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偉大なる作曲家でジャズ・サックス奏者のベニー・ゴルソンが95歳で逝去。その功績を辿る
ジャズ界が誇る偉大なる作曲家でサックス奏者のベニー・ゴルソン(Benny Golson)が2024年9月21日に逝去した。享年95だった。
彼の高校時代からの友人であるジョン・コルトレーンほど世間に広く知られてはいないかもしれないが、彼は1950年代のハード・バップ時代における最も優れたテナー・サックス奏者で作曲家の一人だった。スモーキーで力強い音色で知られ、忘れがたいメロディーと繊細で洗練されたハーモニーを融合させた「Whisper Not」「I Remember Clifford」「Killer Joe」などの名曲を残した。
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多彩なキャリア
ベニー・ゴルソンの70年にわたるキャリアは実に多彩なものだった。50年代半ばから後半にかけては、ディジー・ガレスピー、アート・ブレイキー、クインシー・ジョーンズといった黄金時代のジャズの巨匠たちと共演し、1960年代初頭にはザ・ジャズテットというハード・バップ・グループを共同で率いた。
60年代後半から70年代前半にかけては、エリック・バードン&ジ・アニマルズ、ダイアナ・ロス、元ママス&ザ・パパスのママ・キャスことキャス・エリオットといったポップ・ミュージック界の大物たちのアレンジャーとして活躍し、その後ハリウッドに拠点を移してからはサウンドトラックの作曲家としての道を追求した。
2010年代後半に引退するまでに彼が世に送り出した通算38作のソロ・アルバムと300曲もの作品群を聴けば、彼の心に響くメロディーと耳を残るコード進行への愛情は、1960年代のアヴァンギャルド・ジャズのような流行に逆らった時期でさえも、揺らぐことはなかったことがわかるだろう。彼は2009年、ジャズ・ライター、アンソニー・ブラウンの取材にこう語っていた。
「メロディーは私にとって非常に重要なものだ。(曲には)メロディックな内容、人々の記憶に残り、自分の時代を超えて生き続ける可能性のあるものがあるべきだと、いつも感じていた」
彼を“最高のジャズマン”と称したソニー・ロリンズをはじめ、彼のサックス奏者仲間は彼を、“博学で、豊富な語彙を持つ非常に雄弁な人物”として記憶していた。1950年代後半に彼を自身のビッグバンドに招いたクインシー・ジョーンズは、2010年に行われたWEBメディア“Tune into Leadership”のインタビューで、「ベニーと話すときは辞書を持ったほうがいいぞ」とジョークを飛ばしていた。彼の言語に対する才能は、2016年にジム・メロッドと共同執筆した回顧録『Whisper Not: The Autobiography Of Benny Golson』でも存分に発揮されており、同書はレコーデッド・サウンド・コレクション協会のベスト・ヒストリー・ブックにも選ばれている。
その生い立ちとサクソフォンとの出会い
1929年1月25日にフィラデルフィアで生まれたベニー・ゴルソンは、幼い頃から彼の音楽的志向を後押しした、裁縫師でアマチュア歌手の母セラディアのひとり息子として育てられた。9歳でピアノを習い始めたという彼は、2009年のRecord Collectorのインタビューの中で、自身の幼少期について「クラシック・ピアニストになると思って、熱心に練習した」と語っている。
そんな彼の志は、ライオネル・ハンプトン・ビッグ・バンドのアルバム『Flying Home No. 2』で、テナーサックス奏者のアーネット・コブの荒々しくブルージーなソロ演奏を初めて聴いた14歳の時に劇的に変わったという。彼はRecord Collectorのインタビューの中で、「その瞬間から、ピアノの魅力が色褪せてしまった。母が買ってくれたサクソフォンを夏の間ずっとリビングで練習して、近所のみんなを夢中にさせたんだ」と当時を振り返っている。
高校の先輩だったジョン・コルトレーンとの交友
彼の新たな情熱は、同じ高校に通っていたもう一人の若く熱心なサックス奏者の軌道に彼を引き込んだ。2年先輩のジョン・コルトレーンである。スウィング時代のアルト・サックスのスター、ジョニー・ホッジスに憧れを抱いていたことで意気投合したふたりは急速に親しくなり、ベニー・ゴルソンの自宅で一緒に練習するようになった。「毎日一緒にいたよ。ジャム・セッションにも一緒に行ったし、ギャラの出ない仕事もやった。苦悩も、報いも、悲劇もあった。多くのことを一緒に経験した」と彼はRecord Collectorのインタビューで回想している。
キャリア初期からブレイクまで
1947年、ベニー・ゴルソンはハワード大学で音楽教育を学ぶためにワシントンD.C.に向かった。その2年半後、クラブでの仕事をオファーされた彼は、フルタイムで音楽を追求するために大学を中退し、地元のジャズ・ギタリスト、タイニー・グライムスと短期間共演した後、R&Bシンガーでサックス奏者のブル・ムース・ジャクソンのバックバンドを務めることになった。同じく当時ブル・ムース・ジャクソンのバンドにいたビバップ・ピアニストで作曲家としても知られるタッド・ダメロンが、彼のメロディーに対する感性に気付き、作曲するように勧めた。「私が(作曲家として)進歩できたのはすべてタッドのおかげなんだ。彼はとてもメロディアスで、偉大な指導者だった」と、彼は2008年にJazzWaxに語っている。
1950年代初頭、ベニー・ゴルソンは、ビバップでの即興演奏もビッグ・バンドでのスウィング演奏もこなせる、非常に多才なサックス奏者として知られるようになり、ハード・バップのスター・トランペット奏者、クリフォード・ブラウンやビッグ・バンドのヴィブラフォン奏者だったライオネル・ハンプトン、リズム・アンド・ブルースのアルトサックス奏者、アール・ボスティックなど、東海岸のジャズ・シーンの大物たちと共演するようになり、50年代の半ばには、作曲家としても注目され始めていた。
1955年、マイルス・デイヴィスが、当時バンドに加わったばかりだったジョン・コルトレーンの薦めにより、アルバム『Miles: The New Miles Davis Quintet』で彼が書いた力強いハード・バップ・ナンバー「Stablemates」を録音したことで、彼は一躍大ブレイクを果たした。
彼はJazz Journalの2019年のインタビューの中でこう語っている。
「マイルス・デイヴィスが私を認め、彼がアイコンであるおかげで、多くの人々に私の存在が知られるようになった。それが私の作曲家としてのキャリアの出発点だった。それ以来、仕事に困ったことは一度もない」
ディジー・ガレスピーとの共演期に生まれた名曲
1956年から2年間、ベニー・ゴルソンはビバップの伝説的トランペット奏者であるディジー・ガレスピーと共に演奏するようになり、ディジーの複雑な半音階的メロディーと独特のコード進行に対する愛情は、彼に大きな影響を与えた。彼は、JazzWaxのインタビューで「彼は私の考え方を変えた。彼が音楽的に見せてくれたものは、啓示だった」と語っている。
実際に、滑らかで優しく抱擁するようなメロディーを持つインストゥルメンタル曲「Whisper Not」、そして1956年に交通事故で亡くなった彼の共演者クリフォード・ブラウンに捧げた哀歌「I Remember Clifford」という、彼の作品の中でも最も有名な2曲が書かれたのは、ディジー・ガレスピーと共演していた時期だった。
「I Remember Clifford」について彼は、「私がこれまでに書いた曲の中で最も時間がかかった曲だった。この曲を、トランペット奏者として、また親愛なる友人としてのクリフォード・ブラウンを体現するものにしたかった。音符で彼を表現したかったんだ」と語っている。
アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズでの活動とその影響
ニューヨークへ移り住んだ翌年となる1958年、ベニー・ゴルソンはハード・バップの大御所ドラマー、アート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズに参加した。当初は、ジャッキー・マクリーンの代役として一晩だけ演奏する予定だったが、結局1年間をこのグループで過ごすことになる。
この経験は、1959年末にプレスティッジの新たなジャズ・レーベルで録音されたアルバム『Gettin’ With It』を皮切りに、自身の作品での演奏スタイルを形成し始めるきっかけとなった。Record Collectorのインタビューの中でこう語っていた。
「彼はこれまで一緒に演奏した中でも最高のドラマーだったけれど、最初は彼のスタイルに適応するのにとても苦労した。滑らかで流れるようなサウンドを演奏する私に対し、彼は激しく叩きつけるように演奏していた。私はもっと大きな音を出し、それまでと違うスタイルで演奏することを余儀なくされた」
ジャズ・メッセンジャーズでの活動は、彼の作曲家としてのキャリアにとって実り多いものだった。バンドの音楽監督として、彼は1958年にブルーノートからリリースされた名盤『Moanin’』に3曲の印象的な楽曲を提供した。そのうちの1曲「Blues March」は、キャッチーなメロディーと躍動感のある武骨なバックビートで、アート・ブレイキーの卓越したドラム技術を際立たせた。
もう1曲は、滑らかで調和のとれたホーンのメロディーが魅力の都会的なスロー・スウィングの「Along Came Betty」だ。これらの2曲は、クインシー・ジョーンズ・ビッグ・バンド、ザ・スリー・サウンズ、ラテン・ジャズ・ヴィブラフォン奏者のカル・ティジェイダーなど、さまざまなミュージシャンによってレコーディングされ、ジャズ・スタンダードの定番として広く知られるようになった。
アート・ファーマーと結成したザ・ジャズテット
1959年、音楽的な視野を広げたいと考えていたベニー・ゴルソンは、トランペット奏者のアート・ファーマーと手を組み、ザ・ジャズテットを結成。3本のホーンセクションを持ったこの6人編成のバンドは、他の多くのハードバップ・バンドよりも多彩で、より複雑な音色を演奏した。
1960年にチェス・レコードのアーゴからリリースされたデビュー・アルバム『Meet The Jazztet』には、彼が作曲した 「Killer Joe」というナンバーが収録されている。彼はRecord Collectorのインタビューの中で、この曲のインスピレーションについて、「バードランドで演奏していると、ポン引きが両腕に女性を抱えて入ってくるのをよく見かけていた」と説明していた。
この曲はやがて彼の代表曲として知られるようになり、当時ポップスやR&Bのレコード・プロデューサーとして有名だったクインシー・ジョーンズが1970年にヒットさせたシングルのベースとなった。
西海岸への移住とサウンドトラック作曲家への転向
60年代前半、ベニー・ゴルソンはバンドリーダーとしてもサイドマンとしても多忙を極めていたが、1967年、芸術的に成長する機会が不足していると感じ、ニューヨークのジャズ・シーンから離れることを決意。クインシーの勧めでハリウッドに拠点を移し、アレンジャー兼作曲家としての地位を確立することを目指した。彼は2009年のインタビューでこの当時について、「ジャズミュージシャンとして知られることを避けたかったので、サックス奏者としての仕事を断っていた。私は映画音楽の作曲家になりたかった」と語っていた。
1969年、彼は後に『黒いジャガー』などを手掛けることになるゴードン・パークスが監督を務めた青春映画『知恵の木』の音楽を担当。その傍ら、コマーシャルの作曲に加え、ユニバーサル・スタジオで働き、『スパイ大作戦』、『マッシュ』、『600万ドルの男』などの有名テレビ番組の音楽も手掛けた。1983年、彼はジャズ評論家のレス・トムキンスに「8年間、私はサックス・ケースを開けたことすらなかった」と明かしている。また、ロサンゼルスでの生活の初期に、エホバの証人を信仰するようになった彼は、生涯を終えるまで信者であり続けた。
再びNYを拠点にレコーディング・アーティストとして復帰
西海岸で12年間活動した後、ニューヨークに戻ったベニー・ゴルソンはレコーディング活動を再開。1970年代後半にはコロムビア・レコードからディスコ・ファンクのアルバムを数枚リリースし、エスター・フィリップスやラリー・グラハム&グラハム・セントラル・ステーションらのR&B作品をプロデュースした。1980年代、彼はハードバップのルーツに立ち返り、ザ・ジャズテットを復活させたが、以前のキャリアへの復帰は彼にとって決して簡単なことではなかった。彼は2016年の回顧録に、「ジャズに対する自信を完全に取り戻すまでの道のりは長く険しいものだった。かつて当たり前だと思っていた多くの技術を学び直さなければならなかった」と記している。
ベニー・ゴルソンはまた、スティーブン・スピルバーグ監督による2004年の映画『ターミナル』に本人役で出演し、広く知られることになった。この映画では、1958年のEsquire誌に掲載されたアイコニックな写真「A Great Day In Harlem」に登場した57人のジャズ・アーティストの最後の生き残りの一人として彼が紹介されている。また、晩年の20年間で、彼はバークリー音楽大学、ハワード大学、ピッツバーグ大学から名誉学位を授与されたほか、グッゲンハイム・フェローシップやNEAジャズ・マスターズ・フェローシップを受賞している。
彼はニューヨーク、ロサンゼルス、ドイツのフリードリヒスハーフェンを行き来しながら、80年代後半までツアーとレコーディング活動を続けた。2016年、彼はハイノート・レコードから最後のスタジオ・アルバム『Horizon Ahead』をリリースした。このアルバムには、切なく心に響くメロディーが詰まっており、発売当時87歳という年齢にもかかわらず、彼のサックス演奏は依然として叙情的で力強いものだった。
ベニー・ゴルソンのサックス奏者としての功績は、ソニー・ロリンズやジョン・コルトレーンといった同時代の実験的な音楽家の陰に隠れがちだったが、同業者たちは皆、彼の魂のこもった演奏を称賛していた。彼は、モダンジャズに最も永続的なメロディーを提供した作曲家としても記憶されるだろう。1983年のNational Jazz Archiveのインタビューの中で、彼は作曲家としての変わらぬ信条として、自身のアプローチについてこう語っていた。
「自分の心で感じたことを書かなければならない。人々を喜ばせるために書くことはできない。自分が感じていることでなければならない。そうでなければ、すべてが無意味になってしまう。嘘になってしまうんだ。自分に正直でいなければならない」
Written By Charles Waring
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