代の頃から知っているとてつもない人格の大きな側面が、事実上消え始めたように思えました」

ジョー・ルッソによると、その後入院することになった彼は、2019年12月に退院したが、2022年初めにリハビリセンターに戻り、そこで急速に体調が悪化していったという。

ジョー・ルッソは彼の健康状態について「彼は亡くなるまで毎日をそこで過ごしていました。彼の主な病名は冠動脈疾患とうっ血性心不全でしたが、その他にも多くの疾患を抱えていました。その10年以上前に、すでに血管形成術が必要だったのです」と明かしている。

 

ラスカルズ〜ザ・ディサイプルズ・オブ・ソウルでの活動

ディノ・ダネリのグルーヴ感溢れるドラム・サウンドに牽引され、ヤング・ラスカルズは全米チャートに9枚のシングルを送り出した。その中には、1966年のルディ・クラークとアーティ・レスニックが手掛けた「Good Lovin’」や1967年の「Groovin’」、1968年にエディ・ブリガティとフェリックス・カヴァリエールが共作した公民権アンセム「People Got to Be Free」(同年春、キング牧師とケネディが暗殺されるという衝撃的な事件が起こった)などの全米No.1シングルが含まれている。

1968年、折衷的なガレージ・ソウルから、よりサイケデリックなサウンドに移行するにつれ、バンド名をラスカルズに改名した彼らは、1997年に“ロックの殿堂入り”を果たした。

Groovin'

彼のバンドメイトであるフェリックス・カヴァリエールは、1966年のMelody Maker誌のインタビューの中で、ディノ・ダネリについて「今まで聴いた中で最高のドラマー」と称賛していた。

1967年初頭の英レコード・ミラー誌の記事には、「このバンドはまだ英国でヒットしていなかったが、ポール・マッカートニーが2度彼らのライヴを見に行き、とりわけダネリは、ザ・フーのキース・ムーン、ザ・サーチャーズのフランク・アレン、ザ・ローリング・ストーンズのビル・ワイマンといった著名ミュージシャンたちから支持を得ている」と記されている他、グランド・ファンク・レイルロードのドン・ブルーワーもダネリの崇拝者であることを公言している。

1970年代初頭にエディ・ブリガティとジーン・コーニッシュがラスカルズを脱退した後、ディノ・ダネリとフェリックス・カヴァリエールは活動を続け、さらに2作のアルバムをリリースしたが、思うような成果は得られず、1971年に解散。同年、ディノ・ダネリはジーン・コーニッシュと“ブルドッグ”というグループを結成し、2作のアルバムをリリースするも、3年後には解散に至った。

その後、マウンテンのレスリー・ウェストや、短命に終わったパワー・ポップ・バンドのフォトメイカーでの活動を経て、1980年代初頭にスティーヴン・ヴァン・ザント率いるザ・ディサイプルズ・オブ・ソウルに加入した彼は、バンドの最初の2作のレコード、1982年の『Men Without Women』と1984年の『Voice of America』で演奏している。

ラスカルズは、1988年に一時的に再結成を果たし、1997年のロックの殿堂入りの際には、オリジナル・メンバー4人が揃って式典に出席。2012年から2013年にかけてはスティーヴン・ヴァン・ザントが共同プロデュースを手掛けた再結成ツアー“Once Upon a Dream”を北米各地で開催した。ジーン・コーニッシュは自身のフェイスブックでこう哀悼の意を述べている。

「ディノ・ダネリの訃報をお伝えしなければならないのは、胸が張り裂ける思いです。彼は私の兄弟であり、私が今まで出会った中で最も偉大なドラマーでした。悲しみに打ちのめされています。ディノ、私の愛する兄弟よ、安らかにお眠りください」

スティーヴン・ヴァン・ザントも自身のSNSで、次のようなコメント付きで彼の写真を投稿している。

「ディノ・ダネリよ、安らかにお眠りください。史上最も偉大なドラマーのひとりです。ラスカルズ 1965-1971。ザ・ディサイプルズ・オブ・ソウル 1982-1984。“Once Upon A Dream 2013”をブロードウェイのリチャード・ロジャース・シアターで開催」

ディノ・ダネリがラスカルズを継続できないことに心を痛めていたとしながらも、ビデオ、アート、写真などのプロジェクトで彼と仕事を続け、また、リリースされていない“アルバム1枚分の曲を共作、録音、プロデュースしていたジョー・ルッソは、友人でありコラボレーターでもあった彼についてこう証言する。

「彼は“クール”の典型で、アイデアとアプローチの無限の宝庫のようなもので私を感動させ続けてくれました。“アーティスト”という言葉は、どんなささやかな自己表現のレベルでも、ごく普通に使われていますが、ディノ・ダネリは、皆さんがこれまで出会ってきたどんな偉大なアーティストにも劣らない深い考え方、創造的哲学、そして一連のスキルを持っていたと断言できます」

People Got to Be Free

「私たちの音楽はとても楽しいんです」

2012年、ディノ・ダネリは作家のハーヴェイ・クバーニックに次のように語っていた。

「私たちの曲は、今でもラジオやサウンドトラック、映画で流れています。音楽の魔法を説明することはできませんが、心に響くコードが、私たちの音楽と人々を繋げてくれるのです。私たちの音楽はアメリカ的な感覚を通り越して、とても楽しいんです。そこには重々しい苦悩のような感情は一切ありません。すべてがポジティブで、ライヴが始まる前よりもいい気分になって帰ることができるんです。それが私たち音楽です。ライヴの時は、いつも自分のことをドラムに座っているフロントマンだと思っていました。ライオネル・ハンプトンと一緒に演奏したこともありました。ライオネル・ハンプトンやニューオリンズのダンス・バンドと一緒に演奏したことが、他の人とはひと味違う自分のスタイルを確立するのに役立ったんです。そして、バンドをユニークな存在にするのにもとても役立ちました。僕はただ、自分がリード・シンガーであるかのように演奏しているだけなんです」

Written By Tim Peacock




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