Classical Features
45年ぶりの再録音で音楽の深化と“凄み”を聞かせる、ポリーニのベートーヴェン
イタリアのピアニスト、マウリツィオ・ポリーニ。80歳という年齢を迎えてもなお、ピアノに対する情熱は衰えることを知らず、その演奏は多くの人々の心を打ち続けている。それを体現するディスクがリリースされた。なんとベートーヴェンのピアノ・ソナタ第28番と第29番《ハンマークラヴィーア》を45年ぶりに再録音したのである。
ポリーニの演奏は「磨き上げられた大理石の彫刻や建築」とも評されるが、今回の曲ほどそれがわかりやすく感じられるものはないだろう。第28番はピアノで“歌う”こと、そして第1楽章が途中で回帰するという、幻想曲風のつくりなど新たな挑戦が込められた作品である。一方、第29番は曲の規模の大きさ、ピアノという楽器の限界に挑戦するかのような超絶技巧と凝りに凝った対位法で書かれた作品であり、多くのピアニストが目標として掲げる作品である。
どちらの曲も演奏においては様々な解釈が可能であり、数多のピアニストが録音して奏者の個性の輝きを聞かせてくれている。そしてもちろん同じ奏者でも年月を重ねればその演奏に違いは大きく表れるのだが、ポリーニの今回の再録音ではそれを改めて実感させられた。今回は旧盤と新盤の聴き比べを行ったのだが、まず驚かされたのが演奏時間である。
どちらの曲もすべての楽章において演奏時間が圧倒的に短い。2,30秒はおろか、最も差があるものでは、2分近くの違いが出ている。前回から45年という年月が経ち、ましてポリーニの現在の年齢を考えるとテンポを落として演奏時間が長くなっているのではないかと予想したのだが、まったく違うものとなっていたのだ。そして演奏の内容は当然のことながらより深く濃いものとなっている。順を追ってその違いを述べていきたい。ピアニスト、音楽ライターの長井進之介さんによる寄稿。
ピアノ・ソナタ 第28番 イ長調 作品101
第1楽章(演奏時間 旧3:46、新3:21)
旧盤では透明感のある音色が美しく、旋律を際立たせて楽曲の方向性を明瞭に示しているのが印象的。新盤ではテンポが少し速くなった分、旋律の流れがよりなめらかになっているが楽曲の構造はしっかりと見通された演奏。弦楽器のような柔らかな響きで奏でられる音色が美しく重なり、和声の変化を丁寧に聞かせてくれる。
1977年録音
2022年録音
第2楽章(演奏時間 旧6:13、新5:48)
行進曲のリズムをかなり際立たせ、力強い足取りを聞かせている旧盤に対し、新盤では前に進んでいくことを意識した音楽運びとなっている。テンポ設定の問題だけではなく、リズムの強調の仕方の違いに表れている。決してリズムが甘くなっているわけではなく、音色の濃淡やペダルの使い方などによる変化で生み出されたものであろう。
1977年録音
2022年録音
第3楽章(演奏時間 旧2:45、新2:20)
旧盤の演奏では、奏でられる音の一つ一つの響きに重みが乗っており、全体に重苦しさを漂わせている。続く楽章の華麗さに対する大きなコントラストを生み出す役割も果たしており、この楽章の重要性をかなり意識していることが窺える。対する新盤では重苦しさだけでなく、複雑に揺れ動く感情を示すかのように音色の変化が多用されている。ペダルの使用もかなり細やかで、多様な旋律の歌いまわしとあいまって音の変化が幾重にも重なっている。この音楽のつくり方からは、続く楽章の序奏的な役割を意識した音楽づくりが感じられる。
1977年録音
2022年録音
第4楽章(演奏時間 旧7:24、新6:59)
第3楽章の重々しさとのコントラストを造るように圧倒的な輝かしさを聞かせる旧盤、第3楽章の空気感を受け継ぎながら、徐々に寂寥感や痛みからそれに抗い打ち勝っていく様が描かれていく新盤、どちらも非常に魅力的だが、楽曲全体の有機的なつながり、幻想曲風のつくりを意識したソナタということからすると、新盤の演奏がよりそれを感じさせてくれる。翼を広げて飛び立つような軽やかさを感じさせるタッチもまた魅力的である。
1977年録音
2022年録音
ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106《ハンマークラヴィーア》
第1楽章(演奏時間 旧10:45、新9:31)
改めてこの作品はポリーニというピアニストの魅力を余すことなく伝える作品だと感じた。何しろこの曲は単純に演奏することそのものが難しく、研ぎ澄まされたテクニックとリズム感、そして巨大な楽曲を見通す構築性が求められる。そしてそれを全て持ち合わせているのがポリーニなのである。第1楽章は冒頭のファンファーレが印象的な楽曲で、旧盤では楽器をよく響かせて爽快なスタート。タッチのキレが良く、楽曲を通して音の粒立ちがいい。新盤でもやはり濁りのない音で力強く開始。テンポがさらに速くなっており、とても軽快な印象を与えるが、音色の変化や音同士の“対話”にさらに細かく気を配っており、流れはよりスムーズになっているのにもかかわらず各要素がより立体的に聞こえてくる。
1977年録音
2022年録音
第2楽章(演奏時間 旧2:42、新2:23)
明瞭なタッチで楽曲の魅力を引き出そうとする姿勢は両盤に共通している。この曲のように付点が多い曲では改めてポリーニのリズムの扱いの洗練された演奏が際立ってくるように思う。旧盤と新盤の大きな違いはニュアンスの幅にある。新盤はより音色の変化が多様であり、それを駆使して動機同士の関連性というものがより色鮮やかに浮かび上がってくる。
1977年録音
2022年録音
第3楽章(演奏時間 旧17:12、新15:13)
最も奏者によって大きな違いがあらわれる楽章であり、今回同じ奏者でありながら旧盤と新盤ではほぼ2分という演奏時間の違いがでていることからも、改めてこの曲における解釈の可能性というものを見せつけられることとなった。旧盤では他の楽章の“熱”との対比を意識したのか、かなり冷静な音楽運びである。ドラマ性などはあえて廃し、かなり淡々とした歩みを感じる。透明度の高い音色で、あえて聴く者が様々な解釈をできる余白を残しているような印象も受ける。新盤では歩みの速さ自体はかなり速くなっているものの、旋律の歌い方はかなり血の通ったものとなっており、宗教曲のアリアを思わせるような真摯な歌が聞こえてくる。今回テンポ設定が速められたのはこの声楽的な音楽運びを意識してのことだったのかもしれない。
1977年録音
2022年録音
第4楽章(旧12:20、新11:05)
この楽章でも、前楽章と共通した違いを見出すことができる。旧盤ではタッチのキレ味をかなり意識して、ドライさを感じるほど軽快に音楽を進めていくが、強弱の差はかなり大きく、楽曲の輪郭は明瞭に描き出されている。新盤では前楽章と同じく、“歌”を強く意識させる演奏である。各要素が複雑に絡み合うフーガ楽章であり、非常に複雑な様相を見せるのだが、それぞれの旋律の歌を丁寧に聞かせてくれることで自然なラインで音楽が構築されていく。
新盤ではベートーヴェンの音楽、特にこの《ハンマークラヴィーア》では見逃されがちな旋律の美しさがとても誠実に描き出されている。これには音色そのものの力も大きいだろう。新盤では切れ味よりも響きが意識されており、それがより生命力を感じさせる演奏に繋がっている。
1977年録音
2022年録音
Written By 長井進之介
■リリース情報
2022年12月2日発売
マウリツィオ・ポリーニ『ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第28番&第29番』
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