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ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマ共同創始メンバーのクラレンス・ファウンテンが88歳で死去
5度のグラミー賞受賞を誇るアメリカのゴスペル・カルテット、ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマの創始メンバーのひとりであるクラレンス・ファウンテンが6月4日にバトン・ルージュで亡くなったとAP通信が報じた。享年88歳。クラレンス・ファウンテンは地元の病院で亡くなり、マネジャーのチャールズ・ドリーブが死去を認めた。死因は明らかになっていない。
ザ・ピルグリム・トラヴェラーズとザ・ソウル・スターラーズとともに、ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマはゴスペル界において“ビッグ・スリー”と称され、ゴスペル・ミュージックをメインストリームへと知らしめた功績を持っている。
もともとハッピーランド・ジュビリー・シンガーズという名前で活動していたブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマは、タラデガにある目と耳が不自由な黒人のための学校アラバマ・インスティテュート・フォー・ザ・ニグロ・デフ&ブラインドで歌うグループとして始まり、キャンパスを出て、その近所にあった軍訓練所で兵士のためにパフォーマンスを行う活動などを行っていた。アラバマとミシシッピの2つの盲目の男性グループがコンペティション形式でコンサートを行い、その経緯から現在の名前であるブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマとなり、1948年に同名義の最初のヒット・シングル「I Can See Everybody’s Mother But Mine」をヴィージェイ・レコードよりリリースしている。
クラレンス・ファウンテンのマネジャーは彼の訃報を受けて下記の声明を発表した。
「彼らはジム・クロウ(*人種差別的な法律、1964年に撤廃)の頃の南部で、盲目かつアフリカ系アメリカ人として育ちました。そしていつか箒やモップを作る仕事に就くことしか求められないような学校に送られたのです。でも彼らはそのすべてを超越しました。彼らの、そしてグループの人生は、アメリカ社会の変遷も映し出しており、そんな彼らの経験を歌にしたためる方法を見つけたかったのです」
50年代と60年代と、ゴスペルの人気が教会という場を超えてさらに先へ届いた時、ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマはスペシャルティ・レコードとヴィージェイを通して数々のレコードをリリースしたが、彼らの功績があってこそ生み出されたR&Bやロックン・ロールといったジャンルを完全に受け入れることはなかった。
「ポップやロックになるつもりは毛頭ないありません」というクラレンスの発言が、彼の死後のプレス・リリースで引用されている。
「誰がそれを必要としていた? お腹もいっぱいにできて、頭を悩ますこともなくて、私たちは幸せでした。少なくとも私は幸せでした、本物のゴスペルを歌うことができて」
音楽の趣向が変化するにつれ、ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマはレコーディングを続ける中で、ルー・リード、ボン・イヴェールのジャスティン・ヴァーノン、kdラング、ボニー・レイトやベン・ハーパーなど、現代アーティストとのコラボレーションも行った。
2003年にはクラレンス・ファウンテンと他のブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマのメンバーはゴスペルの殿堂入りを果たした。
クラレンス・ファウンテンは2007年までグループとパフォーマンスを続けたが、糖尿病による合併症のためその後ツアーは断念した。しかしグループの最新アルバムである2017年の『Almost Home』ではレコーディングに参加している。
クラレンス・ファウンテンは妻のバーバラを残してこの世を去った。葬儀の詳細は未定となっている。
Written by uDiscover Team