Classical Features
ラン・ラン、新作『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』について語る最新インタビュー公開
聖トーマス教会で演奏する夢を実現させ、ありのままの自分をさらけ出す状態でバッハと対峙した《ゴルトベルク変奏曲》録音
2020年9月4日にニュー・アルバム『バッハ:ゴルトベルク変奏曲(Bach: Goldberg Variations)』をリリースした世界的ピアニスト、ラン・ラン(Lang Lang)。《ゴルトベルク変奏曲》はバッハが鍵盤楽器のために書いた記念碑的作品で、ピアノ芸術の中でも独自の地位を占める傑作。鍵盤楽器奏者にとってのエベレストと形容されることもあるほどで、最高の技術と音楽性を要求される難曲です。ラン・ランは20年以上の研究を経て今回の録音に挑みました。録音に挑んだ経緯、その想いについて聞きました。
―まず今回の『ゴルトベルク変奏曲』の録音に至った道のりをかんたんに教えて下さい。
録音自体は、実は何年も前から計画していたのですが、これで大丈夫だと100%自信が持てる時期が来るまで、チャンスをずっと待っていたんです。
『ゴルトベルク変奏曲』は音楽的にも技巧的にも非常にチャレンジングな作品ですが、同時にバロック音楽でもあるので、その演奏スタイルを正確にマスターする必要がありました。
今から2年前、有名な古楽演奏家のアンドレアス・シュタイアーと出会い、彼の豊富な知識が非常に参考になりました。シュタイアーはピリオド楽器のフォルテピアノと現代のモダンピアノをどう弾き分けるべきか、とても深く熟知しています。それだけでなく、バロック音楽の装飾音の加え方、カノンの役割、アーティキュレーション、リピートなど、シュタイアーの意見がとても参考になりました。
―17歳の時に、クリストフ・エッシェンバッハの前で『ゴルトベルク変奏曲』全曲を初めて演奏したとか。
私がアメリカでブレイクするきっかけになったシカゴの演奏会(注:1997年のラヴィニア音楽祭において、アンドレ・ワッツの代役としてチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番をエッシェンバッハ指揮シカゴ響の伴奏で演奏した)の後、エッシェンバッハから「協奏曲だけじゃ、まだ物足りない、もっと弾いてもらえるか?」と頼まれたんです。
そうそう、いま思い出しましたよ、客席の中に五嶋みどりさんもいたんです!エッシェンバッハが「バッハは弾けるか?」と訊ねてきたので、「ええ、もちろん。『ゴルトベルク変奏曲』なら多少は」と答え、記憶に頼って全部弾いてしまいました。それが生まれて初めての全曲演奏です。みどりさんにも一緒に聴いていただきました(笑)。
とてもクレイジーな出来事でしたが、エッシェンバッハは「君はこの作品を演奏すべきだ。君のためにあるような作品だから、きっといい演奏になる」と激励してくれました。
―その後、ニコラウス・アーノンクールのレッスンも受けたそうですね。
2006年のことですが、モーツァルトのピアノ協奏曲の録音準備のためにアーノンクールと初めて会いました。
彼の自宅にあったフォルテピアノでモーツァルトのソナタを弾いた後、アーノンクールが「そのフォルテピアノで、バッハを弾いてもらえるか?」と頼まれたので、「もちろん。『ゴルトベルク変奏曲』でよろしいでしょうか?」と答え、いくつかの変奏を演奏したんです。
するとアーノンクールが「この作品を弾くときは、感情をすべて注ぎ込まなければいけない。単にアカデミックに弾くのではダメだ。ベートーヴェンを演奏するのと同じように、この作品も自由に演奏しなくてはいけない」とアドバイスを与えてくれました。
そしてアーノンクールは「音の孤独を表現しなくてはいけない。あたかも、地球上にたったひとり取り残されたようにね」と言うと、指揮をするように大きく手を動かしながら、フレーズを歌い始めたんです。「ワォ!バッハをこんなにロマンティックに演奏できるなんて!」と驚きました。
―プロジェクトの準備として、かつてバッハがオルガン奏者を務めていたアルンシュタットの教会も訪れたとか。
できるだけ『ゴルトベルク変奏曲』の本質に迫りたいと思ったからです。
アルンシュタットの教会には、バッハが弾いたバロック・オルガンが当時のまま残っていて、教会のオルガニストが、当時のスタイルでオルガンを演奏してくれました。もちろん、バッハ自身がどのように弾いたのか、正確なことは誰にもわかりませんが、残されたメモや記録に基づいて当時のサウンドを再現してくれたんです。「ワォ!これがバッハの音なんだ。こんなふうに響くんだ!」と感心しました。
アルンシュタットでは、ライプツィヒの著名なバッハ学者と話す機会もあり、多くの貴重な資料を見せてもらいました。例えば、バッハの作曲環境ですが、彼は静寂に包まれた部屋の中で作曲していたわけではないんですね。まるで、子どもたちが大勢集まるパーティーのように、つねに誰かが何か音楽を奏でている環境の中で、あれだけの作品を作曲していったのです。とても興味深いですね。
―今年3月5日には、バッハ自身が眠るライプツィヒの聖トーマス教会で『ゴルトベルク変奏曲』をライヴ収録しましたね(注:デラックス盤のCD3/CD4に収録)。
本当に素晴らしい体験でした。バッハが眠る墓のすぐそばで演奏したのですが、この時ほど作曲家の存在を身近に感じたことはありません。
聖トーマス教会での演奏は、私の夢だったんです。これまで、ずっとバッハを尊敬してきましたが、同時に畏怖の念も抱いていました。ショパンやチャイコフスキーの演奏には、恐れを感じません。しかしバッハの場合は、彼に近づこうとすればするほど、本当に正しい方向に向かっているのか、自信が持てなかったのです。
でも、今回のプロジェクトに集中することで、なんとしてもやり遂げなければという使命感に駆り立てられました。音楽的にも精神的にも、逃げ場はどこにもありません。ありのままの自分をさらけ出す状態で、バッハと対峙することになりました。そういう意味で、今回のプロジェクトをやり遂げることができ、非常に名誉なことだと思っています。
―その後、ベルリンでスタジオ録音に臨んだのですか?
直後ではなく、さらに2週間を費やして練習を重ね、作品をより深く研究しました。
その結果、スタジオ録音ではライヴの時から変更した点がいくつかあります。テンポをかなり変えましたし、個々の変奏のコントラストも明確になっています。
スタジオ録音では、最初に一度、通し演奏を録音し、その後、納得がいくまで変奏ごとにテイクを重ねていきました。スタジオ録音には、まる4日間と半日を費やしました。
―演奏にあたっては、いくつかの版の楽譜を用意したそうですね。
基本的にはヘンレの原典版に基づいて演奏していますが、ベーレンライター版、それからいくつかの興味深いアイディアが含まれているシャーマー版なども参照しました。
今回の録音に際して、楽譜は全部新しいものを買い直したんです。今まで所有していた楽譜は、あまりにも書き込みが多すぎて音符が読めない状態だったので、過去の書き込みはいったん全部忘れ、白紙状態で楽譜に臨むことにしました。できるだけ新鮮な気持ちで曲に向かいたかったんです。
―演奏に10分以上を費やした第25変奏に、圧倒的な感銘を覚えました。
私自身も大好きな変奏です。全曲の中でも最も演奏が難しい、いわばハイライトのような変奏ですね。
最初のアリアを弾き始めてから第25変奏が登場するまで、『ゴルトベルク変奏曲』は約1時間をかけて音楽をレンガのように積み上げていくのですが、第25変奏になると音楽の積み重ねが止まり、下降し始めるのです。
チェンバロの鍵盤上ではそれほど広く感じませんが、右手の高いD音から左手の低いG音まで音域が一気に下がっていくのは、まるでジェット・ローラー・コースターで急降下していくみたいです。しかも、この低いG音は全曲の中で一度しか登場しない「たった一度の孤独なG音」なのです。その一度限りのG音の存在が、最大限の効果を生み出していると思います。ある意味で、第25変奏はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第29番《ハンマークラヴィーア》の第3楽章「アダージョ・ソステヌート」――あの曲も演奏に20分を要しますが――に通じる要素を備えた曲と言えますね。
第25変奏以外で私が好きな変奏は、9つのカノンです(注:第3、6、9、12、15、18、21、24、27変奏)。作品全体の屋台骨のような役割を果たしていると思います。カノンがなければ、ゴルトベルク変奏曲はこれほどマジカルな作品にならなかったかもしれません。9つのカノンは、全曲の中でピラミッドのように構成されています。100%バランスがとれていて、隙がない。この作品と、他のすべての変奏曲を分け隔てる最大の特徴は、カノンの存在だと思います。他の変奏曲には、カノンはありませんからね。それが、『ゴルトベルク変奏曲』という作品の秘密だと思います。
―では最後に、日本のファンに向けたメッセージをお願いします。
今回の『ゴルトベルク変奏曲』の録音が、日本の皆様の希望や心の糧となりますよう、心から望んでおります。現在のコロナ禍の状況が改善され次第、出来るだけ早く日本を訪れ、皆様に『ゴルトベルク変奏曲』の実演をお聴かせ出来ればと願っております。日本の皆様、どうかご家族と共に健康に留意しながらお過ごしくださいませ。
Interviewed & Written By 前島秀国(サウンド&ヴィジュアル・ライター)
ラン・ラン『バッハ: ゴルトベルク変奏曲』
2020年9月4日発売
デラックス・エディション 限定盤(スタジオ録音+ライヴ録音):MQACD x UHQCD 4枚組
スタンダード (スタジオ録音):SHM-CD2枚組
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