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Rap On Trialとは?:ヒップホップの歌詞が裁判の証拠に使われるアメリカでの構造的な人種差別
アメリカでは数年前から、ラップの歌詞が裁判の証拠として使用され、実際に証拠として使用されたことで陪審員の心証を傾かせて有罪判決がでているケースもある。
こういった問題が「Rap on Trial」として、問題として取り上げられ、問題をまとめた書籍の発売や問題を提起するサイトも立ち上げられている(本記事のバナーの言葉はそのサイトから引用したものだ)。
この問題についてライター/翻訳家の池城美菜子さんに解説いただきました。
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殺人を取り扱う歌詞は多いが、なぜかヒップホップだけが裁判の証拠となりうる
Mama just killed a man, Put a gun against his head
Pulled my trigger, now he’s dead
Mama, life had just begun
母さん 人を殺してしまった 彼の頭に銃口を突きつけて
引き金を引いた 死んじゃったんだ
母さん 人生が始まったばかりだったのに」
(クィーン「Bohemian Rhapsody」)
No, no body, no crime
I wasn’t lettin’ up until the day he die
遺体がなければ 犯罪も存在しない
彼が死ぬ日まで私はあきらめなかったの
(テイラー・スイフト「no body, no crime」)
Oh, I just killed my ex (My ex, oops), not the best idea (Idea)
Killed his girlfriend next, how’d I get here? (He left me no choice)
I just killed my ex (My ex), I still love him though (I do)
Rather be in Hell than alone
あ 元カレを殺しちゃった あまりいいアイディアではなかったけど
それから元カノも どうしてこうなったんだろ?(選択の余地がなかったんだよね)
元カレを殺しちゃった まだ愛しているんだけどね(まじで)
一人で地獄にいるよりはましだから
(SZA「Kill Bill」)
ポップ・ミュージックには、人殺しをテーマにした曲が意外と存在する。私たちはこれを完全にフィクションとして楽しみ、フレディ・マーキュリーやテイラー・スウィフト、SZAを崇めることはあっても、危険人物と見做しはしない。映画産業においても不動の人気があるマフィア映画や任侠映画の脚本を書いたり、監督を務めたりした人を犯罪者予備軍だと考える人も、まずいないだろう。創作物と現実のちがい、言論の自由を心得ているからだ。
ところが、ある特定の人種による、特定のジャンルの音楽となると話がちがってくる。黒人、ラティーノと分類される男性による、ヒップホップのリリックが堂々と裁判の証拠として採用されているのが、問題になっている。
この件は、「RAP ON TRIAL / ラップ・オン・トライアル」と呼ばれ、注目を集めている。この場合の“トライアル”は試用ではなく、裁判のこと。ラップのリリックが裁判における証拠として検察側が使い、とくに裁判員制度で一般人から選ばれた裁判員の心証に影響を与えて、有罪判決を導き出したり、ほかの人種による似たケースより刑が重くなったりするケースが跡を絶たない。これが構造的な人種差別の一環として、やっと俎上に上がった形だ。
この話題が注目された大きなきっかけは、2019年に刊行された『Rap on Trial: Race, Lyrics, and Guilt in America』(裁判におけるラップ;アメリカにおける人種、リリックと罪/日本未発売。以下、副題省略)である。リッチモンド大学の教授であるエリック・ニールセンと、公選弁護人を務めたのち、ジョージ大学ロースクールで刑法を教えているアンドレア・デニスの共著だ。前書きは、アトランタのラッパー、キラー・マイク。本稿はこの本の要約を土台に、ヤング・サグのケースに触れながら日本人にはわかりづらい点を補足しながら進めていく。
『Rap on Trial』の内容:犯罪を匂わせるリリックがあれば有罪
ラッパーが事件を起こした際に、歌詞が証拠として採用されるのはここ数年で始まったことではない。「ヒップホップ・ポリス」と呼ばれる、有名ラッパーの動向に目を光らせる警察官の存在もずっと囁かれている。筆者も初めて知った事柄ではなかったが、この本に出てくる実例を読んで驚いた。確たる物的証拠がなくても、あやふやなまた聞きの証言と被疑者の書いた「犯罪を匂わせるリリック」があれば、有罪になってしまうのだ。
ジェイ・Zのロカフェラ・レコーズにいたビーニー・シーゲルや、ルイジアナのラッパー、リル・ブージーなど比較的知られているラッパーも本で取り上げられているが、被疑者の多くがアマチュアのラッパーだったり、趣味でリリックを書いているだけであったりするケースもある。
ラップのリリックは、ドラッグの売買や銃にまつわる内容が多い。1980年代から90年代半ばのいわゆるゴールデン・エラは、KRS-1やパブリック・エネミーの世の中の不正を正すコンシャス・ラップや、ア・トライブ・コールドやデ・ラ・ソウルらネイティブ・タンに代表される生活に根ざしたラップもあったし、この流れはいまでも健在だ。だが、一番売れるのはギャングスタ・ラップなのだ。
西海岸のN.W.A.やスヌープ・ドッグが広めたギャングスタ・ラップは、暴力と警察官に対する怒りをラップしていた。ラッパーに元ドラッグ・ディーラーや、ギャングのメンバーが多かったのは事実だ。だが、この頃からしっかりリリックを聴き込むヒップホップ・ファンは、ラッパーを「ストーリー・テリングとワードプレイとリズム感(フロー)でヒット曲を出し、危ない生活から足を洗った成功者」と受け止めてきたように思う。
レーベルも予算をかけてまで現役のギャングを売り出すような危険は冒さないし、本人たちも「危険と隣り合わせのメンタリティ」をラップしつつ、真っ当な金を稼げる状態を自慢していたのだ。
あくまでリリックは「芸」
ヒップホップで大切な価値観に、「keep it real (本物であれ)」がある。ここで誤解が生まれてしまうのだが、これは成り上がるだけのメンタリティ、強さがあるかどうかの話であり、実際に法に触れているかどうかは関係ない。
たとえば、マイアミの人気ラッパー、リック・ロスは野太い声で派手に金を稼ぐラップで人気だが、じつは看守だった過去がある。人気者ゆえ、ビーフの標的にされがちなロスは、これが発覚したとき「警察側の人間だったくせに」と攻撃された。ところが、多くのファンの反応は「だから何?」であった。ラップがフィクションなのは織り込み済みだし、逆に元看守から人気ラッパーに転身できてすごいよね、という取り方だ。
近年、各ストリーミング・サービスでもっとも聴かれているジャンルが、ヒップホップであるのがよく話題になっている。リスナーが増えたのはいいことだが、2024年に大きな話題となったドレイクとケンドリック・ラマーのビーフの反応を見ても、リリックを真に受け過ぎる人が増えた気がする。
ビーフは口喧嘩の「芸」だ。攻撃するときにどこまで非情になれるかが勝つためのポイントで、事実をまぶしながら大げさに相手を貶める。ケンドリックがストリーミングでは圧倒的な勝者であるドレイクを、ほかのよりハードコア・ラッパーを「搾取」しているとラップしても、「一理ある」とは思っても、ヒップホップのビーフをよくわかっている人なら文字通りには受け取らない。
『ヴィンス・ステイプルズ・ショー』でのブラックユーモア
ところが、もっとも現実と虚構を見極めるべき法を司る側の人々が、あえてこのふたつを混同しているように見える。犯罪が起こり、物証なり確たる目撃者なりがあって起訴され、刑が決まる日本の常識からだと理解しづらいが、この現実をうまく切り取り、これをブラックユーモアで描いたのが、『ヴィンス・ステイプルズ・ショー』のひとつめのエピソードだ。
ロサンゼルス、ロング・ビーチのラッパー、ヴィンス・ステイプルズがNetflixと組んで制作したショート・シリーズで、ドナルド・グローヴァーの『アトランタ』をよりオフ・ビートにしたコメディドラマ。このふたつの番組が似ているのは理由があり、ヴィンスの後押しをしたのがドナルド・グローヴァーこと、チャイルディッシュ・ガンビーノだから。
初回「ピンクの家」は、ヴィンスが本人のまま、スピード違反をきっかけに収監される。ここで警官たちはチケットをねだりつつ自白をもちかけ、以前の裁判の話をする。彼のラップを引き合いに出してから、「法廷でこの歌詞を引き合いに出されたのに、よく裁判に勝ったな」と警官が言うのだ。
つまり、ヴィンス・ステイプルズによる地元のロング・ビーチの状況を映したリリックは裁判には不利になるはずなのに、という意味であり、「ふつうなら有罪になるよね」との含みがある。念のために書くと、ヴィンスはけっしてギャングスター・ラッパーではない。
ラップのリリックを裁判で使わせない法案
世論の高まりを受け、カリフォルニア州は裁判でラップの歌詞を証拠として使用するのを2023年に禁止した。ニューヨーク州でも同様の議論がなされている。この時の、法案決議の正当化理由の一部を抜粋して訳出してみよう。
Rap has come under scrutiny for decades, being blamed by the media for criminal activity, and admitted as evidence of criminal behavior by the artist. Social scientists have linked anti-rap attitudes and racially discriminatory behavior. But rap is just like any other creative expression. The New Jersey Supreme Court wrote that “one cannot presume that simply because an author has chosen to write about certain topics, he or she has acted in accordance with those views” (State v. Skinner,218 N.J. 496, 517, 521 (2014). The court noted that no one believes that Bob Marley actually “shot the sheriff,” or that there’s a man buried in Edgar Allan Poe’s floorboards.
何十年もの間、ラップは批判を浴び続けてきた。メディアから犯罪行為として非難され、アーティストによる犯罪行為の証拠として認められてきたのだ。社会科学者は、ラップに敵対する態度と人種差別的な行動はつながっていると指摘している。しかし、ラップはほかの創造的表現と同じだ。ニュージャージー州最高裁判所は、「特定のトピックについて書いたからといって、その作者が書いた内容の見解に沿って行動したと推定することはできない」(ニュージャージー州最高裁)と書いている[State v. Skinner、218 N.J. 496, 517, 521 (2014)]。裁判所は、ボブ・マーリーが実際に「保安官を撃った」と信じている者はいない(*1)。エドガー・アラン・ポーの家の床下に男が埋まっているなどとは誰も信じていない(*2)。
編註*1: ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのヒット曲「I Shot The Sheriff」のことを指している
編註*2: 名探偵が登場する推理/犯罪小説で有名な小説家。
当たり前のように読めるが、この法案はカリフォルニア州、ルイジアナ州で可決され、イリノイ州、ニュージャージー州、ニューヨーク州、ミズーリ州、メリーランド州で提出された段階だ。これを受けてレコード会社、ユニバーサル ミュージック グループ(UMG)は、異例のステートメントを出した。
ニューヨークの”Rap On Trial”法案は偏見に立ち向かい個人の創作の自由を守るものだ。
UMGは発案者と議会にこの問題への取り組みを委ねた上で、速やかな制定を要請する。
The New York State legislature’s ‘Rap on Trial’ bill sets thoughtful and balanced criteria for considering lyrics in a criminal case without chilling an individual’s First Amendment rights and creating an implicit bias against their artistic works.
Learn more about this… pic.twitter.com/5SZAmg1GyC
— Universal Music Group (@UMG) May 28, 2024
ヤング・サグの例
現在、裁判中でもっとも有名なラッパーが、ヤング・サグだろう。彼が主催するYSL(Young Stoner League)がじつはYoung Slime Leagueという名の犯罪組織だとして、ヤング・サグ、ガンナほか所属ラッパー28名が逮捕された。1970年にマフィアを取り締まるために制定された通称RICO法が適用された形だ。
RICO法でのヤング・サグの逮捕のニュースは知っていても、詳細を知らないファンは多いと思う。端的に書くと、アトランタの司法側がヤング・サグたちを「ギャング」だと決めつけた無数の罪状を積み上げた事件だ。ヤング・サグのラッパーとしての振る舞いを「顕示的行為 (overt act)」として犯罪に結びつけ、そのうえで17のリリックを証拠として裁判に使った。
YSLをロサンゼルスの有名なギャング、ブラッズと関連があると言い切っているのが、こじつけではないか、と全米から注目されている。そして、その注目度の高さゆえ、一般の人から募集する陪審員がなかなか決まらないのが現状だ。
アメリカの陪審員の募集はランダムで、私がニューヨークで非移民合法的労働者(グリーンカード以外の労働ビザで住んでいる人)だったときも、何度か手紙が届いた。最初はまじめに引き受けられない理由を書いて送り返していたが、特にしなくても問題ないと友だちにアドバイスされた。それくらい、本当にランダムなのだ。
熱心なヒップホップ・ファンであれば、高身長の体躯に女性用の服を好んで着込み、控えめに言っても奇天烈なフローをかますヤング・サグが、本物のギャングを率いるボスとのニュースを聞いて違和感があったと思う。筆者はあった。
2010年代のアトランタのトラップ・シーンを盛り上げた人気者で、音楽で大金を稼いでいるはずなので、犯罪に手を染める必要も暇もなさそうだ。心証だけで無罪とは言い切れないが、「ラッパーらしい振る舞いをするから犯罪者」では、話は堂々巡りである。ガンナは軽い犯罪を認める代わりに、保釈されている。
ヤング・サグは保釈金を払って出所できるように訴えたが、何度も却下されている。最新のニュースでは、
検察側の一人が不当に目撃者に接触したらしい
⇩
ヤング・サグの弁護士が指摘して、裁判から外れるように要求
⇩
逆にこの弁護士が逮捕されそうになる
と混乱を極めている。
結果、ヤング・サグの裁判は無期延期になっていると、主要な新聞やメディアが伝えたばかり。一般人で似たケースだと、こう着状態のまま拘置所から出られないわけで、生活が成り立たない。高い保釈金も州の収入になるわけで、これが拘置所はビジネスになる、と言われる理由だ。あまりにも例が多過ぎて、ヒップホップそのものが黒人とラティーノ男性を刑務所に入れるためのものだという極端な陰謀論も出ている。
YSLが所属する360エレクトラ・エンターテイメントのトップはケヴィン・ライルス。元デフ・ジャムのトップで、よく知られた大物だ。彼を中心に「Protect Black Act(黒人のアーティストを守ろう)」という運動も始まっている。当然、ジェイ・Zとも親しい。この件でジェイ・Zが積極的に声を上げているのは、このあたりも関係あるのだろう。
リリックが裁判の証拠に使われる弊害はドキュメンタリー映画『As We Speak』、Hulu『Watch Rap Trap』や、地上波のテレビ局ABCによる特別番組にもなっており、ウェブサイト「Rap on Trial」も公開されている。日本のヒップホップ・ファンとしては、何が起きているか把握するくらいしかできないが、経過を見守りたい。
Written By 池城 美菜子(noteはこちら)
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