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Classical Features

ベートーヴェンはロックスターである。その理由を楽曲と生涯から辿る by 水野蒼生【連載第4回】

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2020年はクラシックの大作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの生誕250周年の年。そんな彼は現代でいうとロックスターだった?

巨匠カラヤンを輩出したザルツブルクの音楽大学の指揮科を首席で卒業し、その後国内外で指揮者として活躍。一方で、2018年にクラシックの楽曲を使うクラシカルDJとして名門レーベル、ドイツ・グラモフォンからクラシック音楽界史上初のクラシック・ミックスアルバム『MILLENNIALS-We Will Classic You-』をリリース。今年3月にはベートーヴェン・トリビュートのアルバム『BEETHOVEN -Must It Be? It Still Must Be-』を発売するなど、指揮者とクラシックのDJという両輪で活躍している水野蒼生さんによる寄稿、その連載第4回です。(第1回第2回第3回


 

皇帝の追い討ち

1809年の5月11日、ウィーンは再びナポレオン軍の侵攻に遭っていた。円周5km以上の壁の周りを大規模な軍隊が取り囲み、あっという間に街は完全包囲されてしまっていた。
たった4年の間に2度もナポレオン軍の侵攻に遭う羽目になるとはウィーン市民の誰も思っていなかっただろう。市民たちは驚愕し、4年前の侵攻の時と同じように財力のある人々は総じて市外へと疎開した。こうしてきらびやかな文化都市だったはずのウィーンは一瞬にして閑古鳥が鳴く寂れた街へと姿を変えることになった。前回の侵攻と違ったのは、ナポレオン軍が街中に向けて砲撃をしはじめたことだ。砲撃は一晩中続き、町に取り残された貧しい市民たちは地下にこもる。大砲の爆音に怯え、死を覚悟しながら震えて夜を明かした。天下の大作曲家、ベートーヴェンも同じように。

翌朝、いつまでも続く砲撃に耐えかねたウィーンはナポレオン軍に対して全面降伏をし、再び街はしばらくナポレオンの占領下に置かれることになった。占領下の環境は前回よりもひどく、ウィーンは郵便を含む他の町との交流を一切ストップされ鎖国状態を強いられた。その上莫大な賠償金の支払いによって経済は落ち込み、街ではしばしば暴動が起きる有様だったという。

そんな最悪な環境下でもベートーヴェンはただひたすらに自分の内にある音楽と向き合っていた。オーストリアの皇室と共に疎開してしまったパトロンであり弟子でもあったルドルフ大公を思って作られたピアノ・ソナタ第26番「告別」や、彼の最後のピアノ協奏曲第5番などの傑作はこのナポレオン占領下のウィーンで作られている。このピアノ協奏曲第5番は《皇帝》というタイトルで親しまれているが、これはベートーヴェンが名付けたものではなく後世広まったニックネーム。皇帝となったナポレオンの占領下で書いた作品に《皇帝》というタイトルがついてしまったことは本当に皮肉めいているけれど、それでもこの作品のもつ荘厳で華やかな雰囲気がこんな情勢下で書かれていることには驚かされる。

Beethoven: Piano Concerto No. 5 in E-Flat Major, Op. 73 "Emperor" – 1. Allegro (Live at…

この曲はナポレオンに献呈を予定されていた「英雄」と同じ調性、変ホ長調で書かれていて、その他にも両者には音楽的な共通点が多い。「英雄」作曲後もベートーヴェンがナポレオンに対して特別な感情を抱いていたことは間違いない。それを裏付けるベートーヴェンのこんな言葉も記録に残っている。「もし俺が音楽の技法と同じだけ戦術に長けていたなら。きっと奴を負かしていただろうに!」。もしかしたらこの《皇帝》もナポレオン侵攻に焚き付けられて生まれているのかもしれない。

Beethoven: 3. Sinfonie (»Eroica«) ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Andrés Orozco-Estrada

洗脳の真実

ナポレオン軍の侵攻から約1年経った1810年の5月。フランスとの平和条約が締結され、ウィーンの街が徐々に再生してきた頃にベートーヴェンは自身の生い立ちに関する衝撃的な事実を突きつけられることになる。この頃、ベートーヴェンはある女性との結婚を考えて心躍る日々を過ごしていた。もう40代目前、家庭を持ちたいと願うのは当然の願望だろう。結果的にこの結婚計画は破談に終わってしまうのだが、このためにベートーヴェンは故郷であるドイツのボンから洗礼書(今でいう戸籍謄本のようなもの)を取り寄せていた。「この書類で結婚という長年の夢を現実にすることができる!」そんな高揚感で書類の封を切ると、そこには衝撃的な内容が記されていた。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 洗礼日:1770年12月17日

「おかしいぞ、今の俺は38歳のはずだ。だとしたら1772年に生まれてるはずじゃないか。。。?」

この矛盾の裏にはベートーヴェンの父親が仕組んだカラクリがあった。ルートヴィヒの父親、ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンは息子を神童として売り出すためにルートヴィヒが7歳の時に実年齢より1歳若い6歳と詐称してコンサートを企画している。そんな父親からの洗脳を受けたため年齢自認が曖昧なままベートーヴェンは大人になってしまったのだ。「俺は自分の年齢も知らずにこの歳まで生きてきただなんて、情けなさでいっぱいだ」と書かれた手紙も残っている。

ベートーヴェンの結婚への道は実年齢のショックだけを残して儚く散ってしまったが、それでもベートーヴェンの「家庭を持ちたい」という願望は潰えたわけではなかった。この破談から程なくして、ベートーヴェンは「また」運命の女性に巡り合う。

偽りの甘い日々と天才たちの邂逅

アントーニア・ブレンターノは30歳の既婚者で、3人の娘を持つ母親でもあった。それでもベートーヴェンは高い教養を備えた文化人の彼女にすぐに惹かれていった。アントーニアと夫との関係は完璧に冷え切っていたらしく、たまたまベートーヴェンの自宅近くに居住していたこともあってベートーヴェンはアントーニア宅に通い続けた。子供好きだったベートーヴェンはアントーニアの娘たちのことをとても可愛がり、通りからその家の窓を覗けば「幸せそうな家族」「円満な家庭」が映っていたのだろう。アントーニアが姉に宛てた手紙を読めば、彼女自身もベートーヴェンに対して好意(それが恋愛感情だったかは定かではないが)を持っていたことがわかる。この見せかけの「愛ある家庭ごっこ」の関係は2年ほど続くことになった。

アントーニアと親しくしているこの期間、ベートーヴェンは夏をボヘミアで過ごすようになっていた。「愛ある家庭ごっこ」の一環としての温泉旅行でもあっただろうが、ベートーヴェンにはもうひとつ大きな思惑があった。あのゲーテに会えるかもしれない。「ゲーテは夏になるとボヘミアで療養している」という噂をベートーヴェンはどこかで聞きつけていたのだ。

ベートーヴェンはゲーテの大ファンで、彼の詩を元に作った歌曲も数多くあった。数年前には王宮劇場から依頼されてゲーテの戯曲『エグモント』の劇伴を作曲したが「ゲーテへの愛のみで作曲したまでだ」といって異例にも報酬の受け取りを辞退している。

Beethoven: "Egmont" Overture / Abbado · Berliner Philharmoniker

そしてボヘミアに行き始めて2度目の夏、ついに歴史的な対面が実現する。ゲーテとベートーヴェン、二人の天才は互いが互いを確かな才能の持ち主と認め合い、二人はその夏のボヘミア滞在を毎日のように共に過ごした。ベートーヴェンはゲーテと過ごした日々をこう振り返っている。「難聴の俺に対してもあの人(ゲーテ)は本当に寛大に相手をしてくれたんだ。どれほどの幸せだったか!あの夏以降、俺はいつもゲーテを読んでいるよ」。

英雄の勝利

それから1年ほど時が経った1813年の6月、ベートーヴェンはふたたび辛酸を舐める日々を過ごしていた。アントーニアと育んだ「愛ある家庭ごっこ」も咋秋の訪れとともに崩壊してしまい、パトロンの急死や破産、弟カールの病など立て続けに不運が続く。起死回生を目論んでいた新作劇のための劇伴も希望通りの報酬は得られなかった。衣服はボロボロで、部屋もひどい有様だ。この頃のベートーヴェンはとても「あのゲーテに認められた音楽家」に相応しい生活は送れていなかった。そんな絶望的な日々を送るベートーヴェンの元にとあるニュースが飛び込んできた。

「スペインでナポレオンが大敗した!打ち破ったのはイギリスのウェリントン将軍だそうだ!」

たしかナポレオン軍は半年前にロシア遠征でも歴史的な敗北したばかりじゃないか、2連敗だなんて、ついにナポレオンの時代が終わるのか…? そんな予兆を感じ始めたウィーン市民にこの報せは吉報として届いた。この新しい時代の訪れはベートーヴェンにとっても大きなチャンスになった。

ナポレオン大敗の報せから半年ほど経った1813年の暮れのこと、ベートーヴェンはおよそ2年ぶりに新作お披露目の演奏会を開く。この日初演されたのは「交響曲第7番」と、「戦争交響曲(ウェリントンの勝利)」の2作品。初演は不評な事の方が多いベートーヴェンだが、この日初演された2曲は大熱狂で聴衆に迎えられた。

Beethoven: Wellington's Victory or the Battle Symphony, Op. 91 – I. Battle

交響曲第7番も好意的に受け入れられたが、《ウェリントンの勝利》を聴いた聴衆の反応は凄まじいものだった。この作品はまさに半年前のスペインでの戦争、ウェリントン将軍がナポレオンを撃退する様が描かれた作品で、盛大な金管楽器のファンファーレや行進曲風の大規模な打楽器、そして大砲の発砲音や銃声が使われるド派手なものだった。

インパクトのあるこの作品はオーディエンスに対してまるで麻薬のような効果を発揮した。その爆音はモヤモヤした不安な感情やストレスを一瞬にして蹴散らし、明るい未来に向けて勇しく進む架空の軍隊の幻想を聴衆に見せた。町全体があっという間に「ウェリントン中毒」になり、熱狂的な「中毒患者」は再演を求め続け、それと同時に《運命》や「田園」そしてお蔵入りになっていた唯一のオペラ《フィデリオ》など、ベートーヴェンの過去の作品も再評価されていく過去最大のベートーヴェン・ムーブメントが巻き起こったのだ。

Beethoven: Fidelio op.72 – Edited Helga Lühning & Robert Didio / Act 1 – O welche Lust

こうして、ナポレオンの没落と同時にベートーヴェンは勝者になった。時代が認める英雄となった。そして悠久的に尊敬され続ける音楽界の皇帝となった。占領下での「フィデリオ」初演、砲撃の中で書いた《皇帝》、今思えば「エロイカ」で暴君に成り下がったナポレオンと裾を分かった時からベートーヴェンの道はいつもナポレオンに邪魔をされてきた。もちろんこの二人の間に直接的な対決はなかったが、たしかにこの時、ベートーヴェンはナポレオンに勝利したのだ。

執着の狂気

時代にもてはやされるベートーヴェン、1814年の9月から開かれた「会議は踊る、されど進まず」で有名なウィーン会議も相まってベートーヴェンの人気は更に大きくなっていった。そんな右肩上がりのベートーヴェン だったが、ウィーン会議の幕が閉じてしばらく経った翌年の秋に今度はベートーヴェンに「家族」という運命がのしかかる。

病に伏せっていた弟のカールが急死したのだ。その知らせを受けてベートーヴェンは真っ先に、弟カールの息子カールの親権を主張、弟カールの妻から親権を剥奪しようと裁判を始めた。この裁判は数ヵ月続いたが結果的にベートーヴェンが望む形で決着がついてしまった。母親から無理矢理引き離され、突如親として名乗りをあげたベートーヴェンに対しまだ10歳ほどだった少年カールはどれだけ不安に思ったことだろう。そんなカールの気持ちなどお構いなしにベートーヴェンは有頂天になってカールを溺愛した。

こうして思わぬ形で家庭を持つ夢を叶えたベートーヴェンだったが、この先に待ち受ける親子生活は想像していた「幸せな家庭」とは真逆の方向、全ては崩壊に向かって動きだしていく。

Written by 水野蒼生


 


水野蒼生『BEETHOVEN -Must It Be? It Still Must Be-』
2020年3月25日発売
CD / iTunes / Apple Music / Spotify

水野蒼生/Beethoven Symphony No.5 1st Movement [Radio Edit] MV




 

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