Classical Features
80歳を迎えた世界的ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニの魅力とは?
2022年1月5日に80歳を迎えた世界的ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニ。
幼い頃からピアノを学び、1960年、18歳でショパン国際ピアノ・コンクールで優勝。その後、長きにわたり、活躍を続ける彼の魅力について掘り下げてみたい。ピアニスト、音楽ライターの長井進之介さんによる寄稿。
イタリアのピアニスト、マウリツィオ・ポリーニ。80歳という年齢になってもなお、ピアノを愛する人たちにとって大きな影響を与える存在である。彼がピアノを通して語るものは、楽譜のすべてといっても過言ではないだろう。普通では成しえないようなことを、「ミスター・パーフェクト」と評されるほど正確無比な技術をもつポリーニは実現してきたのである。
2021年、第18回ショパン国際ピアノ・コンクールが大きな話題を呼んだが、ポリーニはその第6回(1960年)で優勝し、世界的に大きな注目を集めた。なにしろ、審査員全員一致という“完全な”優勝を飾ったのである。さらにその優勝を印象付けたのが、当時審査員長を務めていたアルトゥール・ルービンシュタインの「技術的には我々審査員の誰よりも上手い」という言葉。当時、ショパン演奏における最大の権威ともいえる存在であったルービンシュタインの発言はポリーニを世界へと送り出す重要な役割を果たした。
「磨き上げられた大理石の彫刻や建築」とも評されるポリーニの演奏は、他の追随を許さない完成度を誇るテクニックによって作り上げられたものであり、それ自体が大きな個性といえる。聴き手にも極度の集中力を必要とするほどの研ぎ澄まされた感覚、硬質で透明感のある音色がもたらす演奏は、楽曲の隅々まで音で再現しようという彼の姿勢が見えてくる。あまりにも精密な演奏は、聴き手に「機械的」と評されることすらあった。
しかし、実際にポリーニの演奏に耳を傾ければ、作品そのものが語り掛ける言葉に耳を傾け、聴き手へと届けてくれようとする、あまりにも誠実な姿勢が見えてくるだろう。確かにポリーニの演奏からは、感情の爆発は聴こえてこない。しかしその分、楽曲の本質を理解し、見極めたことで生まれる“作曲家の想いを伝えるメッセンジャー”としての在り方が感じられるのである。
その音楽に対する誠実な姿勢は、ショパン国際ピアノ・コンクール優勝後の彼の活動を見てもわかる。弱冠18歳にして優勝したポリーニ。これは2000年に破られるまで、ショパンコンクール優勝最年少タイ記録であった(1975年にもクリスティアン・ツィメルマンが18歳で優勝している)。しかし将来が確約されたようなコンクールの優勝後、ポリーニはなんと10年近く国際的な演奏活動から遠ざかり、限定的な活動を行ったのである。自分の若さゆえの未熟さを自覚していた彼は、膨大な数のコンサートに追われる生活ではなく、さらなる技術の向上と音楽性を磨くための時間を設けることにしたのだ。
国際的な演奏活動を本格的に開始してからのポリーニも、慎重な姿勢を崩すことはなかった。レパートリーはバロック時代から古典派、ロマン派に現代まで非常に幅広いが、基本的には自分の信念に基づいたレパートリーの中で演奏や録音を行っている。ベートーヴェンのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲、ブラームスのピアノ協奏曲などは再録音が行われており、常に“完璧”を求める姿勢が垣間見える。飽くなき探求心、作曲家に対する敬愛、そして聴衆に対する誠実さ…これらの要素によって「ミスター・パーフェクト」ポリーニが生み出されているのではないだろうか。プログラミングや演奏スタイルこそ変化してきたが、音楽に対する姿勢は現在も変わらない。これからまたポリーニがどのような彼ならではの芸術を届けてくれるのか、非常に楽しみである。
ここからは、おすすめしたい音源をご紹介する。(どれも“名演”であり、選ぶのは恐ろしく難しいことだったのだが、筆者個人の思い入れも含め、5つセレクトした。)
ショパン:練習曲 第3番 ホ長調 作品10の3 《別れの曲》
ポリーニを語る上で、ショパンを外すことはありえないだろう。ショパン国際ピアノ・コンクールを終え、長い沈黙を破った後にリリースされたショパンの「練習曲集」のディスクは全世界に衝撃を与えた。現在、ショパンの練習曲集は多くの素晴らしいピアニストたちの録音が存在し、そのどれもが魅力的であるのだが、私はどうしてもこのポリーニの演奏を聴きたくなってしまう。ショパンが「これほど美しい曲を書いたことがない」と述べた作品10の3の「別れの曲」は、ピアノで“歌う”ことを最大限に突き詰めたといっても過言ではない楽曲。息の長い旋律を響かせながら繊細に伴奏を奏でていくのだが、ポリーニはその音色の美しさ、音と音の重なりのバランスが絶妙である。研ぎ澄まされた響きの中で紡ぎ出される歌の美しさに浸ることができる。
シューベルト:さすらい人幻想曲 ハ長調 D760 第2楽章
シューベルトの歌曲「さすらい人」の旋律を主題とする変奏曲で、悲しみに包まれた楽曲。同時に、様々なハーモニーの変化が魅力的な作品である。ポリーニは曲の悲しみに深く沈みこむことはないが、音楽の変化を繊細に捉え、感情のうつろいを鮮やかに示している。主観的になりすぎないからこそ見えてくる深い内面性が、聴く者の心を打つ。
ストラヴィンスキー:《ペトルーシュカ》からの3楽章 第1楽章:ロシアの踊り
ポリーニはロシア人作曲家の作品をあまり好んでいなかったのか、録音が非常に少なく、これは希少なロシアもの。ストラヴィンスキーの「《ペトルーシュカ》からの3楽章」は、バレエ作品を基にした超絶技巧作品。音数も多く、弦や管楽器などでは何の問題がなくともピアノでは弾きにくい音型も次々にあらわれる。しかしそこはポリーニ。一つの音も漏らさず精確に、そして鮮やかに弾いており、ピアノからオーケストラの響きを見事に紡ぎ出している。またリズム感も素晴らしく、思わず体を揺らしたくなるほど“踊り”が意識されたリズムが刻まれていく。
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15 第3楽章
ポリーニのレパートリーの中でも特に重要なものの一つがベートーヴェン。またポリーニの完璧にコントロールされたタッチと楽曲全体の深い理解は、ベートーヴェンと非常に相性がいい。作品に凝らされた様々な“仕掛け”-楽曲の細かい要素と要素の関連など-が鮮明に浮かび上がってくるのだ。このピアノ協奏曲はベートーヴェンの初期の作品ということで明快な楽曲だが、ポリーニの演奏によって、ただ軽快な楽曲に終始せず、煌びやかさの中にある影など、様々な変化を味わうことができる。
バルトーク:ピアノ協奏曲 第1番 Sz.83 第1楽章
バルトークのピアノ協奏曲の中でも特に難曲として知られる作品で、ピアニスト、オーケストラ共に超絶技巧、切れ味のいいリズム感、音色のコントロールが最大限に求められる。ピアノとオーケストラが非常に入り組んで奏でられるため、聴き手も楽曲を理解するのは容易ではない。しかしポリーニと彼の信頼厚い指揮者であるクラウディオ・アバド率いるシカゴ交響楽団のアンサンブルは完璧なコントロールのもと、旋律、ハーモニー、リズムと様々な要素を鮮やかに浮かび上がらせ、楽曲の内容を眩いばかりに伝えてくれる。特に聴いていて思わず身体を動かしたくなるほどのリズムのキレが魅力的だ。
Written By 長井進之介
■リリース情報
2021年12月15日発売
マウリツィオ・ポリーニ『ベスト』
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