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ロキシー・ミュージックとブライアン・フェリー
ラジオDJ、ライナー執筆など幅広く活躍されている今泉圭姫子さんの連載「今泉圭姫子のThrow Back to the Future」の第8回です。コラムの過去回はこちら。
ロキシー・ミュージックのデビュー・アルバムとなる『Roxy Music』の発売45周年を記念したスーパー・デラックス・エディションが2018年2月2日に発売されます。
ニューカッスル大学の苦学生だったブライアン・フェリーは、卒業後美術の先生をするかたわら音楽を続け、1971年にロキシー・ミュージックを結成し、27歳でようやくデビューしたわけです。キング・クリムゾンのヴォーカル・オーディションを受けたこともある彼、もし受かっていたら今のブライアン・フェリーは生まれていたのでしょうか?人生は適材適所!その人に合う場所が見つけられた時にその光りは輝きを放ちます。
ブライアン・フェリーは27歳にして輝ける場所にたどりつき、マーク・ボラン、デヴィッド・ボウイに続くシンガーとして一気にグラム・ロック・シーンに躍り出たのです。ロキシー・ミュージックがグラム・ロックであったかなかったか、当時はそういう論争にはならなかったのでしょうか!? 当時のUKロック・バンドは、なんらかの形でグラム・ロック的な要素がありましたが、70年代のロキシー・ミュージックをリアル体験していない私にとって、それは素朴な疑問となっています。
デビュー後のロキシー・ミュージックは、アート・ロックとしての存在感を強めていき、少なくとも第1期の活動期間である4年間は、ブライアン・イーノがのちにアンビエント・ミュージックという新しいジャンルを築いたサウンドを、初期のロキシー・ミュージックのスタイルに投入し、ブライアン・フェリーのスタイリッシュなヴォーカルとの融合で、ロキシー・ミュージックの基盤を築きました。
彼らはデヴィッド・ボウイのジギー・スターダストUKツアーのサポートを経て、イーノは脱退したものの3枚目のアルバム『Stranded』で初のUKナンバー・ワンを獲得し、5枚目のアルバム『Siren』からの「Love is The Drug」がUKシングル最高位2位を記録するヒットを生んでいます。
ブライアン・イーノはたった2枚のアルバムで脱退しましたが、その後は前述したように、アンビエント・ミュージック(環境音楽)を掘り下げていき、プロデューサーとしてはトーキング・ヘッズ、U2、ウルトラヴォックスなどを手がけ、ヒット・プロデューサーとなりました。
アンビエント、環境音楽なんて言葉は、当時高校生だった私には消化できる言葉ではありませんでしたが、80年代になってイーノが手がけたバンドたちによる音を聴きながら、彼がプロデュースしたバンドの新しい方向性を音として楽しめたし、イーノというアーティストがこだわり続けたアンビエントな世界観(生活の中に溶け込む音楽)というものを楽しめる年齢にようやくなったのかなと思う今日この頃です。
あらためてロキシー・ミュージックのデビュー・アルバムを聴き直すと、ブライアン・フェリーの歌声とブライアン・イーノの作り出す音楽は、カテゴライズされた当時のグラム・ロック界の中にあって、他と一線を画すものがあり、その理由は二人のクリエイティヴィティによるものが大きかったことを実感します。そしてイーノが離れていった理由、フェリーが求めて行った場所、その道が明らかに違ったのは、今だからわかることなのかもしれません。
ロキシー・ミュージックがコマーシャルな人気を得るようになったのは第2期からです。1975年に解散を発表したロキシー・ミュージック。ソロとなったブライアン・フェリーは彼の持ち味であるヴォーカル・スタイルをより全面に押し出し、ダンディズムの追求とスタイリッシュなイメージは、どんどん形となっていきました。彼がロキシー・ミュージックを停止させていた時期、UKではパンク・ムーヴメントが吹き荒れていました。そのムーヴメントから派生したのがネオパンクであり、ニューロマンティックでした。
そんな新しいアーティスト、バンドは、英国ロックの王道を基盤にしながらも、パンキッシュなものを取り入れ、さらにはダンス・ミュージックの新しい表現を生み出していきました。それがニューロマンティックだったわけです。そんなグループのヴォーカリストたちはデヴィッド・ボウイ、ブライアン・フェリーに影響を受けた英国ならではのスタイルを持ち味としていました。
サイケデリック・ファーズのリチャード・バトラー、ザイン・グリフはまさにデヴィッド・ボウイの2世のようだったし、デュラン・デュランのサイモン・ル・ボンは、ブライアン・フェリーに影響を受けていたことを隠すことなく、ヘアースタイルを真似していたり、ゆったりめのパンツを履いていました。ヴォーカル・スタイルもブライアン・フェリーでしたね。「いや影響は受けてない」といきがっていたサイモンが懐かしいです。「そのまんまだったから」と言ってあげたいです。当時、イギリスのジャーナリストたちは、新しいシンガーには必ず“ボウイッシュ”か“フェリーイッシュ”かと新人紹介には必ずこの表現を使っていました。例えば、サイモンはフェリーッシュだったわけです。ブライアン・フェリーの80年代は、誰もが認める英国を代表するシンガーとして上り詰めたていったのです。
ロキシー・ミュージックは、1980年に発表したアルバム『Fresh+Blood』が、1973年の『Stranded』以来のUKナンバー・ワンとなり、4週間1位、60週間チャート内にランクインというロングセラーになりました。ブライアン・フェリー、フィル・マンザネラ、アンディ・マッケイの3人組となったロキシー・ミュージックでしたが、このアルバムでより幅広い支持層にアピールしたわけです。
その頃、イギリスではカフェ・ブームという新しいジャンルのムーヴメントが生まれていました。若者が支持するニューロマンティックはブリティッシュ・インベージョンとしてグローバルなものとなっていきましたが、カフェ・ブームは、スタイル・カウンシル、シャーデー、スウイング・アウト・シスターなどの登場で、ロンドンの街もキングスロード(パンク発祥地)ではなく、オックスフォード・ストリートの裏道セイント・クリストファー・プレイスなどのカフェで流れるおしゃれで大人な音楽が好まれるムーヴメントが生まれたのです。
ポール・ウェラーがこの世界観にいるのは意外でしたが、若者や子供達だけが楽しめる音楽だけではなく、イギリスには、イギリスの大人たちも楽しめる音楽があるのだ、というハイソサエティな音楽をイメージするのがカフェ・サウンドでした。振り返ると、その土台となったのが、ロキシー・ミュージックの『Flesh+Blood』であり『Avalon』だったのではないかと思うのです。ロキシー・ミュージックがカフェ・サウンドであったというのではなく、そのムーヴメントの裏に隠された大人が楽しめる音楽というジャンルは、ロキシー・ミュージックの第2期によって確立されたといえます。
日本では、70年代のロキシー・ミュージックの認知度がそれほど高くなかったことを受け、ビッグ・ヒットとなった『Flesh+Blood』、ロキシー・ミュージックにとって初のシングル・ナンバー・ワンとなったジョン・レノンのトリビュート「Jealous Guy」、そして次作となる『Avalon』によって、日本でも大人が楽しめるロックの代表グループとしてロキシー・ミュージックを宣伝することになりました。
当時ラジオCMも制作し、私とミュージック・ライフ誌の塚越みどりさんによるMCで、「お酒のつまみにロキシー・ミュージック」というCMを作った記憶があります。これは当時のディレクター小池一彦さん(のちにユニバーサル・ミュージック合同社長兼最高経営責任者[CEO])のアイデアでした。お酒イコール大人という単純なイメージによるセリフでしたが、わかりやすいな〜と今も思います。まあ、80年代は面白いことやっていたわけです(1997年に木村拓哉さん主演ドラマ「ギフト」で、1977年のブライアンの作品「Tokyo Joe」が使われ大ヒットしましたが、70年代のロキシー・ミュージックの作品を多くの人が直接的に感じたのは、この時だったかもしれません)。
そんな時期に来日を果たしたロキシー・ミュージック。『Flesh+Blood』で衝撃を受けた私は、すっかりブライアン・フェリーのスタイリッシュでダンディな出で立ちと深い歌声に魅了されていました。『Flesh+Blood』は私のAll Time Best Top10に入ります。
1979年から大貫憲章さんと担当したラジオ日本「全英トップ20」で毎週UKの音楽シーンを紹介していた私は、まさに黄金の80年代のUKをリアルに体験していたので、『Flesh+Blood』は、今でいうエド・シーランの『Devide』のように長く売れ続けて、シングル・ヒットをじゃんじゃん生み出していました。そんな時代の大御所ブライアン・フェリーにインタビューというチャンスがやってきました。
「お酒のつまみにロキシー・ミュージック」なんて言っていた私ですから、一体どんなインタビューだったのでしょうか…。はい、忘れました。今思うと恐ろしい度胸です。70年代の彼らを体験していないインタビューアーだったわけですから。失礼があったのではないかと今更ドキドキです。でも写真のブライアン・フェリーを見ていただくと、かなり穏やかな人であることがわかります。唯一覚えているのは、ちょうど若い奥さんと結婚したばかりで、どこかお城に住んでいるという話。いいな〜、お城に住むだなんて、という記憶だけが残っています。
これは失礼な話になってしまうかもしれませんが、当時汗ダラダラかいてステージに立つアーティストを冷ややかに見ていた私は(今は違うけど)、ブライアン・フェリーは汗をかいてはいけない人だと決め込んでいました。汗はかかない、トイレにはいかない的な…長身でかっこいい、まさに英国紳士である、という幼稚な発想です。でもステージの彼は思いっきり汗をかいて、シャツがびしょ濡れで、体をゆらゆら揺らし、ダンスというのかなんというのか、パフォーマンスは想像と違ってびっくり仰天でした。
そんな姿で「More Than This〜」と歌っていたのです。もちろん、イヤ、そうじゃないでしょ、と心の叫びもあったのですが、実際お会いするとスタイリッシュだったという写真がこれ!なんです。今はその大揺れのダンスも好きなんですが、当時は若かったということで…。
今年はデビュー45周年もあり、ブライアン・フェリーはソロとして春にUK&ヨーロッパ・ツアーを行います。72歳の姿は変わらずダンディーでスタイリッシュであるはず。汗いっぱいかいたステージをまたこの目で見て、ロキシー・ミュージックの、ブライアン・フェリーの新たな発見を見つけてみたいのです。
- ロキシー・ミュージック アーティストページ
- ロキシー・ミュージック、デビュー盤発売45周年を記念盤
- 100万枚を売り上げたロキシー・ミュージックの『Avalon』
- ブライアン・イーノの20曲
- グラム・ロックがいかに世界を変えたか:その誕生と退廃を振り返る
ロキシー・ミュージック デビュー・アルバム発売45周年記念!
4枚組スーパー・デラックス・エディション2018年2月2日発売!!
連載『今泉圭姫子のThrow Back to the Future』 バックナンバー
- 第1回 :U2『The Joshua Tree』
- 第2回 :バグルス『ラジオ・スターの悲劇』
- 第3回 :ジャパン『Tin Drum』(邦題:錻力の太鼓)
- 第4回 :クイーンとの出会い…
- 第5回:クイーン『世界に捧ぐ』
- 第6回:フレディ・マーキュリーの命日に…
- 第7回:”18 til I Die” ブライアン・アダムスのと想い出
ラジオDJ、音楽評論家、音楽プロデューサー
1978年4月、湯川れい子氏のラジオ番組「全米Top40」のアシスタントDJのオーディションに合格し、この世界に入る。翌年大貫憲章氏とのコンビでラジオ番組「全英Top20」をスタート。以来現在までにラジオDJ以外他にも、テレビやイベント、ライナー執筆など幅広く活動。また、氷室京介のソロ・デビューに際し、チャーリー・セクストンのコーディネーションを行い、「Angel」のLAレコーディングに参加。1988年7月、ジャーナリスト・ビザを取得し、1年間渡英。BBCのDJマーク・グッドイヤーと組み、ロンドン制作による番組DJを担当。
1997年、ラジオ番組制作、企画プロデュースなど活動の場を広げるため、株式会社リフレックスを設立。デュラン・デュランのジョン・テイラーのソロとしてのアジア地域のマネージメントを担当し2枚のアルバムをリリース。日本、台湾ツアーも行う。
現在は、Fm yokohama「Radio HITS Radio」に出演中。
HP:http://keikoimaizumi.com
Twitter:https://twitter.com/radiodjsnoopy
Radio:Fm yokohama「Radio HITS Radio」